1話 夜空を見上げて……
傾斜のある土地に作られた、住宅街の一画にある小さな公園。 孝太は仕事から自宅に帰った後、天体望遠鏡のケースと筆記用具を詰め込んだリュックを背負ってその公園の裏手の階段を上る。 土留めブロックの間に設けられた階段は少し勾配がきつく、こちらの入り口を通る近所の人達はあまりいない。 孝太の自宅はこの裏手から通り沿いに少し歩いた所にある為、わざわざ正面出入口に回るよりも都合が良かった。
10段ある階段を上がった先には、ブランコと鉄棒とベンチが二組。 明かりは公園の中央に設置された昔ながらの暗い水銀灯1つとジュースの自動販売機の照明だけ。 夜の10時を過ぎているせいもあって、昼間は子供達で賑やかなこの公園も今は人影はない。 孝太は迷わず、ベンチ脇の水銀灯の光が届かない場所に行き、慣れた手付きで望遠鏡の三脚を広げた。
「…… 」
天体望遠鏡に一眼レフのデジタルカメラをセットした彼は、厚手のコートのポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら空を見上げる。 天頂に北極星を見つけると、そこから南側に望遠鏡の角度を調整してレンズ内にカシオペア座を捉えた。
「今日はダメかな…… 」
目的は天の川の撮影だ。 孝太は天気の悪い日以外は四季に渡って毎日撮影を続け、今年でもう3年目の冬になる。 今日の空は雲もなく空気も澄んでいるが、ファインダーを覗く浩太は浮かない顔をしていた。 どうも地平線から漏れている月の明かりが邪魔をしているようだ。
おもむろにリュックから水筒を取り出し、カップにコーヒーを注ぐ。 今の気温は3度。 カップから立ち上る湯気がその寒さを物語っていた。 熱々のコーヒーに息を吹きかけながら口を付け、近くのベンチに腰掛ける。 月明かりが少し落ち着くまで待つことにしたようだ。
「…… 」
孝太がふと隣のベンチを見ると、いつの間にか白のパーカーを羽織った女の子が座っていた。 深くフードを被り、両手をポケットに突っ込んで、寝そべるように浅く腰かけて俯いている。 孝太がマフラーと厚手のコートなのに、その女の子は薄手のパーカーにショートパンツにサンダル姿。 最近この公園のこの時間でたまに見かけるようになった。
「…… 」
見るからに寒そうな格好に、孝太はコーヒーを飲みながらチラチラと彼女を見るが、深くフードを被っている彼女は孝太の視線に気付いていない。 女の子は時折鼻をすする以外はじっと動かず、一点を見つめたままだった。
1時間ほど空の様子を見ていた孝太は、雲が出てきたのをきっかけに望遠鏡を片付け始めた。 カチャカチャと三脚の足を畳む音だけが辺りに響く。 全てを仕舞い込んで孝太が帰る頃にも、まだその女の子は同じ体勢でベンチに座ったまま。 孝太は気になりながらも女の子の前を素通りして階段を下りていった。
翌日、仕事から帰ってきた孝太はいつものように公園を訪れる。
「あれ? 」
孝太が階段を上ると、今日は女の子の方が先にベンチに座っていた。 自動販売機にうっすらと照らされた女の子は、今日は長袖のトレーナーの上下。 部屋着のままここに来たのか、足元はやはりサンダルだった。
「…… 」
孝太は気にしない素振りでその女の子の前を通りすぎようと歩を進める。 いつもパーカーのフードを深く被っていた横顔が自動販売機の明かりに照らされていた。 不意に孝太の足が止まった。
「…… し、栞…… 」
女の子の目の前で孝太は目を見開いて硬直する。 一点を見つめたまま動かなかった女の子は、立ち止まった孝太に気付いて顔を上げた。
「………… 」
二人は無言でしばらく見つめ合っていた。 どのくらい時間が過ぎただろう…… 先に口を開いたのは女の子だった。
「しおり? 」
その一言に孝太はハッと我に返る。 女の子は無表情で首を傾げた。
「あ…… いや、ごめん。 人違い 」
孝太はその場から逃げるように、ベンチの脇のいつもの場所に移動する。 何かを振り払うように首を大きく振り、いつものように三脚を組み立て始めた。 その様子を女の子はしばらく見ていたが、またいつものように俯いたのだった。
「…… 」
チラッと孝太は女の子を見る。 その目には驚きの色と、何かを懐かしむような色が入り交じり、その後やはり首を大きく左右に振る。
それから何もなかったように静かに30分が過ぎた頃、孝太は女の子を通り過ぎてベンチ横の自動販売機の前に立っていた。
ガシャン ガシャン
「いつもそんな薄着じゃ風邪引くよ 」
女の子はその声にフッと顔を上げる。 孝太は女の子に缶コーヒーの一本を差し出して微笑みかけていたのだった。