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強心臓の薄幸令嬢は疎まれても憎まれても気にしない

作者: 高見 雛

「使用人は全員クビにします。ルシール。今後はお前が一人でわたくしとスカーレットの世話をなさい」


 出会って数日の継母ミレイアは片側の口角をグイっと上げて、目を細めて私を見下ろした。


 継母の隣にいる若い女性は彼女の連れ子、スカーレット。

 私より一つ上の十八歳。


 二人とも猫のような吊り目と華やかな顔立ちをしている。

 艶やかな金髪が特徴的で、社交の場では目を引くことだろう。


 彼女たちに比べると、私の容貌は地味で貧相だ。

 ありふれた栗色の髪に、朽葉色の瞳。背格好は小柄で手足も棒きれのように細い。


 ただ、子どもの頃から自然の中を駆けまわって育ったので、足腰と腕力は同年代女性の中では相当に鍛えられている方だと思う。


 そんな私の背後では、幼い頃から長く世話をしてくれている使用人たちが固唾を飲んで見守っている。


「お父様はこのことをご存知なのですか?」


 伯爵家当主である父は、領地から遠く離れた王都へ出向している。

 社交シーズンに入るまでの間は、彼女たちとの三人暮らしになる。


「旦那様はわたくしの好きにして良いと仰ったわ」


 思ったとおり。

 父は私に興味がない。何なら、視界に入れたくないほどに嫌悪している。


 私の顔が母と瓜二つだから。


 実の母は、私が十歳の頃に別の男性と恋に落ちて駆け落ちした。

 相手は隣の領地の三男で、二人は貴族の身分を剥奪されたらしい。

 今はどこでどんな暮らしをしているのか、生きているかさえも知らない。


「分かったら、今すぐに仕事に取りかかりなさい。着替えは使用人部屋に予備があるでしょう?」


 自分がこの屋敷の女主人であることを知らしめたいのか。

 それとも、私の存在が疎ましいのか。


 おそらく両方だろう。


 私は背筋を伸ばして継母に向き直った。

「お義母かあ様」


 百歩譲って、私が下働きの身になるのを受け入れたとしても、

「なぜ、彼らから理不尽に仕事を奪おうとなさるのですか?」


 これまで誠実に愛情深くセリグマン伯爵家に仕えてくれた人たちを切り捨てるのは我慢がならない。


「人件費削減のためよ。今はまだ領地経営が順調でも、今後どうなるか分からないもの」

「遊ぶ金欲しさの解雇ですよね?」


 私は努めて声を張り、笑顔を浮かべた。


「なんですって?」

「来たる社交シーズンのために、今から王都で豪遊するお金を貯めておきたいのでしょう? スカーレットお義姉様の婚活もあるでしょうし、何かとご入り用になりますものね。美しく着飾るために」


 継母の美しい流線形を描く眉が大きくわななく。

 一方の義姉は、大きく目を見開いて私を凝視している。

 大人しそうな私の外見から、この反抗的な態度は想像がつかなかったのかもしれない。


「使用人を解雇するということは、今日から私がお義母様たちのお食事を作るということになりますが……本当によろしいのですか?」

 私は小首をかしげて継母を見上げた。

「ええ、もちろん。旦那様から聞いているわ。あなた、料理の腕はそこそこ立つそうじゃない」


 娘を嫌悪している父でも、一応は私の得意なことを把握しているらしい。

 母がいなくなった後、父から疎まれて屋敷に居づらくなった私は、父が滅多に足を踏み入れない厨房に入りびたり、料理人たちに教えを請うたのだ。


「お作りする分には構いませんが、私がお二人の命を握ることになりますよ?」

「何が言いたいのかしら?」


「私がお二人のお食事に毒を盛ることは想定していらっしゃいませんか? ここまであからさまに敵意を向けられたら、命を狙われても文句は言えないと思います」


 私は笑顔を浮かべたまま、溌溂とした口調で不穏な言葉を並べた。

 他者の目には、私が気のふれた人間に見えることだろう。


「わたくしたちを脅すつもりかしら。生意気だこと。毒薬を隠し持っていると言うのなら、今すぐお前の部屋を検分して処分しなくてはね」

「私の部屋に毒薬なんてありません」

 即座に否定すると、継母は「ほらごらんなさい」と言わんばかりに目を細めた。


「ですが、屋敷の庭には毒草と呼ばれる植物がいくらでも自生していますから。スープに混ぜ込むのとパンに練り込むのでしたら、どちらがお好みですか? 香草焼きのようにして、綺麗な盛り付けでお出しすることもできますよ」


