第一話 気持ち悪い
「うっ……」
この臭い無理。何? この体臭といろんな香水が強烈に混じった臭いは……。
いいえ、今までも嗅いだことがある臭いです。しかし突然気分が悪くなるほど臭く感じました。
そうムカムカと……ムカムカ? 臭いでムカムカ? ……あら? もしかして……これは……あの女、最後の最後で手を抜きましたわね!
「聞いているのか! アンリローゼ!」
「聞いていますわ。陛下」
今はそれどころでは無いほど気分が最悪ですわ。何が私の悪行ですか。何が国庫の金を使い込んでいるですか。その金を使い込んでいるのは、陛下の隣の女ですわよ。
はい。ただいま私は断罪中です。
多くの貴族の前に連れ出されて、玉座から私を見下ろしているのが、私の夫である皇帝陛下。
そして、私といえば下段に用意させた椅子に偉そうに足を組んで、扇を目の前に広げて、しかめっ面であらぬ方向を見ているのです。
ピンクゴールドの髪をゆるく巻いて、派手な赤色のドレスに、キツめの化粧が金色の瞳に映え、正に悪役皇妃さながらの姿をしています……が、その内心と言えば……。
吐きそう……早くこの部屋から出たいです。いっそのこと、ここで吐けば強制退出できるのでは? いいえ、そうすると後々面倒なことになりますわね。
声をかけられたので、仕方なく玉座に視線を向けます。黒髪の男が赤い目を私に向けていました。
つまらない男になってしまったわね。昔の方が人らしさがあったもの。まぁ、大人になり周りがつまらなくしたのでしょう。
本当の悪女は貴方の隣で、大きなお腹を抱えている女ですわよ。
しかし今の私にはどうでもいいこと。吐くか、吐くか、吐くかが頭の中で巡っています。
早く出ていきたいです。
「ええ、なんてくだらない話かと、あくびが出そうですわ」
「くだらないだと?」
本当にくだらない。そもそも私はシャルレーン聖王国の者で、ハイフェード帝国の者ではないのです。どうやって勝手に国庫の金に手をつけられるというのでしょう。
「それに何でした? 孤児誘拐殺害に、どこぞかの令嬢の殺害に、騎士の殺害まで罪状をあげておいて、メリーエディラ側妃への虐め……ふふふ、それだけの人殺しが側妃には虐とは、同一人物の行動としては、一貫性に乏しいですわね」
何も関係のない者たちを簡単に殺すものが、一番目障りないけ好かない女に対してだけ虐めとは、この罪状を上げたものの幼稚さを見せつけるようなものです。
「陛下……私、アンリローゼ様が恐ろしくて言い出せなかったのですけどー……何度も毒薬を盛られたことがあったのですぅー」
ふん! 私に毒薬を盛り続けたのは貴女の方でしょう。メリーエディラ。
私のことが恐ろしいと言わんばかりに震えながら皇帝に身体を寄せている十五歳ほどに見える女を扇越しに視線を向ける。本当の歳は二十五だったかしら? 浅はかな女。男に媚を売ってその地位まで上り詰めた女。
さて、その腹の子はいったい誰の子なのかしらね。まぁ、私にはどうでも良いことですわ。
「後出しですか? メリーエディラ様。まぁ良いですわ。それで判決として、どこぞかの伯爵のところに嫁に行けですか」
「不服というのは聞かん」
「いいえ、逆ですわ。それだけの罪状を上げておいてヌルいですわね。私なら『魔の森』で魔物に食われて死ねと言っているところですわ。ふふふ、まさか屋根のある場所でぬくぬくと暮らしていいとは、陛下はお優しいのですね」
扇越しに見る二人の態度が分かれましたね。
皇帝陛下は、動揺をあらわにして、誰かを探すように視線を巡らせています。そしてあの女はニヤリと口角を上げました。
「そうしましょう! 陛下! アンリローゼ様を『魔の森』に追放しましょう」
「いや、それではシャルレーン聖王国との……」
「言い訳なんて、なんとでもできるではないですかぁー。アンリローゼ様のわがままで『魔の森』に行ったとでも言えばいいのです」
「アンリローゼはグラヴァート伯爵に嫁す。これは決定事項だ」
そう、決定事項ですか。まぁ何でもよろしいですわ。ここからさっさと出られるのであれば。
「わかりましたわ。それでは後ほど必要書類を私の部屋に届けてくださいませ」
そう言って私は椅子から立ち上がる。この場にとどまるのはもう限界ですわ。
「お待ちなさい! アンリローゼ様。貴女の部屋などもうありませんわよ」
「何を言っているのですメリーエディラ様。私を罪人だと言うのは証言者のみで、物的証拠が何も出されていないのです。いわゆるこれは言いがかり、それで私を罪人だと決めつけるのは冤罪といもの。私が皇帝陛下の元を去るのは、結婚して三年も経つのに子供ができなかったということ。この一点のみでの離縁です。ですから書類上の皇妃はまだ私であることをお忘れなく」
