ⅩⅢ シドニアの民の誇り
「無事ですかっ!? リコ―――お姉さま、服に血がっ」
「騒がないで、エレアノール。もう治療は終わったし、大丈夫だから」
貧血気味なせいかいまいちうまく回らない頭を押さえながら、リコリスは絞り出すように言った。エレアノールには悪いが、興奮状態の彼女の声は頭に響く。クロードにはバレバレだろうが、疲れ切った表情を仏頂面にすることで隠して足を精々踏ん張って立つ。これだけで彼女の「なんでもないふり」は完成する。
少し遅れて走ってきたオーランドとエレイシア、セドナをいつものようにまっすぐな視線で見る。
「ご無事……ではなかったようですね。彼は?」
「あの変質者なら逃げたわ。捕らえられれば良かったのだけれど」
こともなげに言うと、オーランドは微妙な表情をする。隠してはいるが、おそらくそれは安堵の表情か。クロウが捕まってしまうと護送対象が増えるのだから、そういう表情になってしまうのも仕方がない。
「ですが、とにかくはあなた方の護送が私たちの任務です。そのはずでしたがこのようなことになってしまい、本当に申し訳ない」
首を垂れるシドニアの軍人の表情は、どんな顔をしていただろうか。背後にいる同じシドニア軍人の女性に目を向けると、彼女は困ったように微笑んで肩をすくめる。
「リコリス・インカルナタ大佐。私から申し上げるのもおかしいかとは思いますが、オーランドは本当に責任を感じています。どうか、ご容赦を」
エレイシアも頭を下げる。もとより彼らを責めるつもりもないリコリスは、あえて神子らしく丁寧語で返す。
「……そのことに関しては責めても仕方がありません。私たちは神明裁判さえ行えればいい、要は私たち全員が首都に着けばいいのです。どうか、頭を上げてください」
「ですが」
「四の五の言わずに頭を上げて行動なさいと言っています。私たちには時間がありません。こうしている間にも両国の戦争の機運は高まっているのに、こんなところでくだらない責任転嫁をしているわけにはいきません。……セドナ、あなたも黙っていないで何か言って、終わらないわ」
これは限りなく本音に近い言葉だった。
『侵蝕する童話』の似て非なる大魔術を見たことも、リコリスの魔術の弱点を見抜かれたことも、とんでもない狂人に目をつけられたことも、この際どうでもよかった。
そんなもの、戦争が始まってしまうことに比べたらなんでもない。
この、リコリス・インカルナタのミスで、無能さで、無力さで、無知で。
守るべき主君と無辜の民が害されることなど、あってはならない――――!
リコリスは軍人たちの後ろで呆けたように立っているセドナに言う。激情を孕んだ視線に射抜かれた神子は、片方だけの黒い瞳が驚いたように丸くなってから「別に、僕は問題ないけど」とぼそぼそと答える。
「ならこの話はお終いよ。馬車に戻って、移動しましょう」
馬車はこっちでしょう、と固まる三人の横を通り過ぎるリコリス。ようやく頭を上げたオーランドは何かに化かされたような、そんな不思議な表情をしている。首をかしげながら、しかし部下のエレイシアに背中を叩かれて進む二人。彼女はもう片方の手でしっかりとセドナを連行している。まったく、関係性がおかしな二人である。
少し進んで、リコリスは初めて幼馴染の顔を振り返る。
「クロード、睨むのやめて」
誰に、と言わないあたりが彼女らしい、とクロードは思った。
セドナの乗っていた馬車は、セドナが異変を察知してすぐにドアをぶち破ったために使用不可。セドナの馬車に乗っていた軍人と御者は全員がその近くで『一部』発見された。
こぶしを震わせて『それら』を見ていたリコリスの肩にクロードが触れようとする。
「触らないで」
それを、リコリスは振り払う。彼女はわずかに顔をこちらに向ける。
「そんな風に優しくされたら、私、きっともう戦えなくなる」
唇はわずかに、震えていた。
リコリスのほうの御者はなんてことはなく無事で、気が付いたら同乗者が消え、さらに先行していた馬車の人間がこの有様になっていたため、すでにシドニア軍に報告したという。合流してほどなく、シドニア軍の応援が来て、周囲の惨状に眉をひそめた。隊長だという三十代半ばの軍人は、オーランドの説明を受けて渋い顔をした。
「お話は分かりました。オーランド殿の言う言葉であれば信用しましょう」
納得はしていない、と言いたげだった。後ろで見守っていたリコリスに彼は視線を向ける。リコリスはまっすぐにその視線を受け止める。
「……リコリス・インカルナタ様ですね」
「ええ」
「私はシドニア国籍ですが、私の家は古くからのティターニア信徒。当代の神子様にお会いできたことは光栄の至りです。新しき神子、セドナ様も。私ごときにはどちらが真の神子かわかりませんが、その神聖な色を神と瞳に持つということは、どちらも神に選ばれたのでしょう」
シドニア国では数は少ないもののティターニア信徒は存在する。彼は教会式の礼をしたので、リコリスも幼少期にそうしていたように教会式の礼をする。行えば心が洗われるというその礼は、リコリスに何の感情の変化も齎さなかった。そしてそれは、目の前の彼も同じことだった。
「……ああ」
セドナは呟く。教会式の礼は返さない。彼はリコリスの両の瞳、セドナの隻眼をまっすぐに見つめてから、『それら』が落ちていた茂みに目を落とす。
「彼らは素晴らしい軍人でした。職務に忠実で、そして優しい。荒っぽいところもありますが、気持ちのいい連中でした。あの中にはティターニアの信者もいました」
リコリスは密かに息をのむ。彼の言わんとすることを理解したからだ。
「彼らは軍人です。死ぬ覚悟はできている。けれど、それが私たちの家族や友人にいえることじゃない。もう、どちらが神子でも、この際私たちにとってはどうでもいい。もし戦争が始まって、それが神子やティターニア教が原因と言えるなら。もし私の大切な人がこんな目にあうのであれば。
……私は、私たちシドニアの民は、それらすべてを根絶やしにしますよ」
シドニア人が血気盛んと言われる所以。何かを守るためであれば、敵がなんであろうと叩き潰す。それが誇りであり、彼らの国民性だった。