Ⅹ その遺志は
……自分で考えろ?
まるで教師のように諭すクロウを、リコリスは瞬きすら忘れて見つめた。
リコリス・インカルナタの魔術の秘密を完全に理解している。どころか、彼女本人すら気づいていない点すら指摘した。
彼の言っていることは、本当に、ただの一つも間違いはない。
神子は完璧でなければならない。
しかし実際の神子は日常生活に支障をきたす程の欠点を持つ代わりに、並外れた力を持つ。
リコリス・インカルナタは魔術の才能を持つ代わりに、ほかのすべてを失った。正確には、魔術と対極の力である身体能力が極端に劣っていた。
それは伝説の聖女ティターニアに匹敵しうるといわれた魔術の才能に対する、当然の代償。世界がリコリスを人間の範囲内に留めるための足枷であり、また庇護でもある。
しかしその「当然」を彼女を育てた教会は認めなかった。彼らにとって神子は人間ではなく、文字通り「神の子」でしかなかったからだ。極端に言えば、「人外」である神子に、人権は与えられなかった。
人間でありながら人外とされた彼女は、その弱点を克服すべく身体強化の術式を体に刻んだ。
自らの魔術に致命的な欠陥を加えることを代償として。
『魔術を行う場で短剣によって血が流れてはならない』。
魔術師にとって短剣は触媒そのものでもあるが、短剣を使って生贄を害することで魔術が成立させることの方が多い。この決まりは彼女が今後ほとんどの儀式魔術を使えなくなることを意味している。
ただひとつ、身体強化の魔術だけは例外にして。そうすることで自分にとって『短剣で害する生き物は自分だけ』『短剣を用いた生贄儀式は身体強化の時だけ』という特別性を帯びる。
術式を魔力で描く際、最も必要なのは自己暗示だ。気持ちを高ぶらせ、自己暗示を強めれば成功率や質は格段に上がる。
そして身体強化と同時に行った別の術式―――先の制約を含んだ、五つの制約。
この制約を受け入れるかわりに、リコリスはセレニア式魔術の欠点を克服した。セレニア式、精霊魔術の欠点。それは魔術を行うごとにいちいち精霊と契約を結ばなければならない。
時間もかかるし、精霊は気ままな生き物だ。彼らの機嫌ひとつで術式自体が吹っ飛ぶことも少なくはない。五大精霊に一つずつ制約を誓い、リコリスはその毎回の契約を省略できる、精霊との永久契約を交わした。その印は彼女の左腕に、焼印のようにして刻まれている。
「………、本当に、どこでそれを」
このことを知っているのは自分と主であるアルバート、それと死んだ院長と先生だけのはずだ。見上げる黒い瞳を、クロウが見下ろす。彼の表情は、狂気じみた暗い笑顔だ。彼は縛られたリコリスの目を覆う。
術式の発動を感知するが、今のリコリスに抵抗する術はない。
「質問の多い子だね。あの日、本当にその場にいたのは彼らだけなのかな?」
あの日。あの場に。
青白い月光。血に染まる 二人/私 の体。黒い瞳、赤い瞳。くろいかみ、黒い髪。
視界いっぱいに あか が広がる。血ではない。これは、間違いなく。
息ができない。口は間違いなく酸素を吸い込んでいるのに、体が足りないと喚いている。肩が大きく上下する。あんまり動くせいで縛られた手首が痛む。切られた二の腕もジンジンとうずく。血を流しすぎたせいか、頭がぼうっとしてきている。
「―――や、めて」
呼吸の合間に、やっとそれだけ発音する。頬を熱い液体が流れていくと同時に、クロウが名残惜しそうに手をどけた。よっぽど最悪な顔をしていたのだろう。クロウの表情が気色ばんだ。―――リコリスは、この何故か次に彼が言うことが予測できた。
クロウはリコリスの顎をつかんで、自分の方へ向き直らせた。
「そうだ、その顔だよ神の娘。その顔が見たかった。その言葉が聞きたかった。いつも澄ました顔ばかりで、人形のような君らしくもない、そんな表情がさ―――!」
「………それで、あなたは満足なの」
薄目しか開けていないが、クロウの表情が凍り付いたのは見なくても分かった。
「違うでしょう、あなたが―――お前が、見たいものは。私じゃない、セドナでもない『神の娘』の、ティターニアの苦しむ顔でしょう。
お前がどうして二千年前の聖女を求めるのかは知らないわ。けど、そんなものは手に入らない。ティターニアは屈服しない。だって、彼女の意思は私が守り通すから」
リコリスは薄く微笑んだ。
にじんだ視界でもすぐに理解できる、慣れ親しんだ姿を敵の背後に見つけていた。
「人が人として生きる権利。それを奪う戦争も、奴隷制も、全部私がなくす。私が壊す。
だから、その遺志は、お前なんかに渡さない……!」
落ち葉を踏む音が近づく。冷たい剣先が、音もなくクロウの首筋に突きつけられる。
クロウが振り返る間も与えない。幼馴染の怒りに満ちた琥珀色の瞳がクロウを射抜いていた。