全国編・北海道①-ジンギスカン-
食べるという行為は、生きることとほとんど同じ意味を持つ。
だが「生きるために食べる」だけでは、何かが足りない。
時に、人は食べることで世界を味わい、心を取り戻す。
一皿の料理の中に、季節や土地や人の記憶が詰まっている。
この物語は、そんな“食べること”に人生をかけた男の話である。
名前は——西川内剛。(にしかわうち たけし)
彼にとって料理とは、戦いであり、祈りであり、そして表現だ。
街で香りを嗅げば走り出し、味を想像すれば鍋を振る。
食べたいと思えば、その瞬間からもう料理は始まっている。
彼の休日は、誰よりも熱く、誰よりも美味しい。
その一皿が、彼にとっての人生そのものだから。
晴れた休日の午前。
街はまだ冬の名残を抱えながら、どこか柔らかく光っていた。
遠くの山々には雪が残り、屋根の縁では氷柱が溶けてしずくを垂らしている。
札幌の街を吹き抜ける風は冷たい。
けれどその奥に、確かな春の匂いが混じっていた。
俺、西川内剛は、今週もまた一週間ぶりの自由を手に入れた。
ホテルの窓を開けると、透明な空気が流れ込んでくる。
朝の光はやさしく、昨日までの疲れをゆっくりと溶かしていくようだ。
ベッドの上で背伸びをしながら、
「さぁ、今日は何を食べようか」と呟いた。
外に出る。
白い息がふっと風に流れた。
観光客もまばらな午前の大通公園を抜けて、足の向くまま歩く。
時計台を横目に見て、北の街のリズムを感じる。
静かで、穏やかで、それでいてどこか芯のある空気。
ふと鼻をくすぐる匂いがあった。
風の合間を縫って届く、香ばしく甘い香り。
焼けたタレの焦げる匂い。
冷たい空気の中で、その匂いだけがやけに温かかった。
——ああ、あれだ。
記憶の奥が反応する。
炭火、肉、タレ、煙。
もう、それ以外の選択肢はなかった。
「……ジンギスカン、だな。」
自然と足はすすきのへ向かっていた。
ビルの谷間を抜けると、小さな店先から白い煙が上がっている。
金網の上で音を立てて跳ねる肉。
その周りに集う人たちの笑い声。
それを見ているだけで、胸の奥が少し熱くなる。
スーパーに入る。
精肉コーナーに、堂々と「北海道産ラム」と書かれたパックが並んでいた。
色の濃い赤身。
脂の筋が細く走り、見ただけで鮮度がわかる。
それを手に取り、
玉ねぎ、もやし、タレをかごに入れる。
レジの袋を握る手に、少しだけ重みを感じた。
それが、今日の確かな目的の証だった。
宿に戻る。
小さなホットプレートを取り出し、準備を始める。
ラム肉を皿に並べると、肉の香りがすでに立ち上る。
タレをかけて、少し寝かせる。
甘辛い香りが空気に染みていく。
その間に野菜を刻む。玉ねぎを輪切りにし、もやしを軽く洗う。
プレートを温める。
鉄の表面が白く煙を上げる瞬間、心のスイッチが入った。
油を垂らし、ラムを一枚、焼く。
——ジュウウッ。
音が空間を支配した。
たった一枚の肉が、世界を変える瞬間。
油が弾け、タレが焦げ、香りが弾く。
玉ねぎを横に並べ、もやしをその上にのせる。
すべての音が調和する。
料理というより、音楽に近かった。
肉を返す。
表面がこんがりと焼け、脂が透明に輝いている。
そのまま口へ。
「ッス……いただきます。」
噛んだ瞬間、脂の甘みが広がった。
羊特有の香りが鼻を抜ける。
その奥にある、草の匂いのような、命の香り。
それを包み込むタレの甘辛さが、やさしくて力強い。
「……うまい。」
熱が喉を通り抜け、体の芯まで届く。
冷たい空気の中で、内側から温まっていく。
この土地で食べるからこその味。
北の大地が、ひと口ごとに自分の中に沁みていく。
皿が空になるまで、夢中だった。
タレの一滴まで、箸で掬って飲み干した。
「ッス……ご馳走様でした。」
プレートの熱がまだ少し残っている。
鉄の匂いと、肉の香りが混じって、部屋の空気はまだ“食事の途中”みたいだった。
窓を開ける。
外の空気は冷たく、頬に刺さる。
だが、体の内側はもう、ぽかぽかと燃えている。
遠くで雪を溶かす川の音が聞こえる。
旅の始まりを告げる音のように感じた。
——さぁ、次は何を食べようか。
閲覧ありがとうございます。
あの独特な鍋、油を落とす工夫がすごいですよね。




