事件メモ1を違うキャラの視点から
『青春』と呼ばれる時間は誰彼にもおとずれ、それは誰にとっても望むより短い。人生の折り返し地点を過ぎ去ると、その期間は一瞬に近づきあっという間である。それなのにまさに今、手からこぼれ落ちるように失われゆく時間の渦中にある者は、青春が有限だという年寄りの話に耳を傾けようとしない。己の青春は漸近線を描くかのように終わりない、という体感の方を信じ、その悠長さに絶望すら感じる。しかし、終わりの時は、確かにやってくる。
金持ちであっても庶民であっても、あるいは陰キャも陽キャも真に平等なのは、青春を失ったそのあとに、かつての時が特別であったと認識される点においてである。
女子高生の真木サワは、面談の順番を待つ生徒用の椅子に座りかねていた。同級生のあずさは、担任との話し合いを既に終えて、教室に戻っただろう。サワは自分の面談そっちのけで、すぐにでもあずさに会いに行きたかった。
(ねえ、あずさ。担任はなんと言ったの?あいつの癖、鼻から抜けるようなため息は今日は何回ついてた?)
一呼吸してから、サワは用意された椅子に掛けて呼ばれるのを待つ。
「だめだ、だめだ。このままでは、あずさの足を引っ張って、私は彼女を困らせてしまう。彼女の決意はもう固まっているのだから。」
サワは、教室にいるあずさを質問攻めにしたい衝動を抑えて、自分のこの先を考えた。
進路面談は、どうにも居心地が悪い。そして、うっかりすると自分のためであることを忘れて、大切に感じられないのはどうしたことか。
あずさとは高校に入ってからの大の仲良しだ。というか、サワが学校で唯一信用している友である。あずさが大学への進学を希望していることは、彼女から聞いて知っていた。将来は、教師になりたいのだという。彼女なら、きっといい先生になれる。自分のように不安定で落ち込みがちな人間を、自暴自棄にならないように優しく包み込んでくれる包容力が彼女にはあるもの。
うちの高校は進学校では無いから、受験する生徒は高校の授業とは別に塾に通う。だから、塾に通うお金の余裕がない生徒にとって、進学は大変と聞く。でも、あずさの夢を自分は応援している。彼女の未来はきっと明るい。
サワは、自分のことよりあずさの将来に熱心だった。自分の夢をおざなりにしてしまうのは現実逃避だろうか。でも、自身の未来はどこかぼんやりとしている。まるで、自分にできることは少ないかのように。
「真木サワさん」
担任に呼ばれた。
サワは教室に入り、前に面談を受けた生徒によって温められた席に着く。
「フーン。」
目の前の担任は、サワの進路希望表に目を通しながら独特なため息をつく。このため息は嫌味なものでなく、ただ単に担任のくせなことをサワ達はこの半年で知った。
「それで、あなたは受験しないのね。」
「なるべく早く働きたいんです。」
「そう。分かったわ。」
そう言って担任はファイルを閉じ、この話は済んだものとして早々に処理する。
サワの面談は、1分とかからずに終わった。
不思議なものだ。
サワと担任は、全く同じ会話を前回の面談時にしている。
前回、担任はサワに進学を熱心に薦めた。その時のサワは、頑なにこれを拒んだ。
今回、担任は彼女が受験しないものと決めてかかっていた。サワはあれから大学に行こうと考え直したのだが、事情が許さないことが明らかになって諦めるしかなかった。この事情については、担任にも誰にも打ち明けていない。
(自分を引き止めてくれる他人は、もう誰もいない)
その現実に、サワは少しばかり後ろ髪を引かれるのを感じた。
この一年、家は無茶苦茶な状態だった。いや、この一年に限ったことでない。覚えている限り自分が小6の時に、つまり母が家を出てから混乱しっぱなしだ。サワは、他所に男をつくって家出した母の最後の言葉を、よく覚えている。
「母親として、今まで我慢してきたわ。一人前になるまであなたのために待ってあげた。この先の私の人生が、娘のせいで犠牲になったと責められないことに感謝しなさい。」