有無を言わせないように早口かつ威圧的に言い、そのまま退出します。物的証拠も無しに人を殺人扱いするなど、冤罪も甚だしいものです。
しかしこのシナリオは二人の方が書いたようですわね。傀儡なみの愚かさを見せつけるだけとなりましたね。皇帝陛下。本当に貴方はこの帝国を治める器でなかったこと。
くっ! 廊下も臭い。どうして今まで感じなかったのか不思議なぐらいです。足早に歩いていると数人の者が私を追いかけてくる足音が聞こえます。
「アンリローゼ皇妃様! お待ち下さい!」
私の名を呼ぶ者がいますが、そんなものは無視です。
「アンリローゼ皇妃!」
「大きな声を出さなくても聞こえていますわよ。護衛騎士如きが私の邪魔をするものではないと何度も言わせないでほしいわ」
私に追いついて、斜め後ろを歩く護衛騎士に言う。非常識なのは皇妃である私であることは重々承知。しかし、私は敢えて言うのです。私の邪魔をするなと。
「城内でも護衛は必要だと、私の立場から何度も言わせていただきます」
ええ、わかっています。そうでなければ護衛騎士の意味がありません。
「だったら、黙ってついてくればいいこと」
「それでは護衛の意味がないと何度言えばよろしいのですか」
「あら? もう私の護衛などなさらなくてよろしいでしょうに。グラヴァート卿、体よく私を押し付けられたのですもの」
そう、私の護衛騎士の一人が先程皇帝陛下から名が挙げられたグラヴァート伯爵です。本当に、この男は食えない。何度私の邪魔をしてきたことか。
「押し付けられたなど心外でございます。私はアンリローゼ様を心からお慕いもうしております」
その言葉を聞いて私は足を止め、広げていた扇をパチンと閉じて、斜め後ろに突きつけます。
「それを皇妃である私に堂々と言う神経のなさを、いい加減に自覚しなさい」
ここは私の私室ではなく、人が行き交う廊下です。日頃からこのようなことを堂々と言うこの男。これも計算の内だと理解しておりますが、お陰で私が何人も男を囲っているとかいう根も葉もない噂が立つのです。それにグラヴァート卿が私の愛人だとかクソみたいな噂もです。
まぁ、如何せん見た目がいいのが、ありもしない噂が立つ原因となるのでしょう。金髪碧眼の見た目がいい上に、常に笑みを浮かべているこの男。城で働いている女性たちから人気らしいですが、私には胡散臭い笑顔にしか見えません。
「もちろん。自覚はありますよ。私ほどアンリローゼ様を想っている者はいないと自負しております」
「職務に忠実だと言い換えなさい」
「どちらでも同じことです」
「ちっ!」
私は舌打ちをして、自室に戻るために移動を開始します。本当に何度私の邪魔をされたことか。
私の趣味は別人の姿になって、こっそりと下街に行くことなのです。下街はその国の影と言っていい場所。
何に問題があるのか、解決できることなのか、根本的に何かを変えるべきなのか。
という建前の元。私は私の計画のために下街を徘徊していたのです。しかし数時間後には別の用事を言いつけていたグラヴァート卿が現れ、私は皇城に連れ戻されるのです。
職務に忠実というのであれば、私自身の行いが逸脱していることを理解していますので、素直に受け止めましょう。しかし毎回この男は、『敬愛する』とか『お慕いする』とか『傾慕する』とか紛らわしいことを言いやがるのです。
私の立場は聖王国から嫁いできた者です。皇妃という立場である以上、愛人などややこしい存在は私の計画では邪魔でしかありません。
私は自室に戻り、長椅子のクッションに寄りかかるように座ります。
「湯冷ましをいただける?」
「え? 紅茶ではなく湯冷ましですか?」
部屋付きの侍女に言って、湯冷ましを出すように言う。しかし、病人でもないのに湯冷ましとはどういうことだと思われたのでしょう。やはり聞き返されました。
「気分が悪いのよ! 香りがない湯冷ましがいいの」
「それならリラックス効果が……」
「貴女。私が飲みたい物も用意できないのかしら?」
「す……直ぐに用意をいたします」
私は威圧的に命じ、有無を言わせずに用意をさせます。わがまま皇妃。それが周りから見た私の姿です。
はぁ、自室に戻って吐き気が収まってきました。ここに来て計算外とは、私の計画が狂ってきています。
「流石にアンリローゼ様でも、皇妃という立場を追われるのは堪えますか?」
クッションにうなだれる私に視線を合わせるように、直ぐ側で傅いているグラヴァート卿からの言葉を鼻で笑います。
「ふん。私の気分の悪さは、あの女の頭の悪さからよ」
「メリーエディラ側妃様はいつもとお変わりがなかったと思われます」
あの女がいつもと同じなのは同意します。もっと頭を使いなさい。
