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The thing I fear most is fear. 2

 風呂から上がり、血生臭さともオサラバした阿偉矛はムスッとした顔から戻らない夏美を前にして阿偉矛は冷蔵庫にあった牛乳を惜しげもなく棚にあったコップに注いで喉を鳴らして飲み始める。もちろん、それは夏美が同じくお風呂上がりに飲もうと買っておいてもので、当然許可などもらってはいない。

 頬を引きつらせながら、さらに怒りを溜め込む夏美だったが、それをあえて言葉にはしようとしなかった。おおよそ、怒っていても話が進まないと学んだよう。

 不埒を抽出して生まれたての人間性をはめ込んだようなハチャメチャな阿偉矛を家にノサバラせているのは、夏美には迫りくる使徒をどうにもできないということの他に、聞きたいことがあったからだ。


「あなたの目に余る行動もとりあえず横に置いておいて」

「お、ナッツもあんじゃねーかよ」

「一回死ぬ? ねえ、死ぬ?」


 沸点が低いわけではないが、阿偉矛のせいでそう思われても仕方ないほどに怒り狂っている夏美。とうとう阿偉矛の胸ぐらを掴み、柔術の体重移動を使用して阿偉矛を無力化し、左手に光るもの(包丁)を持って聞く。

 ふざけすぎに概ねの理解が及んでいる阿偉矛は、半泣きで両手を上げてもうしないと伝える。


 リビングにあるテーブルを挟んで二人は腰掛ける。

 落ち着きを取り戻すために大きな息を吐き出して、夏美は単刀直入に聞きたいことを口にした。


「ボクに与えられた“寵愛”ってやつ。あなたはどう見ている?」

「なんでぇ。まだ気がついちゃいないのかい。嬢ちゃんみたく頭が冴えてるやつなら、もう気がついているもんだと想ってたけどな」


 普段に頭が冴えてると近所のおばさまたちに噂されるのは誇らしいものだが、阿偉矛に言われるとおちょくられているようにしか思えないのは何故だろう。まあ、容姿が普通ではないから、何を言っても怪しさしかないわけだが。

 何も言わず、真剣な目でふざけた様子の阿偉矛を見つめ続けるや、阿偉矛はつまらさそうに頬杖を立てて短く息を吐く。


「わーったよ。嬢ちゃんの“寵愛”だったか。オレが思うに万物――それこそ死者や霊的存在に至る全てって意味で、嬢ちゃんは万物に愛されている」

「……つまり?」

「愛されるってのは、傍から見りゃ羨ましいもんだが当人からすればとんでもねー。なぜなら、無償の愛ってのは、無性に他人を惹きつけるって意味にほかならないからな。それが万人ともなればうんざりもするだろうさ。まして霊的存在にまで派生した日にゃ……オレだったら考えたくもない地獄だね」


 顎に手を当てて、夏美は少し考える。ともすれば思い出しているのかもしれない。

 他人と比べて、自分の周りはどうだったかを。気にもしていなかった、周囲の環境という不確定なものを。そして思い至る。今の今まで気がつきもしなかった事実に。

 夏美の周りには常に人がいた。しかも不特定多数の。クラスメイトであったり、通行路ですれ違う人たちであったり。様々なシーンで夏美は確かに好意を持たれていた。


 例えば、夏美が学校で居眠りしていたとしても、担当教諭は周りを叱るときとは明らかに丸く話しかけてきた。知らない場所で落とし物をしても、すぐに人が届けてくれた。果ては商店街の人たちも、優しかったかと言われれば十二分に優しすぎたように思える。

 思い至る節があることを悟った阿偉矛はニヤリと笑ってうなずく。


「嬢ちゃんは気にもしていないと思うがな。その武術。センスだけのものじゃないだろう。習ったな?」

「そ、そうだけど」


 確かに夏美は武術を習っている。概ね一通りの武術は身につけている。でなければ、運動とは程遠い浪人生で男の阿偉矛を圧倒するなどできやしない。


武術それも“寵愛”を意識した無意識が学ぼうと思ったんだよ。近づいてくる悪意に変換される好意に屈しないために」

「じゃあ、あなたはボクが無意識下では気がついていたと言いたいの?」

「そうとも。でなきゃ、身を護る術なんざ習わない。いいか。人ってのはな。自らに危険が及ぶと知っていなきゃ戦う術は習わねぇんだよ」


 親の影響でそうなることは多々ある。だが、概ね例外を除けば阿偉矛の言ったとおりの理由が適応される。

 かわいい女の子が自らの危険を察知してキックボクシングを始める。そうだろうとも有り得る話だ。

 しかし、可愛くない女の子は親の勧めを除けば、自らを可愛いと思っているか、あるいは周りに合わせてでしかそういうことをしない。偏見と思うか? 襲われる心配が無いのに戦う術の必要性が一体どこにあるというのだ。無論、武術が大好きともなれば話は変わるが。

