2
.2
夕方から雨が降り始めた。雪交じりの冷たい雨で、気温もだいぶ下がってきている。
旅人を僕の家に呼んで、居間にある暖炉に火を入れた。
三人は暖炉の温かさになごみ、熱々の食事を出すと歓喜し、水がたっぷりの風呂を沸かすと泣いて喜んだ。
「クク、あまり近寄ると毛が焦げるぞ」
暖炉の前から動こうとしない大型猫のような動物はシレントといって、死肉を食うことで有名だ。
僕の勝手な印象はもっと薄汚い怖い動物かと思っていたが、それは偏見だった。シレントはふかふかの美しい毛並みを持っていて、穏やかな性格をしている、とても可愛らしい動物だ。
動物用の櫛で毛並みをとかしてやると、シレントのククは気持ち良さそうに目を細めた。
赤い鳥のロアも飛んできて、ククの背中の上で羽を休める。なんとも穏やかな光景だなと思って、口元に笑みがこぼれた。
「この村ではよく雪が降るのか?」
アン・ローレと名乗った大男は筋肉粒々の逞しい体で、手も足もごつごつしていていかにも旅人といった風だ。
彼は窓の外を眺めながら眉間に皺を寄せている。
「毎年薄っすら積もるくらいは降るけど、この感じだとけっこう積もりそうだ」
雨交じりの雪が本格的な大粒雪に変わり、雪の積もる音すら聞こえてくる。
「雪が止むまで旅に戻ることは出来なさそうだ」
「数年に一度は大雪が降って橋が通れなくなることがあるんだけど、それが今年でないことを祈るよ」
五年前の大雪では三日降り続き、この家の扉が開かなくてずいぶん苦労した。
橋にも雪が積もり凍ってしまって渡れなくなり、行商人が立ち往生したこともある。
アン・ローレは「そうか」と小さく呟いて、窓から離れようとするので、「旅は急ぎなのか?」と尋ねると、彼は足を止めた。
「春に目的地に着かなくてはならないのだ」
「三人で向かうの?」
「いいや。キュフとソラヤとはマキナ国までの約束だ。二人はそこからロス国へ向かう」
よくよく聞けば、三人は旅の道中で偶然出会った仲らしい。
もともとアン・ローレは二人の用心棒としてカペル国で雇われたとか。
「キュフとソラヤは姉弟?」
「二人は他人だ。瀕死状態のアロアという少年の体にキュフの魂を入れたと聞いている」
「はあ?」
ちょっと待て。何の話をしているんだ?
魔法が使えなくなった人間が、魂を移し替えるなんて恐ろしい技が使えるはずがない。
そもそも、魔法があった時代にもそんな奇怪な事が出来ていたという記述は見たことが無い。
「詳しい話は、二人に聞いてくれ。こっちも理解に苦しんで曖昧にしているんだ」
僕はその話の真相を聞くべく、別室で布団を用意している二人を尋ねるが、扉を開けると灯が消えていて、二人は寝台の上ですやすやと穏やかに眠っていた。
扉をゆっくり閉め、僕も一先ずは休むことに決めた。
この雪ではおろらく三人はこの村に明日も滞在するだろうから。
「つまり、君たちはラルワを使わせたりするなって言いに来たってこと?」
次の日の早朝から深刻そうな顔で僕の許にやってきたソラヤとキュフは、僕の手をとって一生懸命に頭を下げてきた。
ウルラの首長であるフォンという男からの伝言だそうだが、そんなことを言われても困るというもの。
「きっとルパの首長ドゥリさんがやってきて、戦に使うと言うはずです」
ここタミア村はルパという国があった時からルパの一部だ。村長の上はルパの首長で、僕は村長を任された時から、ドゥリ様には逆らえない。
「僕にはラルワの管理を任されているだけで、使用権は無い。ドゥリ様が渡せと言えば渡すしかない」
「そこをなんとか!」とキュフが大袈裟にお願いしてくるが、何と言われようとも僕にはどうすることもできない。
「そもそも、二人はラルワがどんな生き物か知って言ってるのか?」
目の前の二人はきょとんとした表情を作って、二三回瞬きをした。どうやら知らないらしい。
