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タミア村に架かる橋を渡ってすぐ、ソラヤに声を掛けたのは死んだはずの彼女だったそうだ。
幽霊というのは肉体から離れた魂で、ルシオラに歌われなかった人や、歌われても本人の意思で光の球体になることを拒んだ人に起きる現象らしい。
人と同じ姿をしていて、言葉も話せるとか。
「長髪を耳の下で二つに結んだ女の子で、ルーフェさんが墓地に行ってしまった時も、彼女が教えてくれました」
ソラヤが見つめる視線の先には八歳で止まったままの彼女の姿があるのだろう。
ソラヤの言葉を信じる要素はある。僕の事をルーフェと呼ぶのは彼女だけで、ラルワにちゃん付けするのも彼女だけだ。
他にもソラヤが日常生活を送っている上で、困っている所を見たことが無い。洗濯物を干す時も綱の場所を知っていたし、薪の保管場所や食器の片付ける場所も教えなくてもこなしていた。
「もしかして、あれからずっと側にいたのか?」
「四六時中ってことはなかったらしいですよ」
ずっと自分は独りぼっちだと思っていた。両親を亡くしてから、周りの大人は皆、親御さんはすぐそばで見守っているよと言って慰めてくれた。
しかしどんな瞬間にも両親の影を感じたことは無く、いつも背中にあるのは、自分が孤独の中で息絶えるだろうという未来だった。
「そうか、それは恥ずかしいな」
独りで感傷に浸って、泣いていた所を見られていたと思うと、急に耳が熱くなる。
「ルーフェにはラルワちゃんと精霊様が居るから一人にはならないのに馬鹿だなって思ってたらしいです」
さっきからラルワが僕たちの周りをぐるぐる回っている。心配してくれているのだろうか。
「私はもう自由に好きにするから、ルーフェもそうしてって言ってます」
「……ずっと近くに居てくれたんだな」
僕はソラヤの隣に手を伸ばす。何もないそこにはおそらく彼女が立っているだろう。
彼女はどれぐらいの大きさだったか、もう忘れてしまった。
「もう、行くんですね。いろいろありがとうございました。はい、そう伝えます」
ソラヤがお別れの挨拶をすると手を小さく振って、優しい笑みを浮かべる。
「僕が死んだらまた会おう。ありがとう、ねえちゃん」
柔らかい風が僕の前髪を揺らし、そしてラルワの方へ吹いて行って、ラルワの器をくるんと一回転させた。
そうか、行ってしまったか。
『友と明日も名を呼び、名を呼ばれる。繰り返しの果ては、無音』というフロリスタの言葉が頭をよぎった。
僕は重い腰を上げて立ち上がると、ラルワに近づく。
「ねえちゃんにひっくり返されたのか?僕が死んだ時もそうするから、その時は僕だと気づいてくれよ」
二百五十年以上ずっとこの狭い場所で孤独だった生物は、人のぬくもりを知らない。生きている内に触れないこの生き物を、死んでからなら、触ることも抱きしめることもできるだろうか。
器の中でラルワが機嫌良さそうに跳ねていた。
夕食後、ソラヤとキュフ、アン・ローレが明日、この村を発つという。
眠る前まで三人は僕に旅に出ようと誘った。僕はハッキリした返事が出来す、明日の朝まで待って欲しいと答えた。
深夜に精霊樹の下で毛布にくるまって、風の音を聴いていた。
まだ迷っている。この村に架かる橋を落として、死ぬまで一人でいようと決めていたからだ。
先祖が残した本を管理すること。精霊樹を守ること。ラルワを預かること。そしてもう一つ。
この四つは父にたくされた僕の役目で、その四つが僕をこの地に縛り付けている。
仮に僕がここを出て行ったとして、本が盗まれても誰も困らないのだと思った。誰かの手によって売られても、必要な人の手に渡ったのならそれは本にとっての本望だろう。逆にこんな誰もいない図書館の中で埃を被って、紙虫に食われる方がもったいない。
「本の事は大丈夫だ」
