1.別れを切り出す
今まで本当に幸せに生きてきたと思っている。
小さな子爵家の次男トウイ・アロークとして生を受け、愛情深い家族に囲まれ無邪気な子供時代を過ごした。
隣の領地の男爵家の次女エラと恋に落ち愛を育み、そしてお互いが17歳になった時に婚姻を申し込んだ。
『俺は継ぐ爵位もないけど、君だけを愛するから一緒になってくれないか』
『はい、よろしくお願いします』
ただの騎士でしかない俺は薄給で慎ましやかな式しか挙げられず、住む家もお互いの気配がすぐに分かってしまうような小さな家だった。
でも君はそれでもいいといつも朗らかに笑ってくれていた。
エラは得意の刺繍の腕を活かし内職をして家計を助け、元気な男の子を生んでくれた。そして少ない食材を工夫して作った料理を『味は食べてのお楽しみよ』と笑って出してくる。
苦労をかけて申し訳ないと思う気持ちが君の明るさによって救われていた。
不満なんてこれっぽっちもなかった、これこそが俺にとっての最高の幸せなんだと心から思える日々。
愛する妻と子に囲まれどれだけ笑っただろうか。
思い出は尽きることはない。
俺は仕事も順調だった。騎士として長年誠心誠意勤めていると運良く手柄も立てることができた。
その結果、27歳になった時に男爵位を授けられ、小さな家からそこそこの広さがある屋敷へと移り住むこともできた。
妻は贅沢だから使用人なんていらないと言ってくれたが、金銭的に余裕ができたし屋敷の手入れだって彼女一人では大変なはずだ。
今まで苦労をかけたのだから少しぐらい楽をさせたいと思った。
だから数人の使用人を雇い入れた。
『もう、トウイったら気を使ってくれなくてもいいのに』
妻は口ではそう言っていたけど、その表情からは喜んでいることが窺えた。
良かった、エラが喜んでくれている。
もっと我儘を言って欲しい。
今の俺なら叶えてあげられるから。
今まで陰ながら支えてくれた愛する妻の為にはなんだってするつもりだった、してあげたかった。
その気持ちに嘘はなかった。
『エラ、愛しているよ。これからもずっと一緒だ』
『私も愛しているわ、トウイ』
新しい屋敷の庭で9歳になった息子のライが『ほら見て、すごく広いね!』と無邪気に走り回っているのを二人で寄り添いながら見つめていた。
こんな日が俺たち夫婦には永遠に続くと思っていた。
…本当に幸せだったんだ。
今だってこの平凡な生活が幸せだと思っている。
妻を愛しているし息子も大切だ。
その気持ちは変わっていない。
それなのに俺は今まさに13年間も連れ添った妻に離縁を告げようとしている。
目の前に座ってお茶を飲む彼女は俺がそんな事を言うなんて思ってもいないから、いつものように息子のことを嬉しそうに話してくれる。
それがかえって辛かった。
これから俺は彼女から幸せを奪う。
俺を信じ切っている優しい彼女がどれほど傷つくか容易に想像出来るのに…止めるという選択肢はなかった。
…俺の気持ちはもう変えられない。
「エラ…すまない。俺と離縁してくれないか…」
俺は妻の顔を見る勇気はなかった。彼女が苦しむ表情を見たくなくて卑怯にも俯いたまま懇願した。
彼女が悪いわけではない。今も愛している、その気持ちに嘘はない。
ただ…もっと大切にしたい人が出来てしまったのだ。その人を愛している、守ってあげなくては。
日に日に強くなる想いを止められなかった。
許されない想いだと分かっていたのに…。
俺が全て悪かった。
妻に落ち度はない。
どんな罵倒だって受け入れるつもりだった、気がすむまで殴られる覚悟も出来ていた。
「すまないエラ…。君は悪くない、悪いのは俺なんだ。
すまない、すまない。
本当にすまない、あの時の言葉を守れなくて…。どんな償いもする。このあと君が生活に困らないように出来る限りのことをするつもりだ」
自己満足でしかない謝罪を何度も言葉にする。
君のことも大切だけれども、それ以上に大切にしたい人がいるんだ。
彼女を守ってあげたいんだ。
彼女には俺しかいないんだ。
すまない、すまない。
もう気持ちを偽ることは無理なんだ…。
本当にすまない。
あの時の言葉を守れなくて…。
君だけを愛し続けることができなくて…。
彼女を愛してしまって…。
心の中でも身勝手な謝罪を繰り返す。
エラがいまどんな表情をして涙を流しているかと想像するだけでみっともないほど体が震えてくる。
エラよりも愛する人がいるのは事実だが、彼女を傷つけたいわけじゃない。
勝手な言い分だがエラのことも変わらずに大切な存在なんだ。
そのエラから自分の手で幸せを奪うくせに、俺は自分勝手に苦しんでいる。
本当に俺は…馬鹿な男だ。
でもどうしようもないのだ。
エラは罵倒もせずに静かな声で訊ねてきた。
「どうして…と聞いてもいい?トウイ、理由を教えて…」
想像していたのとは違って彼女の声は落ち着いている。いや、きっと茫然自失なのだろう。突然のことだったから俺からの離縁の申し出を現実として受け止めきれていないのだ。
エラの心中を想像して俺は更に胸が苦しくなる。
これ以上苦しめたくはないが彼女には知る権利がある。
俺が新たな幸せを選んだ為に彼女はこれから全ての幸せを失ってしまうのだから、理由を言わないことは出来ない。
だから俺は正直に全てを話した。
一年前から愛する人が出来たこと、エラへの愛はあるが彼女への愛はそれ以上なこと、彼女を守ってあげたいこと、そして彼女と新たな人生をともに歩んで行きたいこと。
嘘はつかなかった。長年連れ添ってきた妻へのそれが最低限の礼儀だと思ったから。
エラは初めて知る事実に取り乱すことなくただ黙って身勝手な離縁理由を最後まで聞いてくれた。暫くの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「…分かりました。離縁を受け入れます」
囁くような声でそれだけ言うと静かに立ち上がり部屋から出ていってしまった。
俺はその悲壮感が滲み出ている後ろ姿を黙って見送るしかなかった。自分から始めたことだ、もう後戻りはできないしするつもりもない。
ただ妻がどんな思いで俺の言葉を聞いていたのか考えると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
きっとエラは今まで生きてきた中で一番悲痛な表情を浮かべていたのだろう。
俺は自分が行なった残酷な仕打ちの償いをできる限りするつもりだった。
この作品はアルファポリスにて投稿完結済みです。