「ここにいるのは劫火のラルウワ。言いにくいからラルワと呼ばれることが普通になったって聞いている。劫火のラルワはドロッとした高温の液体みたいな姿で、専用の入れ物に入れておかなければ、何もかもを燃やし尽くしてしまう」
魔法があった時代に特注でゼノの大魔法使いに作らせたという、特殊な素材の籠に入れられている。
「とても扱い辛い生物だ。いくらゼノだろうと魔力が弱くなってしまった彼らの手には余ってしまうと思うけど」
これから戦を仕掛けるために使おうという発想は分からなくもないが、あまりに高温過ぎるせいで自滅し兼ねないと思うのだが。
「でも、カペル国に広まった流行り病を撲滅するためにラルワを使ったって聞いたけど?」
「キュフ、それは本当か?」
確かに去年ラルワを渡せと言いに来たことがあった。だが、数日ですぐに帰って来たので特に気にも留めていなかった。
ゼノ達がラルワの火を借りに来ることは多々あることだと父が言っていたからだ。
数日でここからカペル国を往復したとは考えにくいので、きっと火だけを移して使ったのだろう。
でもどうやって……。
「それで、カペル国はどうなった?」
「……何もかもなくなって、焼け野原に」
「――――」
言葉を失った。
例え小国とはいえ、田畑や民家など多くの人々の生活がそこにあったはずだ。それを、ラルワの放つ炎だけですべて焼き尽くしたというのか。
「……僕があいつの炎を過小評価していたんだな」
ラルワはあまりに強すぎる熱を持つせいで、人間の思うように使うことなど不可能だと思っていた。が、考えが甘かった。
この時代にも魔法を自在に操り、それなりに強い力を維持している者が存在するという事を。
僕は席を立つと、雪がまだ降り続いている外に出る。後ろでは呼び止めるソラヤの声が聞こえたが、気にせずに勢いよく扉を閉めた。
新雪の白い道に足跡をつけながら、村の墓地へと足を進めていく。
タミアでは死者を土葬し、三年後に上から木を植える。
雪で白くなった二本の小柄な木の前に膝をついて地面に手をつく。
「父さん、母さん、ごめん」
ラルワの管理を任されている一族の末裔として、カペル国のことを知らなかったのは罪だ。
「ばあちゃんもじいちゃんも、フロリスタ様も本当に、本当に申し訳ないと……」
雪の上に置いた手がかじかんで、膝も冷えて固まってくるのが分かる。
そして千切れそうに冷える耳、肺まで凍てつきそうで、体の中から温かさが消えていく。
滲んだ涙まで凍りそうだ。
「僕はどうすれば……」
ラルワに人々を襲わせるのは一族の本意では決していない。あの生物は貴重な預かりものであり、殺人兵器ではないと教えられて育った。
首長であるドゥリ様が渡せと言えば渡さざるを得ないし、人殺しには使わないでくれと嘆願してもきっと無意味だろう。あの女首長様は意思の固い人だから。
「やっぱり、橋を燃やすしかない」
三人の旅人を追い出してすぐに橋を燃やしてしまうしかない。しかし、この雪では旅人は橋を渡ることが困難だろう。
「雪が止んだら、この村を閉じよう」
新雪におでこを埋めて、両手を強く握りしめていた。
背中を誰かに撫でられて、僕はとっさに顔を上げた。
振り向くとそこにはソラヤが居て、僕の背に積もった雪を払っていてくれているようだ。
「凍死しますよ」
あらかた雪を落とすと、毛布を僕の肩にかける。柔らかい温もりが背中と肩を包んだ。
「まだ死なないから。それよりどうしてここだって分かったんだ?」
「足跡を辿って来ました」
ソラヤが踏み固められた雪を指さすと、僕たちが来た道をキュフも歩いてくるのが見えた。
「ソラ、歩くのが早いよ」
「だって、ルーフェさんが凍死するんじゃないかって思って」
いつの間にか愛称で呼ばれていることに驚いた。しかも、その呼び方は幼い頃呼ばれていたもので、とても懐かしい。