「ひえっ」と小さく声をあげたのはスカーレット。

 自分が毒を盛られる場面を想像してしまったらしく、透き通った白い肌を通り越して顔が青い。

 対する継母はとても豪胆な女性のようで、怯むことなく私を睨みつける。


「それならば、毎食お前に毒見を命じます」

「では、あらかじめ解毒薬を飲んでおきますね。私だけ」

 最後の言葉を強調するように力をこめて微笑み返す。


 子どもの頃に初等教育を施してくれた家庭教師は動植物にとても詳しい人で、勉強の合間に庭に出てはありとあらゆる植物や野鳥、昆虫について教えてくれた。

 さらに独学で書物を読みふけっているうちに、薬草と毒草の見分け方や、昆虫のおいしい調理法まで習得した。

 父にも使用人たちにも秘密にしているけれど、今では病気に効く治療薬や解毒薬などを調合することができる。


「もう結構。お前には屋敷の掃除を命じます。ただし、わたくしの部屋とスカーレットの部屋に立ち入ることは禁じます」

 いつ毒を盛るとも知れない私に部屋の掃除などさせたくない、という意思が汲み取れた。

「それでは、使用人の皆さんはこれまでと変わらず働けるということですね?」


 継母の無言を肯定の意と捉えた使用人たちは、そろって胸をなで下ろした。

「ルシールお嬢様、ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」


 ひとまず、彼らの生活を守ることができて安心した。

 職を失って困るのは本人たちだけではない。彼らにも家族がいる。


 そして、継母にことごとく楯突いた私は屋根裏部屋で暮らすことを命じられたのだった。



     ☆



「あなたって、図太い神経しているわね」


 掃除を終えて、それなりに住めるように整えられた屋根裏部屋の古いソファで、生成りのワンピースを身にまとった派手な顔立ちの美女がくつろいでいる。


 スカーレットお義姉ねえ様である。


 屋根裏部屋に追いやられた私のもとへ使用人を数人引き連れてやってきた彼女は、なぜか自分も一緒になって部屋の掃除を手伝ってくれた。

 おかげで、埃だらけの腐海だったこの部屋が小さなお城のように様変わりした。


 使用人が運んできてくれたお茶菓子を挟んで、私はスカーレットお義姉様と差し向かいに座っている。


「だって、侵略者は叩き潰さないと。自分の身は自分で守るものですから」

「その発想が貴族令嬢じゃないのよ」


 たしかに、普通の令嬢なら他者に助けを求めることも難しい環境では、ただ耐えながら部屋の隅で泣くしかないのだろう。

 でも、人に助けを求めたところで誰も助けてくれないことを私は知っている。


 母が出て行こうとした時、私は必死に止めた。

 行かないで、そばにいてと泣いてすがった。


 母は聞く耳を持たず、私を置いて出て行った。

 父も、使用人たちも、親戚も、誰も私の願いを聞き届けてくれなかった。


 だから、自分で自分の望みを叶えられるように、力と知識、技術をつけようと決めたのだ。


 元傭兵の庭師から剣術と乗馬を教わった。

 家庭教師から教わった知識と独学で薬の精製法を覚えた。

 料理人から一通りの調理法をすべて教わった。


 自分の力で生きていけると示すことができたら、いつか父も私に目を向けてくれるかもしれない。

 セリグマン伯爵家の跡取りとして認めてくれるかもしれない。


 つい最近まではそう思っていた。

 父が再婚し、スカーレットお義姉様が長女となった今、私に跡取りとしての価値はない。


 私は、優雅な仕草でティーカップに口をつけるスカーレットお義姉様をに視線を向けた。

 伏せられた金色の長い睫毛が人形のように美しい。


「図太い、とは違いますが、スカーレットお義姉様も芯の強い方だと思いました」

「私? どこを見てそう思うの?」

 カップを置いたスカーレットお義姉様は不思議そうに首をかしげた。 


「お義母様の発言に対して、お義姉様は一度も賛成の意思を見せなかったので。いわゆる腰巾着的な立ち位置の方は、半歩後ろで『そうよそうよ!』と追従するものでしょう?」


「変な小説の読みすぎじゃない? 私はあなたが憎いわけじゃないもの。あと、私はお母様の腰巾着じゃないわよ」

 スカーレットお姉様は、胸元にかかったゆるやかな金髪を指先に絡めながら視線を斜め上へ向けた。


「お母様はあなたが憎いんじゃなくて、あなたと同じ顔をした女性が憎いのよ」

「それは……私を産んだ母親のことですか?」

 スカーレットお義姉様はうなずいた。


「お義父様を捨てて他所の男と逃げた彼女を恨んでいるわ」

「それって……?」


 てっきり、スカーレットお義姉様にセリグマン伯爵家を継がせたくて私が邪魔なのだと思っていた。

 継母の憎しみの矛先は、私の想像とはまったく別のところにあったのだ。


「お母様とお義父様は若い頃、ひそかに想い合っていた。お互いの気持ちを知ったのは、それぞれが別の相手と政略結婚した後だそうよ」


 継母は、秘めた恋心を押し殺して家のために結婚した。

 その結果、私の父は母に逃げられ心に深い傷を負った。


「お義母様って、高慢で辛辣で血も涙もない残忍な性格かと思っていましたが、純情な方なんですね……!」

「ルシール。それ、お母様に直接言ったら殺されるわよ」

 苦虫を噛み潰したような表情のスカーレットお義姉様の言葉を流して、私は胸の前で両手を組んで深く息を吐き出した。


 なるほどなるほど。

 

 継母あらため、お義母様はセリグマン伯爵家にとって侵略者ではない。

 父を幸せにするために舞い降りた天使様なのだ!


