1 夢と現実
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「ヘレナ、僕と結婚してほしい……」
そう言って彼はベルベットの小さな箱をパカっと開いた。
そこには彼の瞳と同じ宝石のついた指輪が入っていて、とても素敵だった。
彼の顔を見るとその美しい瞳が、かすかに揺れていた。
不安になる事なんてなにもないのに……。
「――――、もちろんよ!」
彼は緊張から解き放たれて、満開の花のような笑顔を浮かべ、目尻には涙が光っていた。きっとたくさん考えてくれたんだわ。
ボートから目線を落とすと、美しい湖面が日の光に照らされて、キラキラと光っていた。
彼は私の手を取り、そのきれいな唇をそっと落とした。こんなしぐさも洗練されていて、私の心拍数を跳ね上げた。
そして顔を上げる彼と目が合う。
彼はとてもハンサムで、その瞳には熱がこもっていた。
心臓がさらに高鳴る。私たちはどちらともなく手を取り合い、指を絡めた。
あたりは私たちの呼吸さえ聞こえてしまう程静かで、鳥のさえずり、木々の揺らめく音、水面を打つ音が耳に心地よかった。
世界には私達しかいないのではないかと思う程、幻想的な光景だった。
「愛してるわ、――――」
私は愛しい人の名前を呼んだ……。
ジリリリリ……。
けたたましい音とともに現実に引き戻され、機械質な目覚まし時計を触り、音を止めた。
ベッドに座り、大きく伸びをした。
うん、私は今日も元気だ。
ベッドの端に座り、刺繍入りのサテン生地のスリッパをはいた。
ベッドサイドには木製の花模様が型押ししてある、小さなテーブルが置いてあった。いかにも私が好きそうな家具だ。
その上には紙が置いてあり、私はそれを手に取った。
『私は今28歳、独身。刺繍で生計を立てている。
今は王都のタウンハウスに住んでいる。
10年前に事故で頭を打って、月に一度病院に通っている。
侍女のアリスは結婚して、夫婦で住み込みで働いてくれている。
二人は一階に住んでいるので、何かあったら呼ぶ。
朝食が終わったら、仕事のデスクを見て今日やることを確認し、作業に入る。
お昼を食べたら午後も作業をする。
夕方ミモザ商会のアスラーさんという男性が訪ねてくる。その人に、完成した物を渡し、次の依頼の紙をもらう。
明日の自分に何か伝達事項があれば、ベッドサイドのテーブルにメモを残す』
私は一通り読み終えて、その紙を再びベッドサイドの小さなテーブルの上に戻した。
私の頭はなんだかはっきりとせず、霧がかかっている。昨日のことを思い出そうとしても、何もわからない。思い出す鍵すら見つからないのだ。
だから、部屋のあちこちにメモを残す。
私はそれを頼りに生きている。
人が当たり前のように記憶できることが、私にはできない。わかったと思っても、次の瞬間全く思い出せないことばかりだ。
唯一家族と侍女のアリスだけは覚えている。私は16歳の学園入学以降の記憶がない。
最近の出来事は全くといっていいほど覚えていない。毎日が初めましての事ばかりだ。
コンコンと扉がノックされ、洋服に着替えたアリスがひょこっと顔を出した。
「おはようございます、ヘレナ様!」アリスが部屋に入ってきた。
私の記憶のアリスの面影はあるが、すっかり大人の女性だ。彼女は私より10歳年上で、昔から私の侍女をしてくれていた。
「おはよう、アリス。いい天気みたいね」今日はとか、今日もとか言いたいが、昨日の天気も覚えていない。
アリスが出窓の所まで行き、カーテンを開けてくれた。眩しさから、目を細める。
「はい、とーっても良い天気ですよ!」
「では、朝の支度しましょうか!」
「うん、お願い……」
鏡台の前に座った私は、大人びた自分と対面した。
背はそんなに高くなく、中肉中背を維持しているようだ。血色の良い肌の色に、高くない鼻、少し厚みのある唇、瞳は水色だ。首から下に目線を落とすと、なかなか成長したのが窺えて少し鼻が高くなった。
ブロンドヘアは相変わらずくせっ毛で、少しウエーブがかかり毛先がはねていた。
前髪を見るとその下に何か凹凸が見えた。少しくせのある前髪を上げると、そこには古い傷があった。かなり大きな傷で、眉毛の少し上から生え際に向かって大きく伸びていた。