当時も今も、その身勝手な言葉は受け入れ難い。それでも母親のことを理解しようと努めた、と思う。
母がいなくなってからの数年は、それこそ一人前になったつもりで父も支えて頑張った。だが、中学に上がってからのサワは、大いに荒れる。
反抗的な態度を取り、勉強やテストをわざとサボり、当て付けで深夜まで家に帰らない。
成績はどんどん下がり、散々周囲巻き込んで皆を心配させた。中学を卒業し、なんとか地元の高校に滑り込めたのは奇跡だと思う。
高校で、あずさに出会った。彼女は自分と同じように家族に問題を抱えたクラスメイトだ。だけど、そんな状況にあっても彼女はサワや他人を気遣えるのだから、サワには驚きだった。
2人は、友達になった。サワにとって、あずさは友達以上の存在だ。
ふざけていても甘えていても、サワはどこかであずさのことを尊敬している。
程なくしてサワは、今までの周囲への反抗が自分にとって全く無意味だったことに気づく。立ち直ったきっかけは、それまで辛抱強く世話を焼いてくれていた祖母が放った一言だ。
「あんたも、母親みたいに男に走ったら、家に帰って来んくなるんかねぇ。」
可愛がっていた孫が手に負えなくなって、思わず本音が出たらしい。
自分にずっと甘かった祖母にこんな言われ方をされて、ショックだった。祖母が母親を引き合いにして怒ったのは、後にも先にもこの一度きりである。
この時のことを、サワは今でも自分の心に刻んでいる。
(自分は、父を裏切り自分を捨てた母親のようにはならない。与えられた幸せを見つめて、その中で満足できる人になる)と。
祖母の言葉をきっかけとした自分へ戒めは、きっと将来ためになる。だが同時に、祖母へのわだかまりが心の奥底で拭いきれずに残ったのだった。
サワは、これまでの中学での行いを見つめ直す。何度も何度も、繰り返して。
そもそも腹が立つ一番の原因は、母親だと思い至る。だが、怒りをぶつけようにも当の母親はもういない。そうこうしていると、今度は父親にも腹が立ってきた。父には何を訴えたところで、まるで暖簾に腕押しだ。どうして自分や家族を裏切った母に、父はいまだに甘いのだろう。
母が悪いと言いながら、サワは、母を快く思わない祖母にも居心地の悪さを感じる。どうして…?
私の一部は結局のところ、祖母が拒絶する母と同じなのだろう?
「将来の夢は?」
かけられるその問いに、サワはこう答える。
「私は、私の夢は。一刻も早く家を出て、自分の人生を始めることです。」
ロジックが母のそれと全く同じなことに、サワは今でも気付いていない。
「サワさん。受験してみない?これは、あなたとご家族が希望すればだけれど。挑戦してみるのは、とてもいいことだと先生は思う。」
前回の面談時のことだ。
担任は、フンフンと鼻を鳴らして上機嫌に言った。
高校に入学したての彼女の素行は、好ましくなかった。情緒はとても不安定で、指示に従わない…。
だが、目立って悪い生徒と言うわけでもない。彼女もまた青春真っ只中の可愛い生徒の1人であると、担任は受け止める。
卒業まであと一年。真木は随分と落ち着いついた。近頃は、授業も真面目に受けている。これから高校生活最後の半年、数ヶ月では伸びしろが充分に見込めるはずだ。
担任は、前のめりに進学を勧めた。
「いえ。大学に行ってやりたいことは特にないので、受験はしません。」
サワの本心だ。
私には、あずさのみたいに夢はないから。
進学なんてお金も時間ももったいない気がする。なんと言っても、勉強したいと思っていない。
でも、担任が意外にも自分のことをちゃんと見ていたと知り、サワはそれが嬉しかった。誰かが自分の将来について考えてくれている。
サワは家に帰って、父親に進学について相談してみた。
父は、
「母さんと一緒に、お前のための積立て貯金をしていたんだよ。」
と答えた。
「大きくなった時のために、お金が必要になるかもしれないからって。」
予想していなかった事態に、サワは目を輝かせて興奮した。
みんなが私を応援してくれている。私も、何か夢を持ってみようかしら?