精霊樹はとても立派で、人がいなくてもそのまますくすくと生き続けるだろう。例え無人になった何もない村に不審者が来たとしても、樹を害することなくすんなり帰るだろう。
「精霊樹も大丈夫だ」
一番危惧するのはラルワの事だ。幼い頃から知っている生き物を置いていくのは辛い。しかもあれだけの力を持っているので、誰の手にも渡したくはない。あまりに危険すぎる。
「ドゥリ様に渡せばいいのか?いいや、それではフォンという人の気持ちが台無しになる」
頭を抱えて、白い息を吹いた。やはりここを出て行くというのは非現実的なんだろうか。
「ラルワを連れて行くっていうのはどうだ?」
僕の前に現れたのはアン・ローレだった。そして暖かい飲み物を差し出してくれる。
「あんな危ない生き物、連れて行けるかな?」
「フロリスタが昔ここに連れてきたのなら、連れて歩ける方法があるんだろう」
アン・ローレは僕の隣に座ると、昼間持ち歩いていたランプを目の前に置いた。
「何でもかんでも溶かしてしまう奴で、何に入れればいいのやら」
「あの金属の器は溶けていないようだが、何か特殊な素材なのか?」
「大昔、ゼノの中でも優秀な魔法使いが作った金属らしい。材質までは知らないな」
「なら、大昔の金属に入れればいいんじゃないか?」
大昔に作られた金属に入れれば連れて歩ける。僕は、その示唆に一つの可能性を見つけた。
アン・ローレは確か、ソラヤとキュフに連れられて図書館の地下室へ案内されていたはずだ。
「エルフェ、話は変わるが聞きたいことがあって来たんだが」
何のことかと首を傾げると、彼はランプを指さした。
「どうやってあの場で、ラルワの火を消したのだ」
「それは……」
暗くてはっきりとした表情は見えないが、彼がとても真剣なのは声色で分かった。
「ソラヤを軽々持ち上げ、凍った道も溶かしてしまう。お前は何者だ?」
「その質問に答えたなら、僕もあなたが何者か尋ねてもいい?」
隣の大男が少し迷いながらも頷いた。
「僕は少しだけだけど魔法と呼ばれている技が使えるんだ。この技は代々親から受け継いでいて、人前ではなるべく使うなと躾けられてきた」
「ゼノくらいは使えるのか?」
ゼノという人種は魔法が失われたと云われた後も微弱な魔力を保有しており、己の血液を使って魔法を使う。主に石や金属などの加工に使われる程度だというが、実際は使えないフリをしているのかもしれない。
「ゼノ達がどれほどの力を持っているかは分からないけど、おそらく彼らよりは楽に使える」
僕の場合、血液を使ったりはしないし、魔力が切れるといった疲労感も体感したことが無い。制限を感じたことが無いのだ。
「なので、この毛布の下はぽかぽかで、寒さ知らずなんだ」
暖炉が無くても寒さに凍えないし、狩りにも困らない。矢や槍は必中し、日照りが続いても雨を降らせることもできる。一人で生きていくうえで何も困らないのだ。
「その技は誰にでも使えるのか?」
「さあ、一族以外には極秘だったから使えるのかどうか分からないな」
アン・ローレに火のつけ方を少し教えたが、彼は火をつけることができなかった。
少しがっかりした彼に今度は僕が質問をする。
「もしかして、セーピア?」
「どこを見たら分かるんだ?」
僕の質問に彼は首肯し、耳の後ろを指で掻いた。
「セーピアって実在するんだ」
「それなりには存在するが、隠れて生きているだけだ」
セーピア人と呼ばれる先住民は、ルシオラ人と似た種族だと文献には書いてあった。
ルシオラ人は死者に歌を歌い、魂を外に出す。
セーピア人は生者に歌を歌うと、死んでもいない体から魂を外に出すことができるという。魂が体から出るという事は死を意味し、人々から恐れられ、迫害されて来た。
「ねえ、本当に生者から魂を抜き出せるの?」
「それは極秘だ」
