8.選ぶ
僕が父さんが浮気していることを知った日以降も父さんの様子は全く変わらなかった。
家では相変わらず妻である母さんに愛の言葉を囁き大切にしているふりをしている。家族を『俺の宝物だ』と平気な顔で嘘を吐く。
全部嘘のくせに…。
僕は知ってるけど、母さんは父さんの裏切りをまだ知らないから明るく笑っている。
嘘つきな父さんを信じ切っている母さんを見ているのは辛かった。
僕は父さんに今までと同じように接するなんて本当は嫌だった。話したくないし抱き締められたくなんてない。
でもそんな態度をとったら母さんが訝しむ。
『どうしたの?』って母さんは心配そうに必ず聞いてくる。
きっと父さんも『どうしたんだライ?』って平気な顔して聞いてくるだろう。
だって知られているなんて思ってもいないから。
悪いのは全部父さんなのに馬鹿みたいに幸せそうに笑っているのを見ていると『全部父さんのせいだろうっ!』と罵ってすべてをぶちまけてしまいそうになる。
あの日見たことすべてを…。
父さんの反応なんてどうでもいい。
ばれて慌てようがそんなこと知ったことではない。
でも優しい母さんのことを考えるとそれは出来ない。すべてを知ったら母さんから笑顔は消えてしまう。それだけは避けたかった。
だから無理をした。以前と同じように父さんを慕っているふりをして笑っていた。
…自分の心を殺して。
僕も父さんと同じ嘘つきになってしまった。
嘘で塗り固めた生活を続けていたある日、久しぶりに父さんの同僚を招いて食事会をすることになった。
大人だけの食事会だから僕は参加はしないけど、その様子を部屋の窓から何気なしに見ていた。
するとその場にいるべきでない人の姿が目に飛び込んできた。
えっ…どうして…なんでここにいるんだっ。
ここは母さんや僕がいるのに。
家族の場所なのに!
どうしてお前が平気な顔しているんだっ!
大勢の大人達に混じって父さんの浮気相手である女性騎士がいた。
あのときと同じ騎士服を身に纏い楽しそうな顔をして参加している。母さんが昨日の晩から仕込んでいた手料理を遠慮なく食べて、母さん自慢のお手製果実酒を美味しそうに飲んでいる。
そして他の騎士達と笑いながら話していて、その中にはいつものように笑っている父さんの姿もあった。
遠くて僕がいる部屋までは声は聞こえてこない。
だけど頭の中ではあの時聞いた二人の嫌な声が繰り返されていた。
うっうう…。
こみ上げる吐き気が抑えられずに慌てて洗面所に駆け込んだ。
ウッ、ゴッボ…ゴボ…。
勢いよく昼食をすべて戻してしまう。
胃の中のものをすべて吐いても気持ち悪いのは治まらない。ふらふらと立ち上がると鏡には涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が映っていた。
それは今の自分の心を表しているようだった。
もう嫌だ、駄目だ。
あんな父さん見たくないっ。
…いらないっ!
僕が必死になって守ろうとしているものを父さんは大切にしていない。
それどころか壊そうとしている。
だから浮気相手を平気で家に招いて家族の大切な場所を汚した。
僕は決めた。
母さんを守ることを、父さんを捨てることを。
僕の中で少しだけ残っていた父さんへの想いが完全に消えていった。
…父さんはもう家族じゃない。
家族ではなく浮気相手を選んだのは父さんだ。最初に家族を捨てたのは父さんなのだから僕が父さんを捨ててもいいはずだ。
僕はこれから僕が大切にしたい家族だけを守る。
…そこに父さんはいない。
これからどうするか、どうしたいかを考え続けた。子供の僕が出来ることはなんだろう。
まずは母さんに正直に話そうと決めた。でもその後どうすればいいのか分からない。
僕に何ができるだろう?
子供だからお金はないし…。
まだ働けない。
でも母さんには笑っていて欲しい。
どうすれば笑っていられるのかな…。
母さんの幸せはなんだろう?
僕は母さんさえいればいいけど…。
何日も何日も一生懸命考えた、そしてたどり着いた答えを母さんに伝えることにした。
母さんと二人きりになった時に意を決して全てを話す。あの日見た裏切り、僕が嘘つきだったこと、食事会に招かれていた浮気相手、とにかくたくさんのことがあったから上手く言えているか分からないけど自分の気持ちも含めて本当のことを話した。
もう嘘はやめた。
母さんは優しく頷きながら最後まで聞いてくれていた。
そして最後に一番大切なことを泣きながら伝えた。
『僕がそばにいるから大丈夫だよ、母さん』
子供の僕では頼りにならないのは分かっていた。でもこれだけは伝えたかった『母さんを愛している、一人じゃないからね』と。
泣かないで母さん。
不安にならないで。
僕は子供でなにもできないけど…。
でもね、いつだって僕はそばにいるから。
寂しくないようにいるからね。
想いを込めた短い言葉がどうか母さんに伝わりますように。
ただ祈るしかなかった。
『有り難う、大好きよライ。…今まで辛い思いをさせてごめんね』
そう言ってくれた母さんは泣いてなかった。僕を優しく抱き寄せながら微笑んでくれていた。そして僕に辛い思いをさせたと謝りながら『もう大丈夫よ。大丈夫よ、ライ』と何度も僕の背中を優しく撫でてくれる。
僕は母さんの胸にしがみつき号泣していた。
母さんが泣いてない、僕ももう嘘を吐かなくていいと分かって、僕はやっと声を上げて泣くことができた。