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その男は文字を愛していた。
その男は言葉を愛していた。
美しい山を見れば詩を書き、誰かの人生を聞けばすぐに文字に起こす。
琴線に触れたことはすべて文字で著して残し、また誰かに文字で語るのだ。
自称、さすらいの文士。
友は紙とペンと、僕くらいなもので、極度の人見知りである。
人見知りさえなんとかすることができたなら、もっと多くの作品を世に残すことができただろうが、この性はとうとう治ることがなかったようだ。
僕と別れた後の彼を知らないが、きっとあいつは死ぬまであのままだろうと思う。
一々言葉にこだわり、語順にこだわり、言い間違いに厳しいが、彼の綴る言葉はなぜかすべて美しく、細部に優しさが溢れていた。
エアルの手記より。
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アルス国一番の僻地と呼ばれているこのタミアの村は、行き止まりの村「幽谷の淀み」と呼ばれている。
山奥の長いつり橋を渡ったら最後、引き返す以外に道が存在しない、どん詰まりの場所なのだ。
そんな何もない場所に尋ねてくる旅人などは、多くの場合遭難者。目的地がタミアだという者などめったにいない。
僕は松明片手に、村の唯一出入り口であるつり橋の前で立っていた。
谷間に吹き抜けていく冷えた風に乗って、冬鳥たちが数羽飛び去って行く。この辺りの春はまだ遠い。
反対側のルパという村とタミアに架かるこの長い橋は、しなやかな金属で作られ突風にも煽られず、雨に打たれても落雷でも落ちることは無い。
魔法があった時代の遺産というやつで、どのような方法で作られ、どのようにして反対側に渡したのか想像もつかない。
そしてこの二百五十年近く補修せずとも、新品のようにありつづけている。
僕はこれからこの橋を燃やして落とそうと思う。
白く燃える炎が空に煙を噴き上げて、松明の木を食っていく。早く手を離さなければ、僕の手を燃やして消し炭にするだろう。
つり橋の地面との接合部分に火を近付け、生唾を飲んだその時、橋が大きく揺れた。
「どうして人が?」
つり橋の大きな揺れの原因は、人が橋を渡し始めたからだった。
人の姿は三人。そして四つ足の動物と赤い鳥。
身形から考えて、男が三人。背が高く逞しい体つきの大男と、ぶかぶかの服を着た髪の長い青年と、ガリガリの小柄な少年の三人。
「キュフ、押さないでよ」
「押してない。ソラこそ揺らさないで」
長い橋の下は、人などが砂粒に見えるほどの谷だ。橋を渡り始めた三人は高さと揺れで足がすくんでしまっている。
このまま渡るのは無理だと諦めて立ち去ってくれないかと心の中で願ったが、三人は少しずつではあるがこちらに向かって進んできている。
来られては困る。橋に火をつけられないじゃないか。
「旅の方、こちらには何もない。行き止まりだ。今すぐに引き返したほうがいい」
松明を振りながら大声で呼び掛けると、三人が僕の方を向いて、どこか歓びのような歓声を上げている。
赤い鳥が松明目掛けて飛んでくると、躊躇なく僕の肩に停まった。
鳥の爪は痛くて、その上重い。
「今すぐに戻れ。君の主人にもそう伝えろ」
鳥に話しかけても、鳥は首を横に傾けるだけで動こうとしない。
「ソラヤ、キュフ。こういうのは一気にやってしまうほうが楽だ。さあ、手すりを離して真ん中に立て。まっすぐ前だけを向いて歩けばいい」
一番の大人らしき大男が僕の方に向かって指を刺している。どうやら引き返す気はないようだ。
僕は松明を地面に落として、両手を三度叩く。すると、白い炎が静かに消えた。掌に描いていた火を消す陣を服でこすって消し、自分の不甲斐なさに大きなため息を吐いた。
旅人たちは恐る恐るつり橋を渡りきると、ガタガタ震える足で陸地に降り立つと一斉にバタバタと倒れ込んだ。
「気が済んだら出て行ってくれ」
僕は赤い鳥を振り落として、目の前で突っ伏している人を置いて帰ろうとした。すると白く細い手が伸びてきて、僕の手を掴む。その時、ようやく気が付いた。
「何のつもりだ」
「私達、人を探してここまで来たんです」
顔を上げた女性はまだ若く、僕より少し年下のように見える。男装をしていたので、てっきり男かと思い込んでいた。
「あの、ラルワの管理者さんはどこにいますか?」
「えっ……」
僕の腕を支えに立ち上がろうとする女性だったが、足に力が入らないようで僕にしがみついたまま足を投げ出している。
そして子どもの旅人まで僕の服にぶら下がって助けを求めてくるのだった。
「お兄さん、しばらく歩けそうにないから運んでくれないかな」
「私も足に力が入りません」
僕は二人を無理矢理引きはがし、無視して家に帰ろうと歩き始めると、女性と少年は必死に手を伸ばして僕の服の裾を握るのだった。
「離してくれ」
「お兄さん、お願いちょっと待って。もう少しで歩けるようになりそうだから」
尻餅をついたまま苦笑いを浮かべる女性の隣で、大男が連れていた動物に自分の荷物を括りつけて、少年を担いだ。
