ⅩⅥ いつか彼女に告げた言葉
その朝、夢を見た。
平穏な日々。変わらない毎日。毎日同じように起きて、笑って、また眠る、そんな日々。
もし、私が神子なんかではなくて。
黒髪と黒目の人間が、特別なモノでもなんでもなかったとしたら、有り得たかもしれない日常。
けれど、そんな夢に意味はない、と夢の中ではっきりと思った自分がいた。
毎日同じように生きて、笑ってまた眠る。そんな日々。
神子である私にも、掴み得る未来なのだからと。
* * *
どこかで鶏の泣き声が聞こえる。
何か冷たいものが体に当たっているのか、とても寒かった。身動きを取ろうとすると、体がぴしぴしと悲鳴を上げた。どうやら、また本を読みながら眠ってしまったらしい。夏から冬にかけての研究期間となれば珍しくないことだが、春も終わりのこの時期にしては珍しく―――。
薄く目をあける。身体に当たっている冷たいものに目をやると、驚くほど近くに置かれた人形と目が合った。長い睫毛に縁どられた黒い瞳。血色の薄い唇。柔らかな黒髪。それが窓ガラスに映った自分だと気づくのに、数秒を要した。
「……何をのんきに寝くさっているのよ」
窓ガラスに映った少女がそっくり同じ唇の動きをする。
リコリスははぁーっとため息をついて黒髪をかきあげた。窓ガラスの外は異国の屋敷の中庭で、空は薄く明るくなり始めていた。寄りかかってうずくまるように寝てしまったからか、体中が軋み出していたが、戦うのに支障があるほどでもない。
膝の上に置いて読んでいたはずの本は絨毯張りの床に投げ出されている。投げ出された本はその一冊だけでなく、リコリスの周りに何十冊も散らばっていた。昨晩地下牢脱出の際にボコボコにし、拉致したローゼミアも、同じように転がっている。手荒な手段は使っていない。正々堂々と決闘を挑み、勝利し、道案内をしてもらった後に休憩してもらっているだけだ。誰が何と言おうと。
コルロッテ家も一応は魔術師というだけあって蔵書数には目を見張るものがあったが、ほとんどが読んだことのあるものだった。インカルナタ家の蔵書数には負ける。―――が、それは魔術師としての書物についての話。
サマランカの魔術師は、ティターニアの魔術師とは系統が異なる。そして中でも異常なのがコルロッテ一族。魔術を「実用的に」、あるいは「実戦的に」使うことを主にした彼らが代々受け継いだ文献たちのほとんどは「魔力の運用」についてのものだった。
魔力の運用なんて魔術師としては初歩の初歩である。ゆえに、今までろくに研究もされていなかった学問のひとつ。それらが集められたこの図書室で、リコリスは昨晩思いついたあることを検証していた。
セドナ本人でさえ気づいていない、その特性を。
「………ぅうー……」
ローゼミアが呻きながら寝返りを打つ。髪と同じ色の眉は苦し気に寄せられて、何か悪夢を見ているように見えた。
……困った。想定以上にローゼミアの回復が遅い。これでは地下牢からの脱出がばれてしまう。置いていくか、それとも引きずってでも連れ帰るか。考えあぐねていると、不意に
「……想定内でしたが。やはりここにいましたか、あなたは」
女性の声がした。
振り返れば図書室の入り口に、赤い髪の軍人―――エレイシアが立っていた。夜が明けかけてもうほとんど意味のないランタンを下げている。夜通しセドナを見張っていた、というのは本当のようで、服装は昨晩と同じものだった。
恐れていた事態にリコリスは思考を戦闘用に切り替える。―――場合によっては、力づくで黙ってもらう。そんなリコリスの気持ちに気づいたのか、彼女は安心させるように微笑んだ。
「心配せずとも、あの堅物はセドナの見張りの途中。置いてきましたよ」
だが、その微笑みでもリコリスの、疑念にも似た警戒心は解けることはなかった。
エレイシアと名乗るこの女。オーランドの部下、という簡単な間柄には見えない。恋人関係、というのも何か違和感を感じた。
「あんまりそう警戒しないでください、別に私はあなたをとって食べようなどとは考えてはいません。横に座っても?」
無言で頷いたリコリスを見たのか見ていないのか、エレイシアはランタンを床に置いて横に座った。リコリスは少し足を動かして、エレイシアが座りやすいように場所をあけた。
リコリスもエレイシアも、互いに顔を合わせない。エレイシアは横座りして、指を弄びながら話し始めた。
「あなたの考えている以上に、あなたの敵はたくさんいます。けど反対に、あなたの味方もあなたの想像以上にいます」
「あなたが味方だと?」
「ええ。そうありたいと思っています、ティターニアの神子。聖女の意思を継ぐ者」
「……っそれは、」リコリスは反射的に否定する。否定の言葉と共にエレイシアに向き直ろうとすると、鼻先の距離に彼女の顔があった。