「お母様に思うところがあるとはいえ、こんな狭い屋根裏部屋に追いやってしまったこと、下働きをさせてしまうことは悪いと思っているわ」

 考え込んでいた私は、スカーレットお義姉様の真摯な言葉をまったく聞いていなかった。


「スカーレットお義姉様!」

「な、何よ?」


「お義母様には王都へ行っていただきましょう!」

「王都へ? あなた、お母様をここから追い出すつもり?」


「そうではなくて。両想いのお二人が長い年月を経てようやく結婚に辿り着いたんです。新婚夫婦水入らずで過ごしてほしいと思いませんか?」


 私に対して苛立ちを募らせながらこの屋敷で暮らすより、華やかな王都で愛する人と二人っきりで過ごす方がきっと幸せで楽しいはず。


「それもそうね……。でも、領地経営はどうするの? 私はまだこの土地の勝手がわからないから、下手に手出しができないわ」

「そこはお父様に相談しましょう。私の手紙は読まないと思うので、交渉はお義姉様におまかせしてもよろしいですか?」


「もちろん構わないけれど……。あなたとお義父様の軋轢は相当に根深いのね」

「年季が入っていますから」


 私があっけらかんと笑い返すと、スカーレットお義姉様は「笑うところじゃないのよ」と眉根を寄せて言った。

 なんだかんだ、彼女はとてもいい人だ。


「まずは、お父様とお義母様に幸せな暮らしをしてもらうことが最優先です。スカーレットお義姉様、一緒にがんばりましょうね!」

「出会ってまだ日が浅いけれど、あなたを見ていると自分の悩みがとてつもなく小さく思えてくるわ」


 スカーレットお義姉様のつぶやきを、私は正面から誉め言葉だと受け取って笑みをこぼした。



     ☆



 半月後、お義母様は父からの手紙をとても大事そうに携えて王都へと旅立った。


 相変わらず私へ向ける眼差しは鋭く冷たいけれど、理由が分かれば何も怖くない。

 それどころか、時折垣間見える乙女のような表情は可愛らしかった。

 いくつ歳を重ねても、恋心は女性を美しくするものだと思った。


 お義母様が出発すると、スカーレットお義姉様は使用人たちと話し合って私を下働きの身から令嬢へと戻してくれた。


 部屋も、屋根裏部屋から元の部屋へ引っ越すことになった。

 不思議なもので、半月も寝起きしていると狭い屋根裏部屋に愛着が湧いて、去るのが名残惜しいと思えてしまった。

 それは、スカーレットお義姉様があの部屋を綺麗に掃除して過ごしやすいように整えてくれたから。


 母と別れ、父に疎まれ、兄弟もいない、一人ぼっちだった私にとって、スカーレットお義姉様は唯一心を開いて甘えられる相手になりつつあった。

 まるで本当に血の繋がった姉妹のよう。




 そして今、お義母様と入れ替わりでこの屋敷を訪れた人物が、私たちの目の前にいる。


「セリグマン伯爵の代行に任命されました、ジェイラス・ジャービスと申します。若輩者ゆえ至らない点が多々あるかと存じますが、ご指導のほどよろしくお願いいたします」


 銀髪碧眼の見目麗しい青年は、胸に手を当てて優雅にお辞儀をした。


 ジャービス侯爵家の次男、ジェイラス様。

 セリグマン伯爵家とは遠い親戚にあたる一族で、ご当主の侯爵様は父と幼馴染みである。


 私も、とても小さい頃に一度だけジェイラス様と顔を合わせたことがある。

 当時のことはほとんど覚えていないけれど。


 父が王宮での勤めを終えるまでの間、セリグマン伯爵家の領地経営の代行をしてもらう運びとなった。

 ジェイラス様は、普段は王都で貴族の子女の家庭教師をしているらしい。

 領地の仕事を助けてもらえるのはとても心強いけれど、こんな僻地へ呼び寄せてしまって申しわけない。


「ご無沙汰しております、ジェイラス様。遠路はるばるお越しいただき感謝を申し上げます」

「ルシール嬢、お久しぶりです。以前お会いした時よりもますますお美しくなられましたね」

 社交辞令とはいえ、美形の笑顔と誉め言葉は破壊力がすさまじい。心臓も緊張してしまう。


「ジェイラス様、ご紹介いたしますわ。義姉あねのスカーレットです」

 お客様を出迎えるのにふさわしいドレス姿で、スカーレットお義姉様は思わずため息が漏れるほどに美しい所作で淑女の礼をとった。


「お初にお目にかかります。スカーレット・セリグマンと申します。このたびのご来訪に、深く感謝を申し上げます。まずは、ごゆりと旅のお疲れを癒してくださいませ」

「初めまして、スカーレット嬢。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 スカーレットお義姉様とジェイラス様の視線が交わると、ただの応接室が舞踏会の広間であるかのように華やいで見えた。