古いのにしっかりと主張したその傷を指でなぞる。ボコボコとしていて、肌触りが悪かった。
かなり大きな事故だったようね……。「はぁ……」と朝からため息をつく。
なるほどね、28才にもなって独身なんて、どうしてかしらって思ったけど、こんな傷物じゃあ、貰い手がなかったわけね。
私きっと毎朝こう思ってるのね……。なんだかそれがおかしくなり、小さく笑った。
「どうかしましたか?」
「ううん、大丈夫よ。少し面白くて……」
アリスが不思議そうに顔を覗きこんできた。アリスは細身で背が高く、スタイルが良い。髪と瞳はこげ茶色で、彼女をさらに落ち着いて見せた。10年経ってもこの体形を維持してるなんて流石だわ。私も見習わなきゃいけないわね。
「アリスは誰と結婚したの? あ、これもしかして毎朝聞いてる?」
「そんなこと気にしないで下さいね! 気になった事はなんでも聞いてください! 私はヘレナ様のお屋敷で働いていたコックのオリバーと結婚しました。今は彼が食事の支度や、雑務をこなしてくれていますよ」
「そうなのね! オリバーさんと結婚したの。すごくお似合いね! オリバーさんずっとアリスの事好きだったものね」
アリスが頬を赤らめて、微笑んだ。まるで少女のようでかわいらしい……。
幼い私でもわかるほど、オリバーさんはアリスに好意を抱いていた。
私が王都の学園に入る前、アリスはそんな彼にそっけなかったから、そのあと付き合う事になったのかしら……。
あれ……、私学園には行ったのかしら……。卒業もしたのよね……?
脳内をぐるりと見回しても、それらしい答えは持ち合わせていなかった。
本当に何も思い出せない……。私は深いため息をついてしまった。
「さぁ、エレナ様! 今日はなんのお洋服を着ますか?」
洋服が掛けてあるところを見ると、水色や若草色、淡いピンク色の花柄のワンピースがたくさんかけられていた。
どれも私が好きな色とデザインが並んでいた。
「どれも素敵で悩んじゃうわ!」
そうでしょうとでも言わんばかりに、アリスが誇らしげな表情をした。
「今日もいらっしゃると思いますが、こちらにあるお洋服はすべてミモザ商会のアスラー様からの贈り物ですよ!どれも、一級品です!」
ミモザ商会のアスラ―様……? 知らない商会だけど、アスラー様は……。
一瞬心がざわついた気がしたが、特に思い出せることもなかったので、気のせいだろう……。
「そうなのね? お仕事のお仲間なのかしら?」
私がそう聞くと、アリスが少し眉を下げた。
「そう……ですね。ヘレナ様の刺繍作品を取り扱ってくださっていますから。お洋服はそのお礼にと贈って下さっています」
なるほど! きっと商会の方だから、年配の男性なのかもしれないわ。
お会いしたら、ちゃんとお礼を言わないと。
「じゃあ、その若草色のお洋服にするわ!」
ドレスと違って、コルセットもなく家で過ごすにはちょうどよいワンピースだった。後ろがレースアップになっていて、そこは自分では出来ないのでアリスにお願いした。
いつまでもアリスに甘えるわけにもいかないから、自分で出来ることはしないとね!
コンコン……。ベッドルームの隣は作業部屋になっている。その扉がノックされた。
私は指示された通り、色とりどりの花の刺繍をもくもくと進めていた。
刺繍は大好きだから、これで生活できるなんて夢のようだ。
「ヘレナ様! 作業途中で申し訳ありません。ミモザ商会のアスラ―様がいらっしゃいました」
いけない、もうそんな時間なのね! 没頭するとすぐに時間の感覚がなくなってしまうから、困るわ。
糸だらけのスカートを急いではらい、髪も手でさっと整えて「どうぞ」と返信した。
「失礼します」と言ったのは、艶のある少し低めの声だった。
私の心臓がピクっとはねた。どうしちゃったのかしら……。私は胸元を手で押さえた。
扉が開かれ、光沢のある革靴に上質なスーツを着た背の高い若い男性が立っていた。
程よい長さの黒い髪は後ろに流され、大人の色気が漂っていた。綺麗な二重まぶたに鼻筋が通っていて、唇の形まで良かった。そんな美しい紳士の黒い瞳と視線がぶつかった。
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