Ⅰ 抜けるような青
リコリス・インカルナタは通された客室のベッドに倒れこんだ。
「っあー……………疲れた」
我ながら十代の乙女の出す声ではないと思いつつ、久々のふかふかのシーツに顔を埋める。心の底から出た言葉に返ってくる言葉はない。久しぶりの一人の時間。そういえばここ数日間はだれかとずっと一緒にいたな、と思い出す。
軋む体を動かしてあおむけになる。ベッドの天蓋の内側をぼうっと見つめた。……瞼の裏に焼き付いて離れない、彼女の泣き顔を思い出す。
「……ああ、あいつか……僕は、君にだけじゃなく、神子でさえない彼にも敗北したんだな……」
涙でぬれた瞳で、セドナは呆然と呟いた。呆然と、しかしどこか―――口元に笑みを浮かべているように見えるのは、自分の見間違いだろうか。
この言葉がどういう気持ちでつぶやかれた言葉か、彼女の背景だとか真の目的だとか、リコリスはあえて考えない。それはこれから調べていくこと、このあと明かされるべきもの。
今日この時、この決闘場で求められるのはわかりやすい勝敗のみ。
どちらが神子でどちらが賊軍か。―――誰が勝って誰が負けたか。
リコリスはいま、二つの国の民から誤解され、敵視されている。
ティターニアとサマランカ。一方は魔術や宗教を追求し、もう一方は戦士としての誇りを堅実に守り続けた国。隣同士でありながら対照的な国民性。
ましてや両国には彼女を敵視している教会の手の者が入っている。今この場でアルバートを頼って首都に戻ることは、教会の管理下に置かれることと同義だ。ゆえにリコリスはアルバートを最初から頼らなかった。アルバートもそれを理解していたからこそ命じた。サマランカを説得しろでもなく、真実を追求しろでもなく、「疑いを晴らせ」と。
ならば彼女のやるべきことは決まっている。彼女に必要なものはただひとつ。
誰の目にも明らかな正攻法。たった一つのシンプルな方法。
勝負に勝つ。
政治的な隠蔽などあとでいくらでも対応できる。
搦め手を使わないそのやり方こそ、大衆に訴えかけるものだと。
―――そうしてもうひとつ。皆がセドナを信じた理由。その大前提を崩す。
「……セドナ」
戦意をなくした彼女にリコリスは一歩、踏み出した。
勝利を収めた彼女には何の表情もなかった。ただ勝者として、強者として、かつて彼女に踏みにじられた者として。無慈悲にも見えるほど冷徹に表情を殺した。セドナは逃げなかった。
リコリスはセドナの顔に手を伸ばす。黒い眼帯の上から瞳の輪郭をなぞる。
「あなた、本物の神子ではないわね?」
皆が彼女のことを信じたのは、彼女が黒髪に黒目を有する神子だからだ。―――その大前提が、嘘だとしたら。
その凛とした声は静まり返った場内に響き渡る。まるで演劇の舞台のよう。この事件の結末を、この場にいる全員が見守っている。
分かりきったことを、と追いつめられた少女の口がゆがむ。息をすることすら躊躇われる静寂の中。唯一動きを許された主役である神子は、無慈悲にその真実を暴いた。
真っ黒な眼帯の下の瞳。黒ではない翠色の瞳をみて、リコリスはわずかに言葉を失った。
「――――っ、」
その反応を違う意味で受け取ったセドナは自嘲する様につぶやいた。
「黒と緑、左右で違う目の色。……気持ちが悪いだろ、完璧じゃないっていうのは」
そこまで思い出して、リコリスは両の黒い瞳を静かに閉じた。
後味が悪い勝利、と思ってしまった自分がいた。
左右で色の違う瞳。真っ黒な瞳と綺麗な翠色の瞳はまっすぐに自分を見ていて。
“完璧じゃないのは気持ちが悪い”と彼女は言った。それは自分が幼い頃から言われて、そうしていつか抱くようになった感情と似ていた。
「………完璧、ね」
自嘲する様にリコリスは呟いた。
このことは考えるのはやめよう。セドナのことはこれから調べていくことだ。
決闘の直後、会場が静まり返ったのは数十秒の間。黒と緑の瞳―――観覧席のほうまで見えるはずもないが、リコリスの言葉と眼帯をとった仕草で理解したのだろう観客たちはそれぞれ動揺した姿を見せていた。ただ呆然とするもの、怒りの声を上げるティターニア教徒らしきもの。
放っておけば暴動でも起きかねない。そんな雰囲気にわずかに焦りを感じながらリコリスは腰の得物に手をかける。
(暴徒鎮圧するくらいの魔力は、まだ残っているといいけれど……!)