 美と美の相乗効果に、私は心の中でひそかに興奮した。


「早速ですが、セリグマン伯爵領の現状についてお教えいただけますか?」

 ジェイラス様の求めに応じるように、家令が素早く前へ進み出た。


「執務室へご案内いたします」

「ありがとうございます」

 家令はメイドに執務室のお茶の用意を言いつけると、ジェイラス様を誘導して部屋を出た。


「とても仕事熱心な方ですね、お義姉様」

「ええ、そうね……」

 見ると、スカーレットお義姉様はどことなく浮かない表情をしていた。


「ねえ、ルシール。なぜお義父様が、ジェイラス様をセリグマン伯爵家へ呼び寄せたか分かる?」

「とても優秀な方で、ご実家の領地経営に携わった経験もおありだからと聞いていますが」


 すると、スカーレットお義姉様はドレスのポケットから一通の封書を取り出した。

 施されている封蝋はセリグマン伯爵家の紋章。

 父からの手紙だ。


「私が読んでもいいんですか?」

 スカーレットお義姉様がうなずくので、私は差し出された封筒をおそるおそる受け取った。

 便箋を取り出して開くと、見慣れた父の筆跡で短い文章が数行書かれていた。


「お義姉様、これは……」


 父は、スカーレットお義姉様とジェイラス様の結婚を望んでいる。

 ゆくゆくは、ジェイラス様を伯爵家の後継ぎにと考えている。

 ジャービス侯爵様もご承知で、今回の領主代理は花婿修業の一環である。


「セリグマン伯爵家の人間になってまだひと月も経っていないというのに、これほど早く結婚話が来るとは思わなかったわ」


 スカーレットお義姉様は、社交シーズンに向けてダンスと行儀作法のレッスンを集中的に受けている。

 実父が亡くなり、領地の維持が難しいことから取り潰しとなった子爵家出身のお義姉様は、良家の子息との結婚は難しいと思っていたらしい。

 社交界で素敵な殿方を見つけるために、美貌を磨き教養を深める努力をしていた。


「お姉様の日頃の努力を、お父様が見てくださっていたんですよ。おめでとうございます」

「ねえ、ルシール。もしも私がジェイラス様と結婚したら、あなたはどうなるの?」


「私ですか? 今と変わらない生活をしていると思います。お義姉様たちが伯爵家を継ぐのなら、私が結婚する必要はないので」


 でも、スカーレットお義姉様の言いたいことはきっと違う。

 お義姉様が心の中に抱えている思いを想像しながら、私は言葉を並べた。


「たとえば、私がお義姉様たちの暮らしの邪魔になるとお父様が判断した場合、私は伯爵家を出て行きます。平民になって一人で生きていきます」

 父が今後の人生を幸せに送るためには、私はいない方がいい。


「あなた、何を言っているか分かっているの?」

「この家を捨てた実母と同じ生き方になるのでしょうね」

 恋人と逃げた母親と違って、私は一人きりになるけれど。


「ふざけないでちょうだい!」


 スカーレットお義姉様は声を荒らげ、私の手から手紙を奪い取った。

 ……と思ったら、封筒をグシャリと握りつぶした。


「私、お義父様の言いなりになる気はないし、あなたに勝手をさせる気もないわ。見ていらっしゃい」


 そう言い捨てて、スカーレットお義姉様はドレスの裾をひるがえして部屋を出て行った。

 お義姉様付きのメイドたちが慌てて後を追う。


 私はしばらくの間、茫然とその場に立ちつくしていた。