「教会から逃げたって、教会とこの件で敵対したとしても、あなたがそうであるのだと、私は思っています。多くの民が思っています。人が人として生きる権利―――それを守るためには戦争が起きては困るのです。だから、貴女に協力させてください。サマランカ軍人の私だからできる、必勝法を知っています」
リコリスは目を大きく見開いた。サマランカの軍人である彼女が、何をしてくれるというのか、何が出来るというのか。必勝法? 裁判の参加者ではない、彼女の手を借りて? セドナに勝つために、神明裁判のルールを冒そうというのか。
床に投げ出された書物を眺める。昇り始めた日の光を受けて、本に施された真鍮の装飾が鈍く輝いている。目に見えるものは十数冊。その中には一冊、神明裁判に関するものがあった。
リコリスは目を伏せて、首を振る。口元には微かな笑み。
―――あの記述を読んでしまったのなら、リコリスはその提案を受け入れることはできない。
ついに昇った朝日が部屋の中を照らす。金色の光の中で小さな埃がいくつも輝いていた。黒髪はその中で艶やかに輝き、真っ暗なはずの瞳の中に、エレイシアは同じ金色の光を見た。
「神明裁判なんて、二十年ぶりだものなあ」
観客の一人がそう誰にでもなくつぶやくと、「ああ、だからってしょぼすぎるよな、こんなの!」と誰かが同調した。「観覧券がくそ高えのによぉ!」と続く。
それはこの会場が開かれてから幾度となく交わされた会話で、決まってそれは「まあ、でも急だったんだししょうがないよな」という言葉で終わるのだった。
会場には観覧用の席と簡易的なテントが張られ、テントの前には木でできた柵が置かれた。上座に当たる場所にはサマランカの国章をあしらった、ひときわ豪華なテントが張られた。もちろん、中には証人として名指しされた国王陛下と、今回の事件の被害者でもある王位継承者がいるのだろう。
その周りに大臣や貴族たち、騎士たちが席を連ねる。残りの席五十席あまりが一般開放枠。二十年ぶりに行われる神明裁判、さらに決闘者が神子であるということにシドニアの民は熱狂した。観覧券を得るために前日から座り込んだ者までいたという。ただ、これは彼らが彼らが単に争い好きというだけではない。
すでに出始めている小競り合いによる死亡者の遺族や友人が、この戦いを見極めたいという思いもあった。この国にもいるティターニアの信徒たちが、信じるべき対象を見極める為でもあった。
「―――不機嫌そうですね」
「当然だ」
ローゼミアの屋敷に保護された日から会うこともなく、神明裁判の当日を迎えたクロードはいつも以上に低くなった声で答えた。怒りを通り越したのか、エレアノールに至っては一言も話すことはない。返されたオーランドはいつも通り感情の読めない笑顔で笑う。
「しかし、決闘裁判―――失礼、神明裁判なんて本当に行われるとは思いませんでした」
「………」
「国王陛下はこういった野蛮なことこそ、サマランカ国民が蛮族と言われる所以なのだと嫌ってらっしゃったのに」
「まあ、吹っ掛けたのはリコリス・インカルナタのほうですから」
と、ローゼミアが続けた。高笑いも忘れない。銀色の髪は相変わらず綺麗に巻かれている。が、なぜドレスの袖がないのか。
「それはもう、決闘裁判―――失礼、神明裁判が終わった後に結果に満足いかない暴徒たちが乱入するかもしれないでしょう? その時にすぐに対応できるためですわ」
「……………そうか」
浮かれているのは何となく気付いていたが、ここまでとは。コルロッテ家はどこまでも脳筋らしい。だが、助かったとも思う。クロードはかがんでローゼミアの視線から外れる。そっとテントの布を捲る。隣り合わせのテントの向こうでは一言の会話すら聞こえないのだが、確かに彼女の魔力を感じている。
潜り抜けようとしたその時、隣に立っていた少女が小さく肩に触れた。思わず見上げると、小さくエレアノールが小さく唇を動かしていた。
「…………『侵蝕する童話』」
桜色にわずかに輝いた髪と、彼女の指先から感じる、じんわりとした温かさで魔術が発動したことを感じた。エレアノールは視線を一度も落とすことはなく、声も出さなかった。クロードは唇の動きだけで彼女の言葉を理解した。
「……行ってください。時間制限付きですが、この魔術の効果であなたの存在は如何なるものにも感知されず、邪魔をされることもありません」
テントの布を捲って侵入すると、まるで図ったかのようにサマランカの兵が出ていくところだった。クロードたちがいたテントとは少しだけ造りがしっかりしたものになっている。決闘上となる広場を臨むように、大きくあけられたテントの入り口。青い空が見える、そこに。
黒髪の少女がこちらを背にして佇んでいた。
