第三十五章:紫の上の胸の内
明石の姫君が屋敷に迎えられてからしばらくの間、表面上は何事もなく日々が過ぎていた。
紫の上は変わらず優しく、穏やかに接していたし、明石の姫君もまた、慎ましく振る舞っていた。
けれど、俺にはわかっていた。
紫の上の心が、少しずつ曇っていることに──。
◇◆◇
ある日、俺は紫の上のもとを訪れた。
「最近、あまり話せていなかったな」
紫の上はいつもの微笑みを浮かべた。
「そうでしょうか? 光の君がお忙しいだけでは……?」
その言葉は、どこかよそよそしく感じられた。
「紫の上……本当は、無理をしていないか?」
「無理などしておりません」
彼女は微笑んだまま答えた。
けれど、その微笑みがどこか張り詰めていることに、俺は気づいていた。
◇◆◇
「明石の姫君は、とてもお優しい方ですね」
ふいに、紫の上がそう言った。
「光の君が、あの方を大切に思われるお気持ちも、よくわかります」
「……紫の上」
「私も、できる限りあの方に良くして差し上げたいと思っております」
言葉だけを聞けば、何の問題もない。
でも、その声音には、どこか寂しさが滲んでいた。
◇◆◇
(紫の上は、ずっと俺だけを見ていた)
彼女は、俺がどこかへ行っても、誰と過ごしても、決して俺を責めることはなかった。
それでも、今回ばかりは──
「……お前の気持ちを、もっと聞かせてほしい」
俺がそう言うと、紫の上はふっと目を伏せた。
「……私は、ただ……」
その先の言葉は、結局最後まで聞くことはできなかった。
◇◆◇
紫の上の心に生まれた小さな影は、まだかすかなものだった。
だが、俺にはそれが、次第に広がっていくような気がしてならなかった。