     ☆



 翌朝。


 ニワトリが鳴くよりも早い時間にスカーレットお義姉様に叩き起こされた私は、お義姉様の見立てた服に着替えさせられ、メイドたちの手で髪と肌の手入れを念入りに施された。


 半ば寝ぼけている頭では思考が追いつかず、されるがままに身を任せていると、いつの間にか食堂へ移動していた。寝ぼけたまま歩いていたらしい。


「おはようございます、ルシール嬢」

「あっ、おはようございます。ジェイラス様。昨晩はよくお休みになれましたか?」

「はい。皆様のご歓待のおかげでとても気持ちよく眠れました」


 すでに席についていたジェイラス様は、わざわざ起立して出迎えてくれた。

 男性からそのような振る舞いをされたことがないため、つい恐縮してしまう。


 ジェイラス様に促されて座ったところで、スカーレットお義姉様の姿がないことに気付いた。

「スカーレット嬢は勤勉な方ですね。こんなに早い時間から領地の視察に行かれるなんて。僕も見習わなくてはいけませんね」

「視察? お義姉様がですか?」


「戻られるのは三日後だそうです」

「三日も!? 日帰りではないのですか?」


 先日まではお義母様が父の代理で何度か領地の視察へ出向いていたけれど、スカーレットお義姉様が同行したことは一度もない。

 お義姉様が領地経営に無関心だったわけではなく、お義母様の期待に応えるためお稽古事に勤しんでいたためだ。

 空いた時間を使って、執務室にある領地の資料に目を通していたのを見たことがある。


 だからといって、こんなに突然、私に何も言わずに出かけるのは妙だ。


「実は、今日はスカーレット嬢にお願いして屋敷周辺の道案内をしていただくつもりだったのですが……。ご迷惑でなければ、ルシール嬢にお願いできますか?」

「…………」


 私の脳裏に、昨日のスカーレットお義姉様の怒りに満ちた表情が浮かんだ。

 父の言いなりになる気はないと。


(まさか)


 スカーレットお義姉様は、王都の屋敷まで父に会いに行ったのではないか。

 縁談を断るために。


(それならご本人に直接お断りをすればいいんじゃ? でも、そんなことをしたら怒って帰ってしまわれるかも……? 領地経営の仕事に支障が出るから……ということかしら? スカーレットお義姉様、私は何をすれば……?)


 混乱しながらも、私は背筋を伸ばして微笑んだ。

 今優先すべきことは領地経営。領民たちの生活を守ること。現状維持だ。


「もちろん。私でよければ、喜んでご案内させていただきます」

「ありがとうございます」

 ジェイラス様から屈託のない笑顔を向けられ、私は胸が痛んだ。


「ところで、ジェイラス様は……その、義姉と……」

「スカーレット嬢との婚約の件ですか? 父から聞いています」

 言い淀む私に、ジェイラス様は明朗な口調で返した。


「今回は、お断りするつもりでここへ来ました」

「えっ!?」


 私が聞き返すと、ジェイラス様は慌てて胸の前で手を振った。

「違うんです! けっして、スカーレット嬢が不服だとかそのようなことではなく!」

 私より三つ上の二十歳だと聞いていたけれど、うろたえる姿が少しあどけない。


「僕は嫡子ではないので家督を継ぐことはできません。功績をあげて爵位を賜るか、婿入りをすることで貴族として生き残るか、平民として市井で暮らすか。選択を迫られています」