何を目指そう?教師は自分向きじゃないしな…。
テンションが上がったもものの、父が言った「母と一緒」と言う言葉が引っかかる。
「でも、高いらしいよ。授業料の他に入学金も受験料も。いくら必要なのかな?ところで、そんなお金どこにあったの?」
父は、薄くなった頭をかきながら、続けた。
「多分、母さんが通帳を持って行った。確認していないから、お金は貯まっているか分からない。もしかしたら、母さんが積み増ししてるかも。」
母には小学以来会っていない。
中学の頃までは娘のことを気にかけているのでは、と、どこかで期待していた。けれど、卒業式に参列したのは祖母だけだ。そんな母が今さら、通帳を送り返してくるとは思えない。
サワのこの時の落胆は、ちょっと凄まじい。
しかも、問いただせば、その口座に父はまだ送金を続けていると言う。
「やめてよお父さん。お母さんは私たちのことを裏切ったんだよ。」
サワは久々の金切声をあげた。
「そんなに怒らないでおくれ。大した額じゃない。それに、母さんだって病気でもしたらお金が必要になるだろう?もしかしたら気が変わって家に帰ってくることだってあるかもしれない。」
父の声は小さくなる。
「なんで通帳を取り返さなかったのよ?お父さんは、お母さんの味方なの?」
(私より、お母さんの方が大事なの?家のことで頑張ってるのは、私なのに。)
「そうは言っても、お前の母親じゃないか。それに、情なんてものはそう簡単には割り切れないんだよ。」
サワには、父がまだお金を払い続けていることが信じられなかった。
自分たちを置いて出て行ったきりの母のことを、父が今でも気にかけていたなんて。
学校の同級生が放課後の部活や遊びに夢中だった時、自分は家に直行して祖母と家のことを手伝っていた。
「いい子」になろうと、頑張ってた自分が可哀想に思えてきた。ああ、バカバカしい。
どうして父は、母に愛情がないことを認めないのだろう?
父が期待するように、「入金に感謝」するだなんて、母に限ってあり得ない。絶対にだ。
でも、もしかしたら。もしかして、娘の私への愛情が残っているとしたら、口座には…。
サワは、すぐに行動に移した。
まずは父を説得して、とにかく入金をストップさせる。
銀行に掛け合い、銀行員が訝しる視線を受けながら通帳の再発行手続きをする。日数を費やし、ようやく通帳を手にした。
だが、口座には雀の涙ほども残っていなかった。
「そんなに大学に行きたいなら、お金はお父さんがなんとかするから心配するな。」
通帳の数字を食い入るように見つめる娘に、父は相変わらずの調子で声をかける。
「私は、進学しない!やりたいことなんて、ないもの。」
サワは吐き捨てて、言う。
もう、冷静に考えられなかった。
煮え切らない父への、イライラが募る。父の愛情に漬け込む母の薄情さに、辟易する。
だが、一方でそんな母のことを理解できている自分がいる。
ふと、自分は冷たい人間なのかな?その冷淡さは、己に流れる母の血によるのかと考えて、サワは目眩がする。
(いいや、そんな筈はない。私は、母とは違う)
サワは自分に、言い聞かせるのだった。
結局その次の面談は、何の進展のないまま迎えた。
「それで、あなたは受験しないのね。」
担任は、サワの顔を覗き込んで確認する。
「なるべく早く働きたいんです。」
答え方は、わざとらしいほどぶっきらぼうだったが、サワの心の内を気にかける人はいない。
「そう。分かったわ。」
真木サワのファイルは、パタリと閉じられた。
家に帰って、祖母に今日の面談のことを伝えた。
いかにも古風な主婦である祖母は
「勉強ばかり熱心でも婚期が遅れるから、それでよかったわよ」
と、しきりに孫を慰めた。
サワには、何もかもどうでもよかった。
これでせいせいした、と自分では思っていた。
今はただ、家族の援助を受けない真っさらな未来が待ち遠しい。
卒業式までの時間は、手から水がこぼれ落ちるようにあっという間だった。
卒業後のお互いの行き来をかたく約束した、私とあずさ。
だが、仕事と勉学に忙しい2人の仲は、疎遠になりつつある。
「お給料をもらっている分、遊びを優先するわけにいかない。」
慣れない仕事に追われる日々は、慌しく過ぎる。
自由になるお金が手に入るのは、最高だった。意外とあっさりと大人になった気がして、拍子抜けする。
でも、どこか引っかかる。まだ、自由になった気がしない。
職場には、実家から通っていた。考えてみたら、なんだかまだ学生生活を引きずっているみたい。
