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弟がいるとしたらこんな感じだろうか。
キュフに石板の家系図を見せてから、彼は何かと僕について回るようになった。
暖炉に薪をくべるときも、風呂掃除をする時も、洗濯物をたたむ時も、料理を作る時もずっと隣にいて、あれやこれやと話しかけてくる。
降り続ける雪のせいで暇なのは分かるが、ここまでついてこられては、面倒くさい。一人になれているせいもあって、隣に人がいると気が散ってしまって、簡単な事で小さな失敗を繰り返している。
薪をくべる時火傷しそうになったり、洗濯物をいつもと違う手順で畳んでしまったり、塩胡椒を忘れて味付けしたり、散々だ。
気づけば夜も更けていて、キュフとソラヤは就寝した時、あの事を聞き忘れていたことにようやく思い出したのだった。
「あ!また聞き忘れた」
「もしかして、キュフの魂の話か?」
ククの毛並みを櫛でとかしながらアン・ローレがそう、口を開いた。
「もう、調子が狂う。いつもの事がいつも通りに出来ない」
「当たり前だ。自分と違う人が近くにいるって言うのは、予測不可能な事が起こり続けるという事だ」
僕は蔵から瓶を持ってきて、大人の男の前に酒を置いた。
「グッタの果実酒なんだけど、僕は酒が苦手で。ローレさんは飲める人?」
「酒か。久しいな」
二件隣りに住んでいたおじさんが所蔵していた年代物の酒で、おじさんが亡くなる前に譲り受けたものだ。
硝子製の湯飲みに酒を注ぎ、彼に差し出す。
「ここはずいぶん、様々な国の物があるんだな。この湯飲みはマキナ国の業だ。酒はグッタ国。この獣用の櫛はロス国」
「昔はこの村に商人がよく出入りしていたらしい。商人たちは古い書物を持ってきて、村人たちに翻訳を依頼していた」
せっかく酒瓶を開けたので、僕も少し付き合うことにした。寒い夜には体を温めるのでちょうどいいだろう。
「古語の翻訳とは珍しい特技だな。エルフェも翻訳できるのか?」
「ええ。それが僕たち一族の守ってきたものだから」
統一帝と呼ばれたケルウス国の皇帝が成した偉業の一つが言語を統一したことだったという。
各民族や国で言語が違っていたため、争いが起きたのだと統一帝は語ったそうだ。
そして言葉の統一だけではなく、文字すらも統一されてしまい、過去の本が読めなくなってしまった。
「統一帝は何もかも自国の物に変えようとしたが失敗したと伝えられているが、実際はどうなんだろうかと思う事がある」
目の前の男は酒を勢いよく飲み干すと、二杯目を手酌した。
「どう、とは?」
「国土統一が叶わなかったことは有名だが、言語を統一することがどうして必要だったのかと考えるのだ」
「自分の言葉を理解してほしいからでは?」
ほら、為政者っていうのは民衆に政策理想を語って聞かせるものだろう。
「当時、魔法という超常現象が日常に溢れていた時代だ。言語の壁など本当にあったのだろうか」
「魔法ってそんなに万能だったのかな?何ていうか、思った通りに行かない方が多かったとか」
「そうか。魔法は便利な部分もあったが、万能ではなかった可能性があるのか」
古の本の中では誰もが労せず火を熾したり、雨を一部に降らせたり、重い物を軽々と運んだりしたと書かれている。
魔法など無い時代に生まれた僕にとっては、架空の話で、筆者によって脚色されているのだと信じていた。そう、ラルワに逢うまでは。
「もしくは人間の手に余る力だったのかもね」
アン・ローレが湯飲みを置いて、頭の中何かを考えながら、窓の外の雪を見つめた。
「エルフェはもし、己の力が手に余ると感じたとしたらどうする?」
僕は飲めない酒をぐいっと一杯飲み干して、その問いの答えを出した。
「人から離れて孤独に死ぬよ」
「……まさか」
何か気づいたのか、アン・ローレは僕の方を見て心配そうに眉尻を下げる。
「酔って来たので、もう寝るから」
僕は自分の湯飲みを手に立ち上がると、台所に湯飲みを置いて、そのまま自室に戻った。
冷え切った自室の空気に包まれながら、その場にしゃがみ込む。
久しぶりに誰かと話をしたせいで楽しくなってしまったらしく、余計な事まで口にしてしまいそうだった。
彼らは雪が止めば出て行くのだから、深くかかわらない方がいい。
「あーあ。別れが、辛くなりそうだな」
日常を邪魔されているような気がするのに、どうしてこんなに楽しく、胸が暖かになるのだろう。
次の日はようやく雪が止んたが、灰色の雲は空を覆ったままで、凍えた突風が吹いている。
アン・ローレが橋を見に行って帰って来たが、雪の埋もれて歩けるような状態ではなかった。
例え雪かきをしたところで、橋は鉄製のような素材で作られていて、つるつるに凍ってしまっている。無理に通れば橋から落ちて谷の底行きだ。
旅人たちはまだこの村に足止めされるようだった。
ソラヤとキュフが暇そうに窓の外を眺めて、歌を歌っている。雪の降らない国で育ったようで、外に出て雪遊びをしようとはならないらしい。
キュフはルシオラらしく、見事なまでに上手に歌えるのだが、ソラヤはお世辞にも上手いとは言えない歌唱力だ。
「図書館に行くけど、一緒に行く?」
このまま歌い続けられても、読書に邪魔になるだけなので誘ってみた。
二人は目の色を変えて「行く!」と跳ねるように立ち上がる。
そして僕は家に持ってきていた本を集めて、外套を羽織った。
図書館は僕の家の裏側にあるので、裏出口から外に出る方が早い。