それでどうしてバレてしまったのか、ともう一度聞かれて、僕はぼんやりとした推測を話した。
「はじめは声が良いのでルシオラだと思ったんだけど、薬草の匂いはしないし、ソラヤの下手な歌を気にせずに聴いていたから、ルシオラのようでそうではない何かだと思ったんだ」
アン・ローレは少し笑って、僕の背中をぽんと叩いた。それは正解という意味のようだ。
「セーピアは歌が下手だ。ルシオラの中で音痴な奴がセーピアになるとまで言われている。だから歌の下手な者には優しいのだ」
ルシオラの言う音痴というのがどれぐらいなのかは分からないけど、きっと僕やソラヤよりは上手いという事は確かだろう。
「やはりエルフェには一緒に来てもらいたい。この先、ソラヤとキュフだけでは心配だから」
「ラルワの事が解決できればいいんだけど」
「いい器が見つからなければ、エルフェがラルワの周りを冷やし続ければいいじゃないか」
それは無茶だと言うと、アン・ローレはクスクス笑って、家の中に戻って行った。
僕は真上を見上げて、白い息を吐きながら精霊樹に語りかける。
「これでいいのでしょうか」
精霊様が見えればいいのにと心の中で願った時、ハラハラと枝から一輪の花が零れ落ちてきた。
それは美しい白い花だった。
『迷子に飴を刃を差し出して戦えと鼓舞する為政者。至誠の白花はいずこに』
翌朝、天気は快晴で旅発つにはとてもいい日和になった。
三人と一羽と一頭に朝食を用意して、昼ご飯用のお弁当を作った。
「忘れ物はない?」
僕が三人にお弁当を渡しながらそう聞くと、ソラヤとキュフがこっちを睨んでくる。
「ルフェ、やっぱりここに残るつもり?」
キュフは口をへの字に曲げて、半ば怒っているようにすら見えた。
「ずっと考えていたんだ。ラルワをどうするかってこと」
少し火が移っただけで人を死に至らしめる恐ろしい炎の怪物。これを連れて市街地を歩くのは難しい。
「ドゥリさんに渡せとは僕たちには言えないな」
彼らは僕にラルワをドゥリ様に渡さないでくれと言いに来た。ラルワをゼノ達に渡せば争いごとに使って、大惨事を招くだろうからと。
「それでソラヤの真似をしてみたんだ」
僕はそう言うと、部屋に戻って物を取ってくる。そして三人の前にそれを置いた。
「これは……」
「もしかして!」
「やっぱりな」
三人はそれぞれの反応を見せたが、三人とも唇に笑みを含みながら頷いた。
「図書室の地下室にあったランタンの中で溶けない物を見つけたんだ。それでラルワにはそこに入ってもらった」
深夜、ラルワに地下室まで付いてきてもらって、沢山の空ランタンの前を移動させた。
ほとんどのランタンが熱で溶けたり、歪んだりした中、一つだけが形を保っていた。
「一番奥に置いてあった硝子の中のランタンですね」
ソラヤの言う通り、そのランタンは唯一硝子箱に収められていて、とても丈夫だった。
「断熱効果のある手袋をすれば持てる熱さだし、しかもラルワは勝手にランタンごと飛んでくれるから大丈夫だと思う」
うっかり誰かが触っても、少し熱いくらいで大怪我までにはならないはずだ。
「ルフェ、ってことは……」
「こんな無力な人間で良ければ連れて行ってくれるかな?」
「喜んで!」
「もちろんです」
飛び跳ねて喜ぶソラヤと僕に抱き着いてくるキュフの後ろでアン・ローレがため息を吐いていた、
「エルフェは無力ではないだろう」
「いいえ。無力かもしれないから。いざという時、僕はちゃんと動ける人間なのか分からない。ちゃんと二人を助けられるのか、守れるのか、頭を使えるのか、未知数だから」
僕は目の前で燃えながら落ちていく人をただ見ているだけの無力な人間だ。そんな人間が少し年をとったからといってマシになっているかどうかは分からない。
「ニト様もよく自分を無力だと嘆いていましたが、そう言う人は意外に大丈夫な人です」
「ニト様って誰?」
それに意外に大丈夫というのは褒めているのだろうか。
