空っぽの唄
「ねぇ。」
「どうしたの、由依。」
呼びかけたら答えてくれる、大好きな人。
「ちゅーしてください。」
こんなこと言っても彼は笑ってくれる。
付き合ってもない女の子にキスをせがまれても、彼は嫌な顔一つせずに、
「そんなこと軽々しく言っちゃダメだよ。」
優しく私をたしなめてくれる。
「そういうのは、いつか出会う大切な人のためにとっておかなくちゃ。」
私の気まぐれな言葉に、そんな優しさを返してくれる人は彼だけだ。
たいていのひとは、また馬鹿なこと言い出したよ、なんて私を笑う。
「崇樹くんの、ちゅーがいい。」
そんな優しさに甘えるようにまたいってみる。
こうやって困らせてみても彼は私を怒らない。
読んでいた本から少しだけ顔をあげて、困ったように笑うだけ。
「我儘いっちゃだめだよ。」
何回だって、彼はそうやって私をたしなめてくれる。
そんな彼が大好きである。
文庫本を持っている華奢なのに骨ばっている男の子らしい手も、
眼鏡の奥で、文字をおっているさりげない瞳も。
「崇樹くん、崇樹くん。」
「どうしたんですか、そんなに名前を呼んで。」
声をかけたら、本を読んでいる途中でも返事をしてくれるところも。
全部、好き。
「私、崇樹くんが好きなんだよ。」
相変わらず文庫本を見つめたままの彼にいってみる。
「俺も、由依のことが好きですよ。」
彼は誰よりも優しいのに、誰よりも冷たい。
私の好きはいつまでたっても彼に届かない。
彼から返ってくる好きは、木霊みたいに空っぽだから。
私はいつも少し寂しくなる。
彼はきっと誰も好きにはなれないんじゃないかと思う。
彼と周りのひとの間にはいつも見えない壁があるみたいだ、と思う。
「崇樹くん、いつもそういう。」
口を尖らせて文句を言ってみても、何も変わらない。
私の言葉はいつだって彼の表面をなでていくだけで、
彼の中の何も変えられやしない。
「由依に必要なのは俺なんかじゃないですよ。」
私が好きというと、決まって彼はこう言う。
必要とか、必要じゃないとかは、私が決めること。
「私は崇樹くんがいいんです。ちゅーしてください。」
懲りずに言う、これもいつものこと。
何度言ったって彼の心は動かせないのに。
私はもう半年以上もこの不毛なやりとりをしている。
彼にあった日は、毎日。
よく諦めないね、なんて友だちには言われるけれど。
諦める、とかそういうのじゃないんです。
可能性が0じゃないなら、私はいつまでも続けるから。
「崇樹くん、ちゅ」
「由依は誰にでもそういうことを言うんですか?」
私の言葉は彼の言葉に遮られた。
これは、いつもはないこと。
ちょっと弾む心、同時に不安が立ち込める心。
「違うよ、崇樹くんにしか言わないよ。」
そうですか、と彼は言った。
その時の横顔はいつもよりほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「崇樹くんのちゅーがいい。」
もう一度、言ってみる。
もしかしたら、もしかしたら今日は。
そう繰り返して早180日。
いつかきっとこの思いが届くはずだから。
「ほら、由依。そろそろ帰りますよ。」
彼が読みかけの文庫本を閉じて言った。
午後5時。これもいつものことだけど。
今日はいつもと違うことがひとつだけあった。
明日も、明後日もきっと繰り返してくこと。
でも少しずつ違ってく、景色。
私と彼の心の距離は少しでも近づいているんでしょうか。
「うん、帰ろ。」
私も立ち上がる、ゆっくりと歩く彼の少しだけ後ろをついていく。
ほかの人から見たら、私たち付き合っているように見えるのかな。
そうだったら、ちょっぴり嬉しいな。
そんなことを思いながら歩くのも、いつものこと。
「崇樹くん、崇樹くん。」
「なんですか、さっきから。」
呆れたように彼が笑う。
大好きな声、その声が聴きたくて名前を呼んでるんだよ。
そんなことは言わないけれど。
「夕日が綺麗だね。」
「そうですね、明日も晴れるといいですね。」
今はこの距離でもいいから、いつかもう少し近づけたらいいな。