 つまるところ、愛される存在は身を護る術を修めるのだ。

 そして、夏美の“寵愛”。文字通り愛されるという単純が故に純粋に厄介な“寵愛”だ。


「あなたがボクのような“寵愛”を探していた理由は?」

「察しがつくだろ。使徒の上位種――天使を呼び出すのさ」


 天使。

 そうかボクはファンタジーな世界に足を踏み入れたのだったな、と。夏美は天を仰いだ。

 現実を現実として認識したくない夏美はしばし阿偉矛から目をそらしていたが、そうは問屋がおろさないと、現実は否応なしに夏美を引き戻す。


 そも、天使とはなんだ。使徒と何が違うというのだ。

 夏美にとって使徒も天使も言葉の違いでしか認識できない。阿偉矛の言う通りなら上位種たる天使は、そりゃあ強いのだろう。強力で凶悪で、なんで天使なんて言われているのか不思議で仕方ないくらいに強大なのだろう。

 しかしだ。夏美にその違いが性格にわかるか。些事と切り捨てられるほどに強大な二つの存在の違いが、一般人たる夏美に認識できるのか。否だ。

 天使と使徒の違いを明確に語るには、それらに準ずる強さを持たなければならない。なぜなら、強大過ぎる二つは一般人の夏美から見れば、同じく死を届ける存在でしか無いのだから。


 では、阿偉矛の言う天使を呼び出すという文言の一体どこに、夏美へのメリットが存在する?

 危険な生物――生物と言っていいのか甚だ疑問だが、ともあれ天使と呼ばれる存在を呼び出すために利用され、ともすれば危険を伴う行動に、果たして夏美にそれだけをさせる理由があるというのか。


 ある。結論からすればあるのだ。少なくとも阿偉矛はそう想っている。

 だからこそ、薄ら笑いをし続けいられるのだろう。


「嬢ちゃんはこう思う。天使を呼び出すことそれ自体がデメリットではないかと」

「だろうね」

「それがそうでもないんだよ。気がついているだろうけど」


 その気付きは、一体どういうものか。呼び出すメリットか。あるいは呼び出さないことによるデメリットか。


「呼び出せば――もちろん成功すればの話だが。天使が現れれば、必ず戦いになる。奇しくもそれに巻き込まれることになるわけだが、これをデメリットと思ってもらっちゃ困る」

「なぜ?」

「天使は狩れるからさ。当然俺がいるからな」


 この胡散臭さを欺瞞で捏ねたような怪しい男のどこを見て当然天使は死ぬだろうと思えるのか。

 まあ、少なくとも使徒を倒すところを目の当たりにしてしまったから、文句はそうそうに言えないが。


「天使を呼び出すことに危険はあるが、呼び出さないことのほうがおそらくは危険だ」

「だからなんで」

「天使が死滅しなければ、使徒は生まれ続ける。つまり、嬢ちゃんの本当の敵は天使ということになる」


 言い換えるならば、襲われたくなければ天使を殺さなければならない。と、そう言いたいらしい。

 馬鹿げている。いいや、今の阿偉矛の言葉に嘘があろうがなかろうが馬鹿げているなどとは思わないが、本当に馬鹿げているのはそんなことに巻き込まれた自分自身の人生というものの方だ。

 ファンタジーもファンタジー。天使や不老不死者などと呼ばれる者たちの戦いに巻き込まれるのに、夏美は言うまでもなくひ弱過ぎる。人として脆弱なのではなく、異常でないが故に異常に能わない。夏美はこの世界に足を踏み入れるには普通がすぎた。

 とにもかくにも、夏美の敵は天使という存在らしい。生まれ続ける使徒を殲滅する力を持たない夏美は天使を殺すことでしか平穏を取り戻せないようなのだ。


 しかし、たとえそうだとしても、夏美には一縷の不安というものがある。

 それは、阿偉矛が本当に天使を倒せる存在なのかという疑問でもあった。


「あなたは、自分なら天使が倒せると言ったけれど。正直、ボクはそうは思えない」

「へー? どうしてそう思う?」

「不老不死者だから死に鈍感なのかもしれないが、あなたはボクに簡単に殺されすぎる」


 殺されすぎるなど、生涯で一度だって言う機会があるとは思わなかったが、夏美はあえてそう言い切った。阿偉矛は死にすぎる。夏美の手によって簡単にと冠を付けて殺されすぎるのだ。

 これは一本取られたと右手で顔を覆って嗤う。あまりにも単純に、そして豪快に嗤うものだから、夏美は首をかしげる。


「これは呪い(・・)みたいなものなんだよ」


 嗤いながら、不敵に赤い目を輝かせる阿偉矛に、夏美は初めて恐怖というものを阿偉矛に感じた。

 いや決して、変態を前にしたという意味ではないが。

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