だからと言って、今の給料では自立できそうにないけど。
家を出るのに必要になるお金を、計算してみた。
家賃に光熱費にネット代。それだけに収まらない。働き始めて知ったのは、税金と年金と保険料がびっくりするくらい引かれるのだ。
試しに家計簿をつけてみたが、一人暮らしなんてとても無理だと悟った。
サワは、思い起こす。夢がいっぱいだった、新社会人の頃は、周りからちやほやされて、楽しかった。
それなりにモテてたけど、誰ともお付き合いするには至っていない。とにかく、仕事を覚えるのに必死だった。
働き続けるのは楽じゃない。仕事がうまくいかずに落ち込んで、周りの年長者に気を遣っている間に、日々がどんどん過ぎて行く。
人並みに、お姫様願望はある。
小さい頃に読んだ「かえるの王様」のシチュエーションは、最高だ。
ヒロインは、王さまのいちばん末のお姫さま。
美しいお姫さまは誰からも愛されていて、お日さまでさえみとれてるほど。
ある日、お姫様は川でお気に入りの金のまりを落としてしまう。
すると、一匹のかえるが現れて、彼女にこう言うのだ。
「あなたのかわいらしいお床のそばで、ねむってよいとおっしゃるなら、わたしは水のなかから、金のまりをみつけてきてあげましょう。」
まりを拾ってもらい、約束をはたしてもらおうと城にやって来たかえるへのお姫さまの仕打ちは、傑作だ。
「床に入ってきたかえるをいきなりつかみ上げて、ありったけのちからで、したたか、壁にたたきつけました。」
小さかった頃の私は、この場面になると笑い転げて、何度も読んでとせがんだものだ。大人になって読み返すと、まったく酷いお話だけれど。
哀れなかえるは、なんと魔法をかけられた王子さま。
お姫さまは人間に戻った王子さまと無事結婚し、めでたしめでたし…。
生まれた時から欲しいものを全部持っているお姫さま。どんなに酷いことをしても幸せになれるお姫さま。もし私がお姫さまだったら、優しくしてくれたかえるにせめて、とても親切にしてあげるのに。
ふと、サワは我に返る。
仕事ばかりも、人生つまらない。
恋愛にも憧れる。
けれど、モテているのは、まだ若い今だけかなと考える。社会人ってのちのちの関係を考えるから、男女の出会いは思っていたより少ない。
ラインの着信が鳴った。
「ヒマ?」
プレビューを確認したサワは、苦笑いしつつ既読をつけない。
「ねえ、サワちゃん。いま次のゼミの待ち時間なんだ。僕とお話しようよ。」
ヒマなのは発信者の方で、一緒に時間を潰してくれる相手が欲しいらしい。
「君がどうしているか気になって。無視しないでよ、心配になるじゃん。」
「私は、忙しい。」
サワは短く返す。
返信するのは、単なる癖だ。それが社会人としての常識だと、会社で教え込まれたから。
断りのラインのつもりだったが、相手は続けた。
「サワちゃんの観たがってた映画が週末に上映されるけど、僕と観に行かない?もうすぐクリスマスだから、映画終わったらプレゼントとか見たいな。新しいスニーカーがマジでカッコイイんだ。」
発信者は、ショウ。ナンパで声をかけられた。
やたらにグイグイくる彼と、軽めのデートを数回した。
でも、深く付き合う気はない。クリスマスのプレゼントとかは、全然考えていなかった。
サワは、返答に迷う。
自分は、結婚を早くしたいから、真面目なお付き合いがしたい。
ショウはカッコ良くて好意を寄せてくれてるけど、彼はまだ学生だ。遊ぶには楽しいのだけど、ショウは子供っぽすぎる。将来のこととか考えているようには見えない。
「カエルの王子様とキスするプリンセス映画を、観たいって言ってたでしょう?面白そうだから俺も観たいけど、男が1人だと恥ずかしいから一緒に付き合ってよ。」
それはそうだ。サワは思い直した。
映画は1人で観るより、誰かと一緒の方が思い出になる。
それに、「プリンセスと魔法のキス」が観たいと、前のデートで何気なく口にしたのをショウが覚えてくれていてくれたのは嬉しかった。
「いいよ」
サワは、返信した。
「どうしたの?映画がつまらなかった?」
映画の上映が終わり、ショウはサワの顔を覗き込む。サワは、心ここに在らずだった。
「気晴らしに、ショップにシューズを見にいこうよ。」
エスカレーターに乗るショウの足取りは軽い。サワは、つられて後をついてゆく。
映画は面白かった。デートは楽しい。
なのに、困ったことに職場でのゴタゴタを思い出して、ついイライラしてしまった。