 ジェイラス様の境遇を聞いて、私は自分と通じるものを感じた。


 セリグマン伯爵家はスカーレットお義姉様と、夫になる男性が後を継ぐ。

 次女の私は社交界で良家の嫡子に見初められるか、平民として一人で生きていくか、修道院に入って神様に身を捧げるか。


「セリグマン伯爵からの縁談は、とてもありがたいと思いました。今もこうして僕を信用して、仕事をまかせてくださっていることも」


 私たち二人とも、前菜のスープが置かれているのにも気づかないまま会話を続けた。


「今回のお話を受けることは、セリグマン伯爵のご厚意を利用した甘えなのではないかと思いました」

「婚約をお断りするのは、ジェイラス様がご自身を律するため……ということでしょうか?」

 言葉を選んで問いかけると、ジェイラス様は恥ずかしそうに微笑んだ。


「失礼を承知でお尋ねしますが、ジェイラス様はご自身の今後の身の振り方についてはお決めになられていますか?」

「ルシール嬢は、聞きにくいことをはっきり聞く方ですね」

「す、すみません」

 苦笑するジェイラス様に、私はわずかに目を伏せた。


「以前、お会いした時と何も変わっていませんね」

 思いがけない言葉に顔を上げると、ジェイラス様は春の陽だまりのように優しげな眼差しでこちらを見ていた。


「あの……大変言いにくいのですが、幼かったので以前お会いした時の記憶がまったく……」

「それもそうですね。僕が当時七歳くらいでしたから。ルシール嬢が覚えていないのも当然です」

 ジェイラス様はおかしそうに笑った。


「では、僕が覚えている範囲でお話ししますね。ただし他言無用です。僕たち二人だけの秘密の話ですから」

 人差し指を立てて唇に添えるジェイラス様に、私は無言でうなずいた。


「あれは国王夫妻が主催されたお茶会で、幼い子女たちに同年代の交流を経験させるのが目的の集まりでした」


 ジェイラス様の語り口が私の記憶の底を優しく撫でてくれるような感覚。


 そうだ。たしか、晴れた夏の日だった。

 父の連れられて初めて王宮へ行った日。

 同じ年頃や少し年上の貴族の子どもたちがたくさん集まっていた。


「僕は庭園の中で迷ってしまったんです。そこで、一組の男女が密会……いえ、誤解を招きますね。密談というか、話し合いをしている場面に遭遇しました」

 ジェイラス様の口調から察するに、いわゆる男女の逢瀬ではないらしい。


「そして、その男女を物陰から覗いている女の子がいました」

「え、それってまさか」

「ルシール嬢です」


 なんということか。

 まさか、王宮で覗き行為をしていたなんて。

 はしたない。私は頭を抱えた。


「会話の内容は詳しく聞き取れませんでしたが、女性が知人の男性に『忘れられない相手と再会してしまった』と相談しているような雰囲気でした」


