善意の連環
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交差点にて
朝から小雨が降っていた。
佐伯慎一はスーツの袖を気にしながら、急ぎ足で交差点を渡ろうとしていた。取引先との打ち合わせに間に合わなければ、また上司に叱責される。心臓は鼓動を早め、信号が青に変わるのを待ち構える。
そのときだった。横断歩道の手前で、一人の老人が足をもつれさせ、荷物ごと道路に倒れ込んだ。買い物袋の中身が散乱し、ミカンが転がっていく。
「大丈夫ですか!」
思わず声が出た。
周囲の人々は足を止めかけて、すぐに視線を逸らした。雨で道も混んでいる。面倒事を避けるように流れは続く。
佐伯は迷った。助ければ会議に遅れる。だが、目の前の老人は苦しげにうめきながら立ち上がろうと必死になっている。
次の瞬間にはもう、佐伯は膝をついていた。
「手、貸しますよ」
濡れたアスファルトに手を差し伸べ、老人の腕を支えて立ち上がらせる。買い物袋も拾い集め、肩に掛けてやると、老人は何度も頭を下げた。
「すまんねぇ、すまんねぇ……」
「いえ、気にしないでください。足元、気をつけて」
老人の足取りを見届けてから、佐伯は慌てて走り出した。結果として会議には十分遅れ、上司に白い目で見られた。
だが、その日の夜。遅れてオフィスを出た彼の胸の奥には、不思議と後悔のない温もりが残っていた。
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病院の待合室
老人――田中義男は、整形外科の待合室で順番を待っていた。膝が弱り、転ぶことも増えた。だが今朝、見知らぬ青年に助けられたおかげで、まだ世の中は捨てたものではないと感じている。
「すみません、あの……」
不意に横から声をかけられた。
若い母親が、泣き叫ぶ幼児を抱え、困り果てていた。
「診察券を落としたみたいで……子どもが暴れて、探せなくて……」
母親の目は涙ぐんでいる。周囲の視線が冷ややかに刺さる中、田中は腰を上げた。
「待ってなさい、わしが探してあげるよ」
床に落ちたカードを見つけ、母親に手渡すと、子どもに向かってにっこりと笑う。
「お母さんは大変だねぇ。泣かなくて大丈夫だよ」
子どもは泣き止み、母親は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます……」
田中は胸の奥がじんわりと温かくなった。あの青年に助けられた自分が、今度は誰かを助けられた――そのことが、妙に嬉しかった。
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スーパーにて
母親――美咲は、三歳の娘を抱えてスーパーに立ち寄った。シングルマザーとして必死に働く日々。先ほど病院で助けてもらった温もりを思い出しながら、かごに必要最低限の食材を入れてレジに並ぶ。
前に並んでいたのは、制服姿の高校生。
「えっと……財布、忘れたかも」
顔を真っ赤にして、レジの前で立ち尽くしている。周囲から小さな笑い声が漏れる。
美咲は迷わなかった。
「これ、一緒に払いますよ」
驚いた顔で振り向いた少年に、微笑む。
「でも……!」
「大丈夫。困ったときはお互いさま」
ほんの数百円だった。それでも少年は何度も礼を言い、深々と頭を下げた。
娘が「お兄ちゃん、がんばってね」と小さな声で言うと、少年の目は潤んでいた。
――自分も支えられて生きている。だから今度は支える側に回る。
美咲の胸は、不思議と軽くなっていた。
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夜のコンビニ
高校生――悠斗は、手に握ったコンビニの袋を抱えながら外に出た。雨が強まり、傘も持っていない。だが、先ほどの女性に助けられたことが胸に残っている。
「困っている人を見たら、今度は自分が助けよう」
そう心に決めていた。
駅前のベンチで、スーツ姿の男が雨に濡れながらうずくまっていた。傘もなく、スマホを見つめてため息をついている。
悠斗は迷わず声をかけた。
「これ、使ってください」
差し出したのは、自分の持っていた折り畳み傘。
「え……?」
顔を上げた男は、疲れきった表情のサラリーマンだった。
「僕、すぐ帰るんで。気にしないでください」
笑顔を残して走り去る。
男は呆然としながら傘を開いた。
そして気づく――それは今朝、自分が交差点で助けた青年、佐伯慎一だった。
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