思えば入社したての頃、サワの頭の中は、お給料のことでいっぱいだった。
父親や祖母や母の面影のある実家を出て、自立したい。でも、そのためのお金を今の給料からどうやって貯金しよう、と言った具合に。
でも、あれから数年が経って、今のサワにはわかる。
当時、自分の頭の中を大きく占めていた問題は、さざ波でしかなかった、と。
数年前から、新人の指導を任されるようになった。
「新人が君の下につくから、サワさんが仕事のやり方を指導してやって。」
そう上司から言われたサワは、自分が誇らしい。自分に部下ができると聞き、ワクワクしてくる。
しかも、その新人は自分と歳が近いらしい。いままで同年代の女性が周りにいないかったから、楽しみである。友達みたいにおしゃべり相手になってくれるかも。
新人は、化粧バッチリな美人さんだった。サワは、張り切った。が、もくろみは大きく外れることになる。
新人は見た目に反して、ものすごく性格が悪いのだ。
上司が同じ部屋にいる時は、自分にとても愛想がいい。だが、上司が部屋にいないと、とたんにマウントを取りにくる。
サワさんは、私より年下。
サワさんは、私より学歴が下。
サワさんって、常識がない。
サワさんは、女として私より終わってる。
新人は、明らかに自分を下にみてて、事あるごとにさげずむ。彼女にしてみれば、自分みたいな小物に指導を受けるのが、我慢のならないことらしい。
はじめの頃は、何か彼女が勘違いしていると思おうとした。少なくとも彼女のマウントは、サワにとって意味のないものだったから。
サワには、親の援助を受けて学校に行かなかったのはプライドだからで、自慢ですらある。年齢だって、学生時代の先輩後輩の関係は、仕事の上下関係とは別物のはずだ。
そうやって初めは大人の対応で聞き流してきたサワだったが、やがて怒りが鬱積してくる。
サワは、思う。
新人の言う常識なんてローカル・ルールで、仕事に関係ないし。
仕事にフェミニンは必要ない。着飾るくらいなら、もっとお金を貯めたいし。
私は、遊んで時間を浪費した新人みたいに、無駄に歳なんてとっていないし!
でも、言い返さずに黙っていた。
何か言ったところで、彼女には負け犬の遠吠えとしか聞こえないだろうから。
自分は、業務を黙々とこなすだけだ。そうこうして、新人の仕事がうまく行った時は彼女の手柄。彼女が失敗すれば自分の指導が下手くそなせい。気分の良いものではなかったが、それで表面上はうまくいった。
近頃は仕事に将来性が見出せないでいる。頑張ったところで支払われる給料はかわらないし、モチベーションが保てないでいる。昔はあんなに張り切っていたのに。
一生懸命働いたところで私は評価されない。どうせ夢は叶わない。
そんなこと考える自分は、近ごろなんかふけた気がする。
「クリスマスに予定はある?もしないなら、一緒にお祝いしない?」
シューズを眺めていたショウは、振り返るといった。
「え?、空いてないけど?」
サワの答えは、ぶっきらぼうだ。
「それ、超ショック。サワちゃんフリーだって言っていたのに、彼氏いたの?」
サワは慌てて否定する。
「クリスマスは金曜日、平日よ。普通に仕事があるから。」
(働くって、あなたみたいな学生とは違うのよ。勉強さえしていればOKってわけにいかないんだから。)
余裕のないサワ。お説教モードな自分が、つい余計なことを言いそうになる。
「そうだよね。俺も、バイトのシフト。」
ショウのテンションも下がる。
(いけない、いけない。私ってイヤミなやつ。)
ショウはふわふわしていて、学生生活が楽しそうだ。私の仕事の悩みなんて、想像つかないだろうな。
明るいのは、彼の良いところ。
「仕事なんて、ちっとも楽しくないよ。年末は立て込んでて忙しいから、クリスマスの日は、疲れてて不機嫌かも。」
サワは話し出した。一度口を開くと止まらずに、感極まってつい泣けてくる。
その日ショウは、辛抱強くサワの愚痴に聞き入った。
「サワさん、大変だったんだね。仕事のことは俺には分からないけれど、よく頑張っていると思う。」
ショウは、とっても聞き上手だ。
「サワさんは、悪くないよ。ところで。ねえ、さっきのクリスマスの話だけど、仕事終わりにちょっとだけでも会えない?だめ?」
自分が間違っていないと言ってもらえて、サワは気分がすっかり良くなった。
彼に打ち解けて、心を許しても大丈夫な気がする。