 隠れて相談するということは、その女性はすでに婚約者か夫がいる身なのだろう。


「子どもながらに、見てはいけない場面に遭遇したなと思ったんですが、物音を立てるのが怖くて僕はその場から動けませんでした。男女が立ち去るまで身を潜めようと思っていたら、ルシール嬢が彼らの前に飛び出したんです」


 嘘でしょう?

 四歳の私、何してるの?

 私はふたたび頭を抱えた。


「ルシール嬢は女性に向かって言いました。『好きなら好きって言えばいいのに』と」


 命知らずにもほどがある、四歳の私!!


「男女はすぐにその場を立ち去ってしまいましたが、その女性は十数年という年月を経て『忘れられない相手』と結ばれたそうですよ」

「そうなのですか?」

「女性は夫と死別し、相手の男性は妻と離縁したことで、二人は再婚に至ったと聞きました」


 よかった。四歳の無知で愚かな私が不貞行為を助長したわけじゃなくてよかった。

 私が安堵していると、ジェイラス様はクスリと笑った。


「ルシール嬢がよく知る人たちですよ」

「え?」


 ぽかんとする私に、ジェイラス様は「内緒ですからね」と釘をさしてから続けた。


「ミレイア夫人と、お相手はセリグマン伯爵です。」

「え? えっ? お義母様……? えっ!?」


 頭の中でもやのかかった記憶が少しずつ晴れていく。


 背丈の小さな子どもにとっては深い森のような庭園の生垣。

 色あざやかな花のまぶしさに目がくらみそうになりながら、緑の迷路を駆けていく私。

 すらりとした佇まいと上質な装いの男女が、つらそうな表情で何かを話している。

 金色の髪をした、猫のような愛らしい瞳の女の人は、声を震わせていて。


「あの時の……? あれがお義母様……?」

 幼い頃の私の覗き行為がきっかけで、父とお義母様は結ばれたということ?


「これは伯爵から聞いた話ですが、ミレイア夫人は当時のことを鮮明に覚えておいでだそうですよ。あの時、恥ずかしいところをルシール嬢に見られてしまって、今も顔を合わせづらいのだと」


 私に下働きをさせていたのは、恥ずかしくて屋敷の中で顔を合わせたくなかったからということらしい。

 そのことについては、父が「やりすぎだ」と諫めたらしいと、ジェイラス様が話してくれた。


 冗談とはいえ、「食事に毒を盛ってやろうか」と脅したことを今になって後悔した。

 お義母様はさぞかし怖い思いをしたことだろう。


「短い間とはいえ、ルシール嬢はかなりご苦労をされましたね」

「いいえ、ちっとも。働くことは苦じゃないので」


 そんなことより、お義母様の不器用ツンデレぶりが可愛すぎて、私の中で愛おしさが激増している。


「それと、これは僕の父から聞いた話なんですが、セリグマン伯爵はルシール嬢を疎んでなどいません。前の奥様との離縁後は、どのようにルシール嬢と接したらいいか分からずにずっと悩んでいらっしゃるそうです」