勝利を確信したのか、何故に最後に手を抜いたのです。今まで私に避妊薬を盛っておいて、自分が妊娠したとわかったら、私への攻撃に手を抜くなんて詰めが甘い。
いいえ、念の為庶民の避妊薬を飲んでいましたが、所詮下街で手に入れた民間薬。効き目がなかったということです。
それに陛下も陛下です。あの女を気に入っているのなら、律儀に私の元に通って来なくていいのです。十回中十回追い返して、まさかの妊娠。
意味がわからないですか? 五回に一回は皇妃の職務を全うしろと、陛下の部屋とつながる扉からやってくるのです。鍵をかけているにも関わらずです。
まだ弱いですが、私ではない魔力が下腹部にあるのを感じます。
色々困りますわ。
私は、私の顔色をいつもの胡散臭い笑顔を浮かべながら窺っているグラヴァート卿に視線を向けます。
今、妊娠がわかると絶対に離婚が受理されません。そして、グラヴァート卿の元に嫁いでも皇帝の子を身ごもっているとわかれば、ここに戻される可能性があります。
私が以前から計画していたことを実行に移すにしても、私以外の魔力がある状態で、大量の魔力を使うことになる計画を直ぐに実行するというのは難しいです。
ということは、離縁ののち、グラヴァート卿の目を欺いて逃亡し、かつある程度の日数を稼ぐ必要があります。そうですね。五日……いいえ三日でもいいです。
可能か不可能か。
逃亡は可能ですが、私の行動パターンを把握され変装を見破る慧眼を欺くのは、五分五分でしょうか。
かなり作戦を練らないと無理そうですわね。
「本当に大丈夫ですか? 寝室にお運びをしましょうか?」
「結構よ。一人にしてくれればそれでいいわ」
「駄目ですよ」
「他の護衛騎士なら置いていいわ」
「そう言われて、何度皇城からお一人で出ていったのですか?」
「あら? 簡単に私の術に陥る護衛騎士が未熟なだけでしょう?」
「しかし、お陰で私はアンリローゼ様を独り占めできるのですから、役得ですね」
「部下を育てられないグラヴァート卿の落ち度を正当化しないでほしいわね」
「それは騎士団長に申しておきます」
最終的責任は騎士団長でしょうが、私の護衛騎士をまとめているのはグラヴァート卿ですよ。と言い返そうとしたところで、私は視線を別の方向に向けます。
そこにはトレイの上にティーカップを載せて、ガタガタと震えながらこちらに向かってくる侍女の姿があります。
「どうぞ」
長椅子の横にあるサイドテーブルに置かれたティーカップの中には、紅色の液体が入っています。臭いからすれば、いつも好んで飲んでいるローズヒップティーですが、別の臭いも混じっています。カモミールですか。
私はティーカップを手に取り、ソーサーの中にボトボトと紅色の液体を落とします。
「これが湯冷ましというのかしら? 私が言った言葉も理解できないの?」
正に、悪役皇妃のように威圧的に侍女に無能を指摘します。それに萎縮する侍女。
「もういいわ。下がって」
手を振ってこの部屋から出ていくように促す。そして未だにいる目の前のグラヴァート卿に再び視線を向けた。
「貴方も下がっていいわ。一人にしていただける?」
「それは護衛としてはできかねます」
「あら? 別の護衛でいいのよ?」
私はそう言って立ち上がる。気分の悪さは回復してきました。そして、奥の部屋に向かうべく、移動します。
「ですから、別の護衛だとその目を簡単に欺かれて困ると言っているのです」
「簡単に欺かれる出来損ないが悪いのよ」
私の後ろから付いてくるグラヴァート卿。私の目くらましを見破るからこそ、私を押し付けられるようになったと思わないのでしょうかね。
奥の部屋の扉を開けようと手を出せば、先にグラヴァート卿が入り、何事もないことを確認してから、私に入ることを促してきました。
真面目なのはよろしいのですよ。そう仕事に忠実なのはです。
「問題はありません。麗しいアンリローゼ様。扉を開けるぐらい私に命じていただければよろしいと言っているではありませんか」
普通に『問題ない』だけでよろしいのです。麗しいなどいらないのです。
しかしいちいちこれに文句を言っても直らないので、無視をして部屋の中にはいります。室内は壁が戸棚に埋め尽くされ、中央にはダイニングテーブルが置かれています。
そして、壁の一部分にキッチンが備え付けられていました。私のわがままで作った部屋です。ここには誰も入らないようにしているのです。しかし、そこにいるグラヴァート卿が口うるさく護衛の意味がないと言ってきたので、護衛騎士のみ入れるように条件設定された部屋です。
この国の誰もが信用できない。だからこそ作った部屋です。ここが私の仕事部屋です。ほぼ部屋から出なくても仕事ができるようにキッチンを備え付けました。
というか、この部屋にグラヴァート卿が堂々と入ってくるので怪しい噂が立つのです。