「仕事遅くなるけど、ちょっとならいいよ。雑誌で見かけて、食べたかったクリスマスケーキがあるんだ。けど、お店の閉店に間に合えそうに無いから、難しいかなぁ…。」
「ケーキなら、俺が買っておく。俺からのプレゼント代わりだから、受け取って。仕事終わったら連絡してね、待っているから。」
サワは、心から笑顔になった。
私のために、そこまでしてくれるの?ケーキ食べたかったんだよね、嬉しいな。
そうだ、彼に何かプレゼントしよう。私は、いちおう社会人で、学生さんより稼いでいるしね。
サワは、心がポカポカしてくる。
リクエストに応えて、プレゼントは彼が気に入ったシューズにした。
そうよ、人生は仕事だけじゃないんだから、恋愛もチャンスがあるなら楽しまなくっちゃ。
「あーあ。私たちって、なんでクリスマスに残業しているです?しかも、金曜日の夜にですよ?」
年末の残業に、新人は不満タラタラだ。
それにしても、今日の彼女はなんだか馴れ馴れしい。いつもは私のことを無視して、もっとツンツンしているのに。
「明日は出勤ないし、帰りに駅前のイルミネーションでもゆっくり見たら?」
そんな新人に親しく返したものか、サワは迷う。
「サワさんは、今晩の予定とかあるんですか?」
新人が、サワを見る。
サワは面食らった。
今日の彼女は、馴れ馴れしいんじゃなくて、「しおらしい」んだ。人恋しい彼女は寂しいのだ。
だからと言って、新人とイルミネーションを見に行くのだけは、勘弁して。
「私は、これ終わったあと忙しいから。このまえ映画を見た人と、ケーキ食べにいく約束してる。」
「どんな内容の映画?」
サワは、ショウと行った日のことを思い出す。
「”カエルの王子”の映画。カードを持った占い師が魔法で王子をカエルにして、キスで呪いを解くやつ。子供向けのアニメなのに、生々しくて怖かった。ふつうに面白い映画で。」
「カードって?」
「タロットカードだよ。カップの九番、願望実現と強欲のサイン。それで、夢の実現より、結局は愛が大事なんだってテーマ。」
サワは思う。
(私の願望は、とにかく自立することだわ。でも、それだけじゃヒロインの言うように足りないのかしら。
夢より大事な愛って、何を指すの?映画のプリンセスは、両方手に入れるのよね。)
考え事をする自分を覗き込む新人と、目が合う。
そうか、間違えた。彼女は映画の内容が知りたいんじゃない。
私が誰と観に行ったかが、知りたいんだ。
この時どういうわけだか、新人との間の潮目が変わった気がした。
なんだろう、この感じ。気のせいかな?
さっさと仕事を済ませて、サワは走ってショウとの待ち合わせ場所に急ぐ。
特別な日には、たまに奇跡が起こるらしい。
「サワちゃん、こっち、こっち。」
待ち合わせ場所では、街路樹のイルミネーションを背に、ショウが立っていた。
大きく手を振って、白い歯を見せて笑うショウ。
サワは、息を呑み込むと、ショウをチラリと見る。
チェックのマフラーがとてもよく似合う。セットされたばかりの流行りの髪型も、きまってる。
「今日のショウくん、バッチリじゃん。」
「サワちゃんに褒められて、嬉しいな。」
彼はそう言って笑い、一瞬私を引き寄せた気がした。
マフラーの隙間から、彼の熱が伝わってくる。
片手には、ケーキの箱を大事そうに持っていた。金色のロゴ入りだ。
私がどうしても食べたいって言っていた、有名店のケーキ。
お店遠いのに、手に入れるの大変だったろうに、ショウは私のために手に入れてくれた。
お値段だって、結構するはず。
彼へのプレゼントをはずんどいて、よかった。
サワはショウへのプレゼントの袋を握りしめる。
(彼、このシューズを気に入っていたものね。)
「イルミネーション、綺麗だね。」
ほの明るい光が、2人を包み込む。
「なんか、ドラマのシーンみたい。」
黙って2人で、街の明かりをしばらく見つめる。
「とっても、素敵なクリスマスだわ。」
サワは、嫌なことなどすっかり忘れてしまった。
幸せな気分だった。
職場は、年末の決算期でバタバタしていた。
みんなピリピリしていて、余裕がない。
サワは、親しくしていた隣の部署の同僚の男性から声をかけられた。
「サワさんって、恋人いたの?」
サワは、びっくりする。
クリスマスに、ショウと初めてキスをした。
でも、同僚は、そんなこと知らないはずだ。
不意に、イルミネーションに照らされたクリスマスの夜の光景が思い出されて、サワは顔が赤くなる。
(明日は、仕事も休みでしょう?)