「大きな建物ですね」
裏口からすぐに図書館は目に入る。木を挟んだ向こう側には、この村一番の大きな三階建ての建物が堂々と座っている。
背の高い重い扉を開き中に入ると、しーんと静まった空気に包まれ、紙と墨の匂いが仄かに鼻に届く。
「好きに読んでいいよ。僕は本を戻してくるから」
中央部分が吹き抜けになっていて、天窓から光が降ってくる設計だ。
建物の壁部分が全部書棚になっていて、所々に梯子がかけられている。
一階の背の低い棚と棚の間には机が並べられ、そこで座って本を読むことができるようになっている。
「キュフ、何の本を読む?」
「ありすぎて困るね」
楽しそうな二人は次々に本を手に取って、キラキラした目で中身を眺めていく。
僕は本を戻すと、一階に降りていって彼女たちに呼び掛けた。
「本を決めたら家に戻ろう。ここは暖炉が無いから寒いし」
紙製の物が多く保管されているので暖炉などの暖房器具は置くことができない決まりだ。
「ルーフェさん、薬草関係の本はどこですか?」
「それなら、二階になるけど」
指を刺すと、ソラヤは一目散に階段を駆け上がていく。
「ルフェ、歴史関係はどこ?」
「歴史書は一階の奥の方」
キュフも走って奥の方へと消えていってしまう。
「翻訳された古の書物はどの辺りだ?」
「貴重な本は三階にあるけど」
アン・ローレも身軽い足取りで階段を上り、ソラヤを追い抜かしていく。
「皆、早く決めて。寒いから」
僕は一階の長椅子に座って、読みかけの本を開いた。天窓から光が入ってくるのでこの場所ははっきり文字が見えるので好きだけど、入り口や窓から冷気が入ってくるので足が冷える。
「ルーフェさん、持ち出しは何冊までですか?」
二階からソラヤがご機嫌な声で呼びかけてくる。
「好きなだけ構わないよ」
「でも、たくさん持ちだしたら元の場所に戻せないかもしれません」
「本には全部印が付いているから、元の場所に戻せるんだ」
僕が本の背表紙下部を突っついて示すと、彼女も手持ちの本を確認して納得したようだった。
「エルフェ、エアルの手記は置いていないのか?」
三階からアン・ローレがとても響く良い声で僕を呼んだ。
「あの本は翻訳不可能で、ここには無いから諦めて」
あの大罪人が最後に残した手記は、あまりにも解読不能なので魔法がかけられているという噂た。誰一人解読できた人はいないと聞くし、未だに研究している人が各地にいるとも言われている。
僕は三人が本を持ってくるまでの間、古語で書かれた本を読みながら待つことにした。
挿絵が多く、色とりどりで文字も大きいこの本は、いかにも昔の時代を象徴している。
魔法があった時代の本は簡単に本を作れたのだろう。色彩も豊かで、紙も贅沢に使われているし、文字の墨も二百五十年以上経っているとは思えない程、発色が良い上に書体も綺麗に整えられている。
「何が書かれているんですか?」
急に肩を叩かれて、はっとした。
「びっくりさせてごめんなさい。何度も声を掛けたんですが、ルーフェさん熱中していたみたいで」
「ああ、ごめん。本を読むと周りの音が聞こえなくなるんだ」
ソラヤは僕の隣にいつの間に腰かけていて、口角を上げて優しく微笑んでいる。天窓の光に照らされて、彼女がお伽話の中の住人かのように見えた。
「その本、古い文字で書かれてあるんですね」
「うん、そう。これは児童書だよ。翻訳しようと思って」
「翻訳できるんですか?すごいですね」
そんなことはない。とぶっきらぼうに答えると、ソラヤは二階から持ってきた本を手に取って一番最後の頁を開いた。
「もしかしてこの本は、ルーフェさんが翻訳したものですか?」
最後の頁には僕の名前が書かれている。
「そうだけど」
彼女は本をぺらぺら捲りながら一々感動の声を出して目を輝かせている。
「僕の祖父の時代ぐらいまでは、翻訳したら活版印刷して製本していたんだけど、印刷機を使える人が減って手書きで残すようになった。だから、その本は僕の汚い字で読みにくいかも」
ソラヤの持っている本は薬草の本なので、植物画がほとんどだ。文字が少なかったので、原文の上に翻訳文を張り付けてある。
「大丈夫です。ちゃんと読めますよ」
「そ、それなら良かった」
彼女があまりにも楽しそうに話すので、少し照れてしまい、目線を逸らしてしまう。
「何々、お二人さん楽しそうだね」
後ろからキュフが、僕たちの間に顔を突っ込んできた。その表情は何やら変に勘ぐっているように思える。
「キュフ見て、これ全部エルフェさんが翻訳したんだって」
「へえ、フロリスタは文学者だったらしいから、文字関係が得意なのは血筋なんだね」
少年に先祖の話をしたことがあっただろうかと思い返してみるが、彼にフロリスタの職業までは話していないはずだ。なら、なぜ知っている?
「ソラ、寒いし家に戻ろう」
キュフが前に回り込んで、ソラヤが集めてきた本を全部持つ。若いのに紳士なんだなと感心した。
「そうだね。ルーフェさん、帰りましょう」
そしてキュフの抱えた本の半分以上をソラヤが取り戻すと、三階にいるアン・ローレに呼び掛ける。
「アン・ローレさーん。先に戻ってますね」
三階の手すりの隙間から、返事の代わりに筋肉がしっかりついた腕が伸びて、ひらひら動いた。
図書館を出る時、キュフが僕の真横にぱったりくっついてきて、服を引っ張る。
「何?」
「ソラをたぶらかさないでくれる?」
「勘違いだ」
「ならいいけど」
少年が意地悪そうな顔で僕を見上げていた。