「シャルサックの法師様です。とてもいい人なんですよ。今度、一緒に会いに行きましょう」
「そうと決まれば出発だね」
キュフが呼びかけると、ラルワも楽しくなったのかランタンに入ったまま飛び跳ねている。
僕は今朝まとめたばかりの荷物を担いで家を出た。そして最後に玄関扉に鍵をかける。
「いってきます。橋はちゃんと燃やすから」
離れがたい気持ちと、胸がわくわくして楽しい気持ちとが混じっている。
みんなで精霊樹に別れの挨拶をして橋まで向かう。雪は道に少し残っているが、これぐらいなら橋を通ることは出来るだろう。
三人に出会ったあの橋の前に来ると、橋向の山沿いに煙が見えた。
「誰かが来た」
僕が指をさすとそこには青い服を着た十人ぐらいの一団が歩いてこっちに向かってくる。
「グッタの僧兵だ」
アン・ローレがそう言うと、ソラヤとキュフが僕の後ろに隠れた。
「二人とも、急に何?どうしたんだ」
「私達、あの人たちに会えない事情があって」
「ソラ、とりあえず隠れた方がいいかもしれない」
二人が僧兵に追われているなんて知らなかった。何をしでかしたのか事情を聞きたいところだが、まずは安全な場所に隠れることだ。
僕たちは来た道を引き返して、三人を図書館に誘導した。そして図書室の地下で隠れているようにと提案する。
「僕はこの本棚を閉じて、あいつらを追い返すから」
「ルーフェさん一緒に地下から出ましょう」
「本棚で入り口を隠さないと追いつかれてしまう。そうだこれを。お守りなんだ」
僕は首飾りをソラヤに渡す。それは狩りの時、迷子になってばかりだった僕に父がくれたもので、父曰くいざという時に役立つ代物らしい。
たぶん、ただのお守りだろうけど、魔法があった時代の意匠でとても美しくて、僕は気に入っている。
「じゃあ、また後で」
「ルーフェさん、気をつけて」
ソラヤ達を地下室に追いやると、僕は本棚に本を戻していく。本は一段目から順番通りに抜く事で棚が動き、閉める時も同じ手順で納めればいい。
本棚は生きているかのように元の場所にゆっくり戻って扉を隠す。
「確か本の頭文字を繋げるとフローラになるんだったな」
フローラ。それは花を意味する言葉。なぜフロリスタは花という言葉を鍵にしたのだろうか。何か他に意味があるのかもしれないが、それを今考えている場合じゃない。
僕は椅子に掛けられていたひざ掛けで床の足跡を消しながら外に出た。
そして精霊樹のもとに向かう。一つ失敗したのは、ラルワを三人にたくせばよかったなという事だ。
旅の荷物とラルワを隠し、精霊樹の側に戻ってくるとぞろぞろと兵士たちが大股でやって来た。
「そこの男、この村はタミア村で合っているか」
全員兜を被っていて顔は見えない。青い外套にはグッタ国の印である蜂の刺繍が施されている。
「そうだけど、こんな僻地に何の用?」
「ここに火を纏った怪物がいると聞いた。どこにいる」
高圧的な言い方で、いかにも軍人といった風だ。
「そんなのはいないけど」
どうやら彼らはソラヤ達を追って来たのではないらしい。
僕が素っ気ない態度であしらっていると、僧兵の中で一番偉そうな男が村中を捜索しろと下っ端に命令した。
そして下っ端たちが捜索から戻ってくるたび、「どこにもいません」と報告する。
「そこの男、化け物はどこにいる」
「だから知らないってば」
知らぬ存ぜぬを通そうとすると、男がこの村に以前住んでいた人物の名前を挙げた。そしてその人物の命が惜しいのなら、真実を告げろと脅してくる。
「雪が降る前、ルパの首長ドゥリ様が連れて行った」
僕はそう言えば僧兵たちがすんなり帰ると期待したが、そう甘くないらしい。
彼らは立ち去ろうとする僕を機敏な動きで追いかけてくる。
突然僕の視界がぐらっと傾く。強い衝撃が後頭部に発生して、僕はその場に倒れ込み意識が闇に呑まれていった。