When it is dark enough, you can see the stars. 4
御門阿偉矛の襲来――あるいは使徒の襲撃とも言えるが――から、三日が経った。夏美の周りはあいも変わらず平穏な日が続いていた。まるで、三日前の事件をすっかりと忘れられるように。
あれだけの恐怖を感じたというのに、すでに夏美の中では使徒とは空想上の存在であり、たまたま一度目にした程度だと認識し始めている頃。脳の奥深くで辛うじて記憶されている阿偉矛の今回が最後ではないという負け犬の遠吠えをかすかにしながらそれだけの時間を過ごしていた。
夏美は一人暮らしということもあって、三食の用意はすべて自分で行わなければならない。さらに、浪人生という立場故に勉強をしていたら、夜食の準備がないことを思い出した。外はすでに日が落ちかけていたが、空腹には敵わないと買い出しに赴いていた。
ついでに三日分の食材を買っていたら、二時間ほどスーパーで時間をつぶしてしまい、帰り際には真っ暗になっていたなんてことは誰にでもあることで。毎度そのようになる夏美は、もうその程度では落ち込みもしない。
やけに暗い帰り道に何を思うでもなく、重い荷物に体を揺られながら帰路についていると、なにやら目の前に人影が見えた。
メガネはしていないが、視力の衰えは否めない夏美に五十メートル先の人影の詳細な特徴は読み取れない。そろそろメガネでも買ったほうが良いだろうかと、目をしかめてその人影を捉えようとしてピタリと足を止めた。
マルチタスクができないわけではない。むしろ、夏美はマルチタスクが案外得意なほうだ。ではなぜ、人影を捉えようとして足を止めたのか。簡単だ。その人影が人の影ではなかったからだ。
「勘弁してほしいものだね……」
人影と聞いて、他人がどう思い浮かべるかなど、夏美には到底興味を示すはずのない事柄だが、あえてここで夏美が人影だと認識したものの特徴を述べよう。
ガタイはおおよそ見た目を変えられるゲームの筋力パラメーターをふざけて最大にしたようなムキムキな上半身に、四十センチの極細ハイヒールでも履いているのかという下半身。そして、広すぎる肩幅で見えていなかった純白の翼。
ここまでくれば、夏美でもわかる。普通の人に翼が生えている時点で一般人ではなく変態だと。
いいやしかし、それでもまだ人であると信じていた夏美だったが、振り上げられた手に持たれていた大きすぎる棒――あるいはそう、剣と呼ばれるものを見てようやく理解した。
剣はあまりにも最近に見たものだったから。
「なんだっけあれ……あ、そうだ。使徒だっけ」
人はパニックになると、逆に冷静になる。自分は焦っていないと自分に言い聞かせ、そして逃げ遅れるわけだが、このときの夏美も一般人のそれだった。
つまりはまあ、逃げ遅れたわけだ。
「Arrrrrrrrr!!!!」
獣の叫びのような鼓膜を痛めつける発声に、手に持っていた荷物を放り出して耳を抑える夏美は、口を開けたままその様子を見ていた。
大きく広げられた翼をはためかし、振り上げられた手はまるで宣誓を行うが如し。実際、使徒は宣誓したのだろう。夏美を捕らえると。
ようやく恐れ慄き、泣き叫びながら逃げ惑うというレベルにまでパニックが落ち着くと、夏美は一心不乱に先程までいたスーパーの方へと走り出していた。
(聞いてない聞いてない聞いてない聞いてない!!)
無論誰も何も言っていないわけだが、夏美の精神は使徒の襲来を誰も教えてはくれなかったと文句を言いふらしていた。もちろん、使徒の襲来が高性能お天気マップのように教えてくれるならば、この文句も正当性のあるものだろう。いやしかし、天気予報に使徒などというものはないわけだから、到底無理な話だ。
まあ、パニックに陥っている人間の言葉がかつての時代から正しかったことなど一度としてなかったわけだが。
あてもなく、それでいて隠れられる場所を探しながら、体育会系でもないのによく走るものだ。およそ三十分ほど全力疾走をしながら、隠れられる場所を探し求め、そして見つからないという絶望の中でとうとう夏美は足を止めてしまう。
とくんとくんと心臓の音が耳やら胸から感じられる。限界を有に超えていた夏美の体からは汗が滝のように流れ出す。
ここまでくればなどというフラグじみたことを考える夏美ではない。というのも、背後から翼をはためかす音が聞こえていた。追いかけられている。その自覚を持ったまま、夏美は普通の女の子らしく涙を流し始めた。
「も、もうこれ以上……」
動けない。だが動かなければならない。
体は休息を決行し、思考とは裏腹に動いてはくれない。だのに、背後から近づく音を感じ取って、恐怖だけがただただ増大していくというホラー。ついこの間まで高校生だった女の子には酷すぎる状況だろう。
ようやく、首だけ動かせるまでに回復する。と、後ろに振り返り、使徒の動向を伺うが……。
「……うそぉ……」
使徒は夏美のすぐ後ろで翼を広げて滞空していた。
あまりの恐怖に気絶しかけたが、どうにか意識を繋いだ夏美は必死に一歩前に足を踏み出す。だが、地面のアスファルトを砕く大剣の突き刺しで夏美は転げてしまった。
そこからさきはいつぞやの夜のよう。馬乗りになった天使が突き刺していた剣を振り上げ、夏美は過激な抵抗を試みる。
「いや、いや!!」
この叫びが人に届けば助けてもらえるかもしれない。そんな淡い期待をしていたが、どういうわけか人っ子一人いやしない。そう言えば、逃げる最中にも誰にもすれ違わなかったと夏美は顔を青くする。
この時間、人通りが少なくなるとは言え全く無くなるなどありえない。考えられるとすれば、それは人払いをしているに違いない。
敵いっこない。いや、初めからどういう理屈で敵うと想っていたのかは定かではないが、夏美の細腕では使徒の馬乗りから脱することはできるわけがない。
猛る鼻息――使徒に鼻があるとは思えないが――を更かし、振り上げた剣を夏美の柔肌へと突き立てようとしたちょうどその時。夏美は走馬灯のように遅くなった世界でふと思い出す。
そう言えば、最近こんなことがあったなと。
無精髭を生やし、胡散臭そうな男が非常に懐かしく思える。もしも、あの男の忠告を聞いておけば、今こうして泣かずに済んだのかなと想うが、そんなたらればの世界の話は嫌いだった。
だから、死ぬ時はすっぱりと。己の無知を恥じながら死のう。そうして目をつぶり、覚悟を決めた夏美だった。が――
「出会うたびに襲われてんなー、お嬢ちゃん」
思い出したくもなかったが聞いたことのある声。ねっとりと耳を犯す不快係数を限界値ギリギリまで引き上げたような、世界の膿の屁のような発声を、不覚にも喜んでしまった自分に吐き気がしていた。
押し倒されている夏美の横に、いつの間にか現れていたのは煙幕のような白い煙を吐きながら、見ると視力が悪くなりそうな笑みを浮かべている無精髭を生やした小汚い男。
――――御門阿偉矛が肺いっぱいに煙を吸い込んで、そこにいた。