別れ際の甘いロマンチックなキスの後、ショウにもっと一緒にいたいと引き止められた。私も一緒にいたかったけれど、家族が心配するからと断った。無理なものは無理だ。
結局ケーキを食べた後、祖母と父の待つ家にすぐ帰った。
お互い好意は感じるけれど、告白はまだだ。ショウとは、付き合うまではいっていない。
ショウのことは、職場の誰にも話していない。彼とデートしたことは、家族にも内緒だ。
「恋人っていうか、まあ。」
同僚の男性に適当に答えながら、サワはどうして彼がショウのことを知っているのか考える。
ショウと映画を観たことや、クリスマスの予定を話したのは、1人しかいない。一緒に残業をした時、新人にだ。
その新人から、隣の部署の中途採用の女性が上司と不倫してると聞かされた。
(あの女性に限って、そんな事あるかしら?)
サワは新人の暴露話を訝る。
やがて、不倫話があちこちから耳に入るようになった。なさそうな話だと思ってたけど、第三者から聞かされるともっともらしく聞こえて、サワは信じそうになる。
とにかく、この彼女のことを、新人は一方的に嫌っている。
中途採用の女性には、ツンとしたところがあって、女性がプライベートを明かさない。
そんなところが、新人の癪に触るらしい。
一方で、彼女は近頃どうゆうわけだか自分に辛く当たらない。新人のマウントのターゲットから、どうやら外れたようなのだ。思えば、あのクリスマスの日以来、ずっとだ。
それで、ピンときた。
新人は、隣の部署の男性の同僚に恋をしているのだ。
中途の女性の根も葉もない噂を流すのも、自分に親切になったのも、どうも彼の気を引くためらしい。
自分や中途採用の女性は、その男性と親しかった。もちろん、同僚として、単に仕事の上でだったけど。しかし、恋に狂った新人は、彼の周りの独身女性を手当たり次第に敵視した。
最近の新人は以前と打って変わって、自分に妙に優しい。ショウとクリスマスを一緒に過ごしたことで、彼女の恋敵でないとみなされたのだと思う。
「サワさんの素敵な恋人は、どんな人?」
なんて、笑顔で聞いてくる。
(ショウとは、まだ付き合っていない)。
サワは、私達2人の関係が微妙だと、新人に言わないことにした。
話を合わせて、彼女の勘違いに乗っかることにした。
(ショウに、感謝だわ)。
彼は2度、職場で辛い状況にあった私を救ってくれた。
1度目は、愚痴を聞いて慰めてくれたことで。
2度目は、幻の恋人として、新人との間に立ちはだかることで。
中途採用の女性のその後の顛末は、傑作だ。
プライベートを明かしていなかった彼女は実は既婚者で、しかも妊娠していた。もちろん、お腹の子供の父親は上司ではなく夫との子だろう。
彼女の「不倫の噂」はまるで無かったことになって、代わりに「マタニティーハラスメント」が始まった。
新人は、とにかく彼女が気に食わないのだ。
身重な女性の態度が目に見えてピリピリしてるのを、サワはどうする事もできずにいる。
やがて臨月が近づき、職場で中途の女性を見なくなった。お互いのプライベートは結局、聞けずじまいだ。
仕事の手が空いた時に、例の同僚男性から耳打ちされた。
「俺、彼女から告白されたんだよね。それで、付き合おうかなって思っている。」
彼女とは、新人のことだ。
「へぇ、そうなんだ。」
そんな話しを聞かされても、自分は社会人で、彼は職場の同僚だ。
(新人の誘いを受けるだなんて、あなたどうかしているわ。)
思ったことを同僚に言うべきか、迷う。けれど、こんなときは余計なこと言わずに、黙っているのが得策と思う。
「彼女は綺麗だし、お似合いなんじゃない。」