「まあ……」


 父もただの不器用だった。

 色々な話を一度に耳に入れたせいか、情報過多で頭がどうにかなりそうだ。

 もう笑うしかない。


「ありがとうございます、ジェイラス様。おかげで家族との長年のわだかまりが解消されそうです」

「僕は何も。聞いた話をこっそりお伝えしただけです」

 

 私たちはようやく、冷めてしまったアスパラガスのスープにスプーンを入れた。

 冷製スープだと思えばとてもおいしくいただける。


「先ほどの質問にお答えしていませんでしたね」

 主菜の皿が運ばれてくる前に、ジェイラス様が口を開いた。


「僕は将来、侯爵家から離籍して市井で学校を開きたいと考えています」

「学校を?」


「現在、王都にある初等学校は貴族か富裕層の平民しか入学を許されていません。一人でも多くの子どもたちに学ぶ楽しさと、将来の選択肢をたくさん得てほしい」

「すごいです。素晴らしい計画ですね!」


 私は思わず身を乗り出した。

「その時はどうか、私を教師として雇ってください! 勉学も剣術も乗馬も、子どもに教えられそうなものは一通り習得していますので!」


 市井で働くなら、これまで積み上げてきたものを発揮できる仕事がいい。

 私は食い気味に頼み込んだ。


「大変ありがたいお申し出ですが、今ここでお約束するのはちょっと」

 調子に乗って出過ぎた真似をしてしまった。

 ジェイラス様は困ったような笑みを浮かべている。


「きちんと準備が整ってから正式にお願いしに参りますので、それまで待っていただけますか?」

「それって……?」


「ひとまず、予約という形で」

「はい、喜んで!」


 ジェイラス様の微笑みに、私は胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。

 他人から必要とされることがこんなに嬉しいのだと、生まれて初めて知った。


「ところで、ルシール嬢は十三年前のあの日、僕の存在って……認識していましたか?」

「すみません……まったく」


 あの日のお義母様の姿は思い出せるけれど、記憶の奥を探ってもジェイラス様らしき男の子は思い出せなかった。

 どこかの場面で父に連れられてジャービス侯爵様にご挨拶したのだろうけれど、ジェイラス様の記憶はどこにもない。

 私はいたたまれない思いでうつむいた。


「では、これから先、あなたが忘れることのできないように僕の記憶を刻ませてもらいますね」

「……と言いますと?」


「僕にとって、あの日からあなたが『忘れられない相手』ですから」


 私たちの前にそれぞれ主菜の皿が置かれる。

 今朝は鯛のバターソテーだった。柑橘のソースの爽やかな香りが鼻先をくすぐる。


「まずは手始めに、毎日求婚してみようかと」

「…………はい?」


 何を言われたのか分からず、頭の中が真っ白になった。


「ルシール嬢。僕の妻になっていただけますか?」

「え? あの、なに……えっ!?」


 何がどうしてどうなっているのか、まったく理解できない。

 急展開すぎでは?


「返事は急ぎません。明日も求婚しますので」

 茫然とする私の向かいで、ジェイラス様は美味しそうに料理を口に運んでいる。


 三日後、父と話をつけたスカーレットお義姉様はすがすがしい表情で帰ってきた。

 結婚相手は自分で探すと啖呵を切ったらしい。


 そして、今日も私はジェイラス様から挨拶のついでのように求婚されている。



     ☆



 私が毎日の求婚に心を絡め捕られて降参したのが、それから二年後。

 ジェイラス様と一緒に王都の下町に初等学校を開いたのが、さらに三年後。


 二人の間に新しい命を授かった頃、ジェイラス様は教育の分野においての功績を称えられ、国王陛下から勲章と伯爵位を賜った。


 自分の幸せを掴むために日々努力を重ねていたスカーレットお義姉様は、なんと第二王子殿下に見初められ、現在は宮廷で忙しい毎日を送っている。


 そして、実家の両親はもちろん愛に満ちた幸せな日々を過ごしている。





 おわり


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