月の桃 3
「さて、どうしましょう」
「僕たちに残されているのは、この桃だけですね」
「そうだな。食ってみるか」
華寿海がナイフを手に取った。
「三等分は難しいので、まず二等分するのがいいでしょう」
「分かった」
「フォーク使う?」
「ああ、貰う」
「そういえば華寿海、貴方は桃を食べたことがあるのですか?実の季節は夏でしょう?」
「まぁ、春の終わりに実をつける木もあるしな。何度かはある」
「そうなんだ。華寿海は桃好き?」
「そうだな」
曖昧な返事で、きっと桃が好きなのだと分かる。
そうして華寿海が真っ二つに割った桃には、種が入ってなかった。
「種が無いですね」
「これも『不思議』のうち?」
「うーん、そうでしょうね…」
あんなに不自然だったのに、切られた瞬間から桃は生き物に変わる。
皮も、種もない桃。
僕たちは地に足を付け、奇妙な冗談だけが浮かんでいる。
桃の代わりの石。
種の代わりの無。
「向こう側に石があったらさ、蘭滋さんは石を食べる?桃を食べる?」
そう言うと、蘭滋さんは驚いた顔をしていた、と思いきや、すぐににこやかな笑顔に変わる。次の瞬間には大声で笑い出した。
「っははははは、そうですよね、はははっ」
「蘭滋さん?」
「…何だ急に」
蘭滋さんの笑いが収まるまで、僕たちは少し待っていた。
「本当に憑かれたんじゃないよね」
「ああ、いつものことだろ」
「ははは、絵都君、最近南の方へ行きました?それか華寿海以外の神の面白い話を聞いたとか」
「ううん。行ってないよね?面白い話も…」
「ああ、特に聞いてないな」
「そうですよね」
「いやぁ…これは、絵都君を通して与えられたインスピレーションでしょうか」
「え?」
「……やめろ」
「やはり絵都君は、神様に近いのですね」
「『やはり』って…」
「……」
「もちろん、華寿海と一緒に居るからでしょうね」
——絵都さんは半分ほど神様になりかけています
——絵都さんには知られたくなさそうでしたが、私が今教えてしまいました
華寿海が僕には知られたくないと思っていることがあって、でも僕はそれを知っている。
華寿海がどうして黙っているのかは分からない。それを知ったところで、僕はどうすることも出来ないから。
「確かに、距離は近いかも?」
「ふふ、そうですね」
僕も、黙っているしかない。
「ああ、すごい。じゃあ食べましょうか」
「何を?」
「ああ、僕は『石』を。いや?この場では『月』のほうが素敵ですかね…?」
「ああ、そうだ」
一瞬、蘭滋さんが沈黙した。その一瞬で、反響もないこの広い空間の存在を思い出す。蘭滋さんが来てからは、この空間について考える暇はなかった。
「すみません、僕は間違ってたみたいです。反対側に石はきっとありませんね」
「『冗談』じゃなかったの?」
「じゃなかったみたいです」
「頼むから説明してくれ」
「ええ。ですがその前に、」
「ここに強い神の気配があるというのは確かですか?」
「ああ、今もこっちの様子を伺ってるぞ」
「これは、神の御業でしょうか?」
「そうだろうな」
「分かりました」
「では、その神の前で全て言ってしまうのは野暮でしょう。帰ってから説明しますから、ここでは一つだけ言います。声を出さず、聞いてみて下さい」
黙って頷いた。
「僕たちは今から『これ』を食べます。『これ』は神様が用意してくださいました」
蘭滋さんは桃を指さして、僕と華寿海を交互に見た。
「もし、永遠が欲しかったら『月を食べて』ください。永遠が欲しくなかったら『桃を食べて』ください」
「……え?」
思わず声が漏れた。
「僕たちは、月の光を浴びたために狂ってしまいました。今なら月だって食べてしまえるんですよ」
蘭滋さんが、口元で人差し指を立てた。
「僕は永遠の命が欲しいので、『月を食べ』ます。こんな奇妙なところに招かれて、時間が余計欲しくなりました」
そう言いながら、蘭滋さんは華寿海が切り分けた桃をふた切れ、自分の皿に運んだ。
僕たちが固まっていると、蘭滋さんが小声で囁いた。
「この物体をそう呼ぶだけで良いです。美味しいものを食べて、さっさと帰りましょう」
永遠が欲しいか、欲しくないか。
そんなことを考える時が来るなんて思わなかった。
僕は、「永遠」をよく知らない。
華寿海は、僕に永遠を知ってほしいだろうか。
……
僕は人間だ。
永遠は、不自然だ。
「知ることが出来ないことは、知ろうとしなくて良い」
きっと、同じことだ。
「僕は、『桃を食べ』るよ」
「…!それは驚きました。勿体ないですねぇ」
口惜しそうな言葉とは裏腹に、蘭滋さんは心底面白そうに話す。
僕も『桃』を皿に移す。蘭滋さんのように上手にナイフが使えなくて、フォークだけを使って移動させた。
「うん、でも僕は人間だから」
「そうですか」
桃が落ちないようにフォークを奥まで刺す。
まっさらな桃に残った、深い刺し跡。
「…俺も『桃』で良いな」
「もう持ってるものを、与えられる必要はない」
華寿海が切り分けた桃は、欠けた月の形をしていた。
ふた切れ取って、丁度満月の形になった。
ちょうど、
——というのも、きっと丁度良かった……
これは誰の声?
「では、いただきます」
「いただきます」
ナイフの使えない僕は、月を齧って食べた。
僕が付けた深い傷は、僕が月を食べるまでずっと残っていた。
音のない空間で、自分が月を噛む音だけが聞こえた。
月は甘くて、柔らかかった。