月の桃 2
長い時間が経った時、ずっと遠くの方に人影が見えた。
「…華寿海、起きて」
「……、どうした」
「誰か来た」
「……」
「どうしよう。隠れる?」
「……、いや」
華寿海が目を凝らす。
「あれ、蘭滋じゃないか?」
「蘭滋さん?」
よく見ると、癖のある歩き方が確かに彼そっくりだった。
「ニセモノじゃないよね?」
「……」
「あー!!絵都君!!華寿海!!起きたんですね!!」
僕たちに気が付いたのか、蘭滋さんらしき人影は大きな声を上げ、こちらに向かって大きく手を振った。
「絵都君ー!華寿海ー!!目が覚めたんですねー!!」
「何か…、一気に力抜けちゃった」
「そうだな」
「何かもうここから出られそうな気がしてきた」
華寿海が静かに微笑んだ。
「二人とも、おはようございます」
「おはよう」
「蘭滋さん、どうしてここに居るの?」
「ははは、どうしてでしょうね」
「ここってどこ?」
「分からないです。僕も初めて来ましたから」
「ですから、二人が寝ている間に探索してきたのですが」
「何かあったのか?」
「何も」
「何も?」
「何もありませんでした」
「何も?」
「何も」
「ここには、俺と同じぐらいの力を持つ神の気配を感じる」
「え、本当!?」
「ああ」
「知っている神ですか?」
「いや、知らないな」
「そんなに強い神様の気配が分かってるのに、二度寝したの?」
「ん?まあ、敵意は感じないしな」
「そうなんだ…」
「ははは」
蘭滋さんが、華寿海と同じぐらい呑気に微笑んだ。
「そうなると、ここは本当によく分からない空間なのですね」
「あ、そうだ。ここはこう…、ちょっと曲がってるみたいだよ」
腕を伸ばして表現しようとしたが、上手くいかなかった。
「そうなんですか?」
「うん。蘭滋さんが帰ってくる時、左側にうっすら壁みたいなの見えたから。こっちから見て左から、いきなり蘭滋さんが出てきたんだよ」
「そうだったんですね、気が付きませんでした。じゃあ、この空間はドーナツのようになってるのかもしれないですね」
「うん」
「『ドーナツ』って何だ?」
「お菓子だよ。甘くてこういう形をしてるやつ」
手で作ったドーナツは、この広い空間に見合わない。
「へぇ、美味いのか?」
「うん、美味しいよ」
「蘭滋さんは一周まわってこれたの?」
「ふふ、無理でしたね。円形になってることにすら気づかなかったぐらいですから」
「僕はまっすぐ歩いていったつもりでしたが、景色が全く変わりませんでした。月も満月のままでずっと着いてきていましたね。流石に戻れなくなるなと思い、引き返してきました」
「あれ、じゃあやっぱりドーナツの形してないのかな?」
「それはどうでしょうかね。こんなに不思議な空間ですから、何が起こってもおかしくないと思います」
「その中で、僕たちが唯一信じられるものはこの床じゃないでしょうか。僕たちも、この机も、浮いていませんから」
「ん?」
「ふふ。そのぐらい不確実な場に居るんですね、僕たち」
「ですから僕は、僕が向こうから歩いてきたことと、絵都さんには僕が曲がりながら歩いてきたように見えた、ということの方を信じます」
「遠かったから、見間違いかもしれないよ」
「いや、蘭滋が歩いてくるところは俺も見た。見間違いじゃないと思うが」
「月が着いてくることぐらい、ここでは不思議でもないでしょう」
「そう言われれば、そうだね」
僕たちの認識が正しければ、月とは反対側の点を中心にしてドーナツ型に空間が広がり、さらにその外側に月と夜空があるということになる。
外側にある月がずっと着いてくるというのは、月が大きいからこそ不気味だろうなと思った。
「遠い西の地では、『月の光が人間の心を狂わせてしまう』と考えられているそうです」
「うーん…、今はちょっとそれが分かるなぁ」
「僕たちが暮らす地でも同じです。月は『ツキ』でありながら『憑き』でもあります」
「確かに音が一緒だね、不思議だな」
「ええ」
「距離が離れてるのに、考え方が似てるんだね」
「そうですね。同じ人間だからでしょうか」
「そうかも、面白いねー」
「面白いついでに、もうひとつ良いですか?」
「うん」
「月は不死と結び付けられています」
「そうなの?」
「ええ。飲めば若返るという薬が月にはあるとされていますが、これも世界のあちこちで古くから考えられていたことなんですよ」
「どこも同じように?」
「はい、同じように」
「へー!そうなんだ、知らなかった!!」
「ふふ、良かったです」
「お前なら、月にしがみついてでもその薬取りに行きそうだな」
「ええ、ですから今はチャンスですよね。もちろんこれが本物だったらですが」
蘭滋さんが大きな月を指さす。
「え?」
「世界の全てを知るには、時間はいくらあっても足りないですからね」
「蘭滋は、こういう奴だ。分かるだろ?」
「うん」
蘭滋さんの瞳が月の光を鋭く反射していた。
「そういえば、月までは行けなくても、蘭滋さんの探検には付いていけばよかった」
「何でだ?」
「そしたらこっちに帰ってくる分、先に進めたでしょ?」
「確かに、ここの反対側までいけたかもしれませんね」
「『まっすぐ歩いてた』やつが良く言う…」
「ええ、きっと中心の方に向かって引力が働いてたんでしょうね。そのおかげでまっすぐ歩きながら綺麗にカーブできました」
「あ。ふふ、それ面白いですね。月じゃない方向に吸い寄せられるんですか」
『いんりょく』とは何だろうか。聞こうとしたが、蘭滋さんは自分の世界に入ってしまった。
「一人で話を進めるな」
「そうそう、じゃないと丸い月が見れないですもんね」
「おい」
「ここはきっと満月を見るための場所です」
「…」
「そうなんだ」
「ええ、全くの想像ですがね」
「面白いね」
ここが、月を見るための場所というのは思いつかなかった。ずっと桃の前に座っていた僕と、月しかない空間をずっと歩いた蘭滋さんとの差だろうか。
西には、地面に砂しかない地があって、そこではたった一人の神様を大切にしていると、冴仁衣さんから聞いたことがある。
なんとなく、その話を思い出した。
「ドーナツの反対側でも月を見れるかな」
「どうでしょう。石があるかもしれません」
「石?月の代わりに?」
「いや、桃の代わりに」
「え?」
やっぱり、よく分からなかった。
「絵都、そんな難しい顔するな。多分冗談だろ」
「ははは。その通り、冗談です」
「なーんだ、なぞなぞかなと思って考えちゃったよ」
「はは、そうですね」