いくらリコリスでも、さきほどの決戦術式の直後にこれだけの人間を相手にすることはできない。ましてや体は戦闘でぼろぼろ、こうして立っているのだって本当は辛い。
―――そんな時だった。
「静まれ、決着はついたのだ。この場で両者に不利益を与えるものは私自らが相手になるが?」
それは深く響く声だった。賢者のように重苦しく、しかしその声だけで聞くものを委縮させる剣呑さ。一瞬で場内は静まり返って、その声の主を見た。
声の主は中央の天幕から片手をあげながら進み出ていた。
ゆったりとした赤いローブ、豪奢な黄金の装飾。豪奢な服でありながら、決して服に負けることはない。獅子を思わせる風貌。深い蒼の瞳は年齢相応に穏やかだが、しかしそれ以上に人を治める威圧感があった。
戦人の国を納める王。―――獅子王と評される、カルロス=アブスブルゴ二世その人だった。
リコリスも実際に目にするのは初めてだ。カルロス王は若い頃は戦と宴を好み、その容姿で何人もの女性を泣かせ、そして多くの軍人たちも打ち負かしては泣かせてきたという。遊び人にして武人。この血族は皆同じような気があるが、彼はそれが殊更に顕著だった。ティターニア国王の悪友であり戦友であった、とリコリスは聞いている。若い頃は二人でたくさんの騒動を起こしたと。
その反動か、子を為してからは不自然なほどぱったりと、公式の場に出ることはなくなった。
―――今ならその理由がわかる。確かにこの人が公式の場に出るのはなんというか、まずい。
それは圧倒的な強者の姿だった。すべてを見抜かれているような錯覚に陥る眼光、その場にいるものを凍り付かせる威容。離れた場所にいるリコリスすら、その姿を見ただけで背筋に寒いものが走っている。
「勝負はすでに私が預かっている。この結果、この判決に意義のある者は今この場で申し立てよ」
もう一度声をかけるが、それに応えるものは皆無だった。それどころか、皆すごすごと席に着く始末。情けないと笑うこともできない。リコリスだって同じ立場ならそうしただろうからだ。
静まり返り、言葉一つ交わされない。皆が―――先ほどまで主役だった神子までもが、王の言葉を待っている。その数百の視線を浴びてなお、彼は眉一つ動かすことなく会場を睥睨して。
「うむ」
そして鷹揚に頷いた。王の声は雨上がりの青い空に遠く、厳かに響いた。
「私に挑む者がいないのは些か残念ではあるが。……ここにいる皆が証人となる。二人はともによく戦った。数百年先まで語り継がれるであろう素晴らしい戦いであった。
神明はここに示された。―――リコリス・インカルナタよ。そなたに着せられた罪を晴らそう。ここにいる皆と神と、そして聖女の名において貴殿は無罪である」
……その言葉を聞いて。リコリス・インカルナタはようやく空を見た。
春のどこまでも抜けるような淡い青の空に、視界がにじむような感動を覚えた。その空の色を瞼に焼き付けるように、静かに瞳を閉じたのだった。
とはいえ、それで終わりというわけではなかった。
張りつめていたものが解けて天幕に戻ったリコリスを出迎えたのは、引き攣った笑みを浮かべたクロード、ガチガチに緊張したエレアノール、先ほどまで中央天幕にいたはずのカルロス王の姿だった。
「お初にお目にかかる、ティターニアの神子。いや、インカルナタ嬢と呼んだ方がよいか。
ああ、そなたは私の臣下ではない、跪かずともよい。むしろしてくれるな。その方が腹を割って話せるというもの」
オーランド、ローゼミアを始めとしたサマランカの面々が跪いている中で、リコリスはとっさにし掛けた礼を封殺されて思わず立ちすくんだ。賢者のような青い瞳が、返答を待っているものだと気づいたリコリスは、跪くことはやめてとりあえず礼を言う。
「まずは感謝を。このような」
「それもよい。世辞も言うな、聞き飽きている。やはりまだ若いな―――いや、そなたは違うのか」
……違う?
何の意味か、と考えるより早く、獅子のような賢者はこちらに向き直った。
「インカルナタ嬢、今夜の予定は空いているかな?」
空いているも何も、と考えるより先にカルロス王はふっと微笑んで、踵を返す。
「やはりこの年では若者は口説けぬか」
「えっ」
「年寄りの冗談は笑って流すものだぞ。―――此度の詫びだ、最高の晩餐を用意しよう。インカルナタ嬢、ストラトス卿。それに童話使いのお嬢さん。今夜の晩餐は着飾ってくるといい。私くらいの歳になると気骨のある若者の話を聞くことが楽しみでな」
ではな、と呆然と立つ二人を放置してカルロス王はその場から去ったのだった。
それが数十分前の話。
部屋に案内されるまでの間に三人はようやくカルロス王に晩餐に招待されたらしい、と話をまとめる。クロードは何とも言えないにやけた表情で「ストラトス卿……“卿”かぁ……」などとつぶやいていたが、リコリスたちの耳には入らなかった。
―――それよりも。曲がりなりにも伯爵令嬢であり、社交界にもいるリコリスはあの言葉の真意を理解できた。
『今夜の晩餐は着飾ってくるといい。私くらいの歳になると気骨のある若者の話を聞くことが楽しみでな』
「あの言葉は、私たちを試していると言ってるのよ」
リコリスはクロードに向き直っていった。口調はいつも通り実直に、眼光は鋭くまっすぐに。その視線に答えないクロードではなかった。クロードは表情を引き締めて頷いた。何でもない意思疎通。打てば響くような彼の返答、行動を頼もしく思う。
その証にいつも通りの不敵な笑みを浮かべて、神子であり、大佐であり、伯爵令嬢である彼女は告げた。
「ゴリ押しがまかり通るのはここまで。―――決着を着けるわよ」