「キュフを先に運んだら、ソラヤを迎えに来るから」
「アン・ローレさんありがとうございます」
肩の上の少年は荷物のように扱われていると喚いてジタバタしている。
「村人の方、宿まで案内してくれないだろうか」
大男はとても深く通るいい声をしていて、この声を一生忘れられないだろうと思えるほど印象的だ。
「雨も降りそうだし、この辺りには獣も出るので、彼女は僕が運ぶよ」
旅人が野生の肉食動物に食われようが知ったことではないが、ラルワの事を知っているようなので放っておくわけにもいかない。
仕方なく決心し、僕は彼女を背負おうとしたが、荷物を前後ろに抱えている人を背中に乗せると背骨が痛そうだったので、胸の前で抱えることにした。
「私、重いですよ」
「えっと、その、気にしないで」
いくら彼女が細身だろうが、僕みたいに筋肉量が少ない人間には重労働だろう。しかし、僕にとっては軽いのだ。
女性のわきの下とひざ下に腕を回し持ち上げると、大男が驚いた顔をした。
「どうしてそんなに軽々持ち上げられるんだ?」
「ええっと、コツがあるとだけ」
担がれた少年も僕の方をじっと見つめて、何か違和感を覚えているようだ。
「ご迷惑をおかけします」
腕の中の女性が居心地悪そうにそう言うので、「まったくだ」と言い返しそうになって辞めた。女性ととても近い距離で目が合ってしまったら、男という生き物は言葉を失うのだなと初めて知った。
「村はこの道を道なり進めば着くので、ついてきてくれたらいい」
僕が歩いた後から大男と動物がついてくる。そして風に流されながら黒い灰のような塵がパラパラとかすかに舞って、草むらに消えた。
精霊が慈しむ豊穣の幽谷。と彼は評してこの地に住み着いたという。
水がとても澄んでいて、日当たりのよい開けた土地に、ほどよく風も吹く。野生動物や虫もこの地を好ましく思うらしく、いろんな植物の種を運んできて年中食物に困ることは無い。
「綺麗な村ですね」
僕の腕の中で彼女がため息を吐いた。
「春になればこの辺りは一面花畑なって困るくらい」
「花畑になるのは困るんですか?」
女子どもが花が好きなのは、どこの国でも一緒なのだなと思った。
「花粉がたくさん飛ぶから、くしゃみが止まらなくなる」
「なるほど。でも、綺麗なんでしょうね」
彼女は冬の花を指さしては、雪兎が草むらに隠れるのを喜んでいた。
「何と見事な……」
感嘆が漏れたのは少年を担いでいる大男だった。彼が見惚れたのは、村の中央に立つ大樹だ。
「精霊樹だ。タミア村はこの樹のおかげで成り立っている」
太い幹は人が三人手を繋いでも足りないくらい太く、枝葉には様々な葉が生えていて、花も季節ごとに違う種類の花が咲く。今は、春を待つ薄桃色の花が満開だ。
僕は樹の根元に彼女をおろすと、精霊様に呼びかけた。
「精霊様、旅人が三人と一頭と一羽来ました。彼らを客として迎えます」
僕の行動に旅人達が不思議そうに口を開けている。どうやら三人は精霊樹を始めて見たらしい。
「お兄さんには精霊様が見えるの?」
少年が樹にかたりかける僕の顔を覗き込んで、瞳の色を確認した。
「僕には見えない。でも、余所者が入ってきたら精霊様に挨拶するのが習わしだから」
「キュフ、精霊様って見えるの?」
すっと立ち上がった彼女は幹の周りをぐるりと回って、精霊様を探すように上を見ている。なんだ、歩けるんじゃないか。
「見える人には見えるっていう話だよ。僕も詳しくは知らないけど、精霊様を見た人は瞳が琥珀色に変わるんだって」
外国の小さな子どもでも知っている伝承になっているのだな。ゼノ達の文化や風習を広めたのも僕の先祖の功績だろう。
「キュフ、どうしてそんなに詳しいの?」
「何故だか分からないけど、思い出したんだ」
赤い鳥が樹の枝にとまって、花を突っついている。精霊様の樹を傷つけてはいけないので、石でもぶつけようか迷う。
「君たちのあの鳥の名前は?」
「ロアって言います」
「そうか。ロア、樹を害するな。下りてこい」
僕が呼び掛けると、ロアは翼を広げて僕の伸ばした腕にゆっくりとまった。聞き分けは良い方で助かる。
「お兄さん、動物と話ができるの?」
少年がロアを捕まえながら、不思議そうに首を傾げる。
「まさか。動物の方が人間の言葉を理解しているのだろう」
動物は賢い。危険をすぐに察知し、人と共生できる距離を保とうとする。人の方がよほど距離感を誤りがちだと思う。
樹から萎れていない花が一輪零れ落ちてきた。きっと鳥がつついたせいで落ちてきたのだろう。
仕方ないから僕は花を彼女に差し出す。男よりも女の方が花が似合うから。
「精霊樹の花にはお守りの効果があると言われている。旅人にはあっても困らない」
「ありがとうございます。あの、私はソラヤといいます。お名前を聞いてもいいですか?」
「僕はエルフェ」
「エルフェさん。この村に住んでいるのは貴方だけですか?」
村なのに不自然なくらい静かで、人の気配を感じない。
通り過ぎてきた民家はみな、蔦や雑草で覆われていて人が住んでいるいるようには見えなかっただろう。
「ああ、この村には僕だけ」
僕はこの村を閉じる最後の住人だ。