いかにも通り一遍な自分の返答に、彼はうなずく。
ほどなくして、同僚の男性が新人と付き合っていると噂で聞いた。
サワは、ちょっと後ろめたい。入社した頃に同僚と一緒になって会社の打ち上げで盛り上がった光景が思い出される。あの頃だったら本音が語れて、楽しかったのに。
(男って、本当に馬鹿よね。横から見いて、滑稽だわ。)
サワは、余計なことを言うまいと、口にチャックすることにした。
ピュアな乙女心を振りかざして変に振るまちゃう新人は、ある意味かわいいやつかもしれない。
まわりに勝手に決めつけられたショウとの仲だったが、彼とは定期的に会うようになった。
そうは言っても、告白はまだだ。サワには、その点が引っかかっている。
彼と一緒だと楽しいし、週末デートする2人は、はたから見たら恋人同士だ。
お互いの好きなものを眺めて、カフェでたわいのない噂話をする。話の弾みで冗談めかして、将来の理想の家族のカタチについて話し合ったりもする。
彼には、姉がいるらしい。
「私の家族は、お父さんとおばあちゃんと…。」
言いかけて、サワは言葉を詰まらせた。
(どうしよう)
軽い話しをするつもりが、封印したつもりの思いが溢れてくる。
無理に笑顔を作ろうとして、今度は涙がでた。
ポタリ、ポタリ。
ありがたいことに、ショウは黙っていた。涙の理由を聞く代わりに、サワの背中をやさしく撫でた。
(私、ちゃんと説明しないと。泣いたのは、彼のせいじゃないって。)
ようやく泣き止んだサワは、思い切って心のわだかまりを告白する。
他でもない、自分たち家族を置いて出て行った母親のことだ。
「それでさぁ。以来、手紙も連絡もないんだよ。」
明るく話そうとするのに、声が震えて涙が再びぽたりと落ちる。声の震えがなかなか止まらない。
「サワちゃんは、いろいろ頑張ったんだね。」
ショウはそう言うと、やさしくサワを抱きしめた。
自分の弱みを告白したことで、ショウとの仲は親密になった。
彼は、こんなこと言う。
「一人暮らしする夢、素敵だね。サワちゃん、いろいろ考えているんだ。」
「そうは言っても、家族が反対するし。最近はおばあちゃんの膝が痛くて大変だから、手伝わないと。」
「でも、サワちゃんの夢なんでしょう?僕は、応援するけど。」
「応援してくれるの?うれしい。」
サワは、俄然やる気が湧いてくる。これまで、うじうじと考えるだけで行動できなかった自分が嘘みたいだ。
「部屋を借りたら、遊びに行っていい?そうしたら、サワちゃんともっと一緒にいられるからね。」
サワは、王冠をつけたカエルのキーホルダーを握りしめる。ショウと一緒に観に行ったカエルの王子の映画館で記念に買ったものだ。キーホルダーに鍵はまだ、付いていない。
「私、このキーホルダーに、きっと新しい鍵をつけるわ。自分の夢を叶えるの。」
サワは、プリンセス映画の内容を思い出して決意した。
思い切って行動を起こしたプリンセスは、カエルにキスして、子供の頃の夢を叶えて、その上、愛する王子まで手に入れた。
(そうよ。私は、未来の夫や恋人や家族をとても大切にするわ。
カエルの姿をしていても、闇雲に叩いて傷つけたりなんかしない。
私なら普通の男であっても、はじめから王様のように接して親切にしてあげる。)
職場では、出産した中途採用の女性が赤ちゃんを連れて挨拶にきた。
ふわふわの白いおくるみに包まれた赤ちゃんに、サワは興奮する。
抱っこさせてもらうと、クリクリの目がサワを見つめて、思わず微笑んだ。
「なんて可愛いらしいの。私も赤ちゃんのお世話したいわ。」
サワはそれからしばらくして、ショウに促されるように部屋を借りた。
最近は、密かに彼との結婚を意識している。