「お兄さん、突然飛び出すからびっくりしたよ。大丈夫?」
病弱そうなキュフは寒さに弱いらしく、唇を真っ青にさせて、ガタガタ震えている。
僕はソラヤが持ってきた毛布を少年にかけてやることにした。
「僕は大丈夫。心が迷った時はここに来るのが癖みたいになっているだけだから」
返答の無い相談。一方的な報告。結局はただの自問自答に過ぎないのに、どうしても墓に向かって語りたくなるのだ。
「君たちがこの村を出て行ったら、橋を燃やす。それならフォンっていう人の願い通りになるよね?」
ソラヤが眉間に皺を寄せて、悲し気に僕をじっと見つめてきた。
「それでいいんですか?」
「どうせ独りだから、それでいい」
僕は二人に帰ろうと呼びかけ、来た道を再び辿って帰ることにした。
キュフとソラヤを先に歩かせ、僕はその後ろを歩く。
「そうだソラヤ、言い忘れていた」
彼女が長い髪を揺らして振り向く。
「毛布をありがとう」
「ど、どういたしまして」
ちらちら降る雪が視界に入って煩わしいのか、僕と目を合わせることなく正面を向きなおし、キュフを追いかけるように歩き出す。
人に礼を述べたのは、どれくらいぶりだろうか。僕はどれくらい独りで過ごして来ただろうか。
振り返ると墓地には大小さまざまな樹々が生い茂っていて、死んでも埋葬してくれる人がいない自分がこの中に混ざることが無いことを改めて感じるのだった。
『不知の罪はいずれ巡り、氷雪に死ぬがごとく己に降り懸る』
いつか読んだ、フロリスタの詩が脳裏に過る。
昼食後、食器を洗っているとキュフが僕の背中をポンポンと叩いて声を掛けてきた。
「ねえねえ、ルフェ。あれは何?」
指を差した先には、たくさんの文字が書かれた一枚の石板だ。
「ああ、あれは家の家系図だよ」
僕は最後の一枚の皿を拭き終わると、石板の前にキュフと向かった。
石板は二階へ続く階段の踊り場の壁に飾っていて、大きく、かなり重い。
「上から二段目のフロリスタと書いてあるのが見える?」
「……フロリスタ」
「彼が僕の先祖になるんだけど、もしかして知ってる?」
キュフはじっと真っすぐな瞳で石板の文字を見つめている。
「大罪人エアルの仲間、だよね」
「そう。やっぱり悪名高いのか」
先祖フロリスタという男は大罪人と呼ばれている男の親友だったらしい。
「フロリスタ様はこの土地をとても気に入って住み着いた。そして自分の子どもに親友エアルのエルの字を名前に付けたんだ」
石板の三段目に書かれた名前は「エル」そして、その後も子には皆、「エル」が受け継がれていく。
「シエル、エルヴィス、エルーカ、ミエル、ダニエル、リエル、エルナ、などなど。この通りエルばっかりなんだ」
キュフが胸に手を当てて、ぎゅっと指に力を込めている。昼食が胸やけを起こしているのだろうか。
「エルフェって名前、変わってるのはここに名前が被らないようになんだね」
彼は苦しそうな表情で一番下に刻まれた僕の名前を手でなぞった。
「キュフ、苦しいなら横になった方がいいと思うけど」
「お気遣いありがとう。でも違うんだ。この胸の苦しさは、気持ちが、感情が苦しいんだ。だから大丈夫」
どうして他人の家系図に胸が苦しくなるのか、僕には想像もつかない。
後々ソラヤにこの事を話したら、彼女は「キュフは思い出せない家族の事を思ったからなのではないでしょうか」と答えた。
「私だって、あの家系図は羨ましいですから」
僕にとってはただの石板で、会ったこともない人たちの名前を連ねただけの石。
「そうなんだ。あれはもう完成されたものだから、割ろうと思ってたんだけどな」
「完成ってどういう意味ですか?」
「橋を燃やしたらこの村には僕一人。この後に名前は続かないから」
ソラヤが何か言いたげ顔でこちらを見てきたが、ちょうど雪かきに出ていたアン・ローレが戻って来たので、ソラヤは言葉を飲み込んでしまった。