腰ほどまで流れ落ちる黒髪。手入れすら満足に出来ていないだろうに、髪はこの事件の前から寸分も違わぬ美しさを保っている。いつものようにただおろしただけでなく、横髪が戦いの邪魔をしないようにという計らいか、三つ編みにして留められていた。服もいつもの軍服の上にティターニア軍のマントを羽織っている。華奢な背中から見える、戦いの匂い。
数日ぶりに見る彼女の後ろ姿に、漂う凛々しさに思わず声を失った。
「……クロード?」
リコリス・インカルナタは『侵蝕する童話』で不可視の存在にされたクロードの気配に簡単に気付いたらしい。リコリスはこの魔術の効かない、ただ一つの例外なのだとエレアノールが以前そう言っていた。
「……もう。なんで来ちゃうの。一人で頑張ろうと思ってたのに」
そう、笑って振り向いた。黒い瞳は笑ってはいなかった。冷静に、冷徹に戦況を推し量る魔術師の眼。リコリスはその瞳のまま、ゆっくりとクロードに歩み寄った。一歩進めるごとに、マントの下で携えられているだろう武器が揺れる音がする。リコリスのいつも仕込んでいるであろう、触媒や短剣の音ではなかった。聞きなれた音。それは、腰に巻いた剣のベルトが服や防具にぶつかる音だ。
クロードは彼女がそうであるように、冷静に幼馴染を見下ろした。
「セドナに白兵戦で挑むつもりか」
「ええ、真っ向から、というわけではないけどね」
そういって、瞳をつむって微笑んだ。
「策はあるのか」
「ええ。………必勝法では、ないけれど」
リコリスは少し言いよどむ。彼女が戦いの前に自信なさげなのは珍しいことだった。リコリスは顔を伏せる。
「……ね、触れていい?」
「……ああ」
聞いておきながら、リコリスは躊躇いがちに右手をクロードの胸に置く。掴むでもなく、縋るでもなく、まるで彼女は手を温める為だけにそうしたようだった。
「……これ、全部私の独り言だから。木とか草とかぬいぐるみに話すみたいなものだから。誰にも、言わないで。聞かないでいて。聞いた傍から記憶から消して」
「…………あ、ああ」
あまりに勢いに言葉が上ずった。リコリスがむっと睨む。目を瞑れ、と言われているような気がしたクロードは大人しく直感に従った。
「……勝てるかはわからないし、こわい。殺されるかもしれない。民衆の前で前と同じくらい、いえ、それ以上に完膚なきまでに負けてしまうかもしれない」
目を瞑ってしまえば暗闇。ただひとつ、小さな手が触れている感触だけがした。
「ほんとうは、戦いたくなんてない。ずっと好きなことだけして、ずっと好きなものだけに囲まれていたい。そんな毎日をずっと変わらず、変えることもなく続けたい。毎日同じように起きて、笑って、また眠る、そんな日々を、ずっと」
そこらの町娘とおなじように暮らす彼女を幻視した。
「でも、そんなのは人として間違ってるわよね。世界は毎日変わっていく。それなのに、変わらない毎日を送るなんて、そんなものは都合のいい地獄と同じ。そんなものは、悲しいだけだわ。
……まして私は神子だもの。神子はいつだって時代に変革をもたらした。だから私が停滞することは、許されるべきことではないの」
声にわずかな翳りがさした。神子としての使命とその重責に、彼女はいつだって苦しめられてきた。
「けど、楽しかった。あなたと軍にいる日々が。執務室で研究する日々が。時々部屋にアルが逃げ込んできて呆れながら紅茶を淹れたり、アルの悪だくみにあなたが巻き込まれたのを叩き潰したり、年上の魔術師や研究者たちと議論を交わす日々が。正当な評価なんて、もらえないことの方が多いけれど。少なくとも私の居場所は、私だけの居場所はあそこにあったの」
目を開けると、リコリスも笑っていた。目を閉じて、言葉を紡ぐごとに唇は綻んだ。春の訪れを告げる花のように、小さくはあるが温かく。いつの間にか、掴まれた腕は震えていた。
「……だから、怖いけど。戦ってしかあそこに戻れないなら、何度だって戦う。戦うことでしか守れないのなら、何度でも戦う。―――クロード、」
震える手。震える言葉。けれど力強い輝きを放つ言葉。それが、齢十六の少女が出した結論だった。不自然に力が入った手を、クロードは自らの手で掴んで、そのまま胸に押し当てる。
「―――ああ、何度だって言ってやる」
いつか少女に告げた言葉。いつか少女に返された言葉。思い返せば告白だったけれど、言った時は本当に字面通りの意味で、アルバートには笑われて。
けれど少女は、却って誠実だと笑って頷いたのだった。
クロードはまっすぐに黒い瞳を見据えた。少女も同じように、同じだけの誠実さでもって見つめ返していた。
「お前の背中は俺が預かってる。だから、怖がる必要なんてない。一緒に戦って、一緒に帰ろう」