Ⅸ 執念、あるいは
「…………は?」
思わず、そんな声が出た。
ティターニア。神話の時代の魔術師にして、伝承の聖女の名を、ここで聞くとは思っていなかった。
目を白黒させる彼女に諭すように、彼は同じ言葉を繰り返す。
「私が求めているのは今も昔もただひとり。ティターニア、彼女だけだよ」
「………なら、何を、」
絞り出すような声はクロードのものだ。彼は剣先を男に向けたままだ。返答次第では斬りかかる。そんな姿勢にリコリスには見えた。
「何を、何の目的で。そこのセドナに肩入れした。なぜリコリスを襲ったんだ、お前は」
「だから、目的はティターニアだ、と言っているだろう。ああ、これだから彼女以外と話すのは嫌なんだ。馬鹿と話すと馬鹿が移りそうになっていけない」
まるで羽虫を払いのけるかのように、男は手をひらひらと振る。
その場の全員が、まるでそこに釘付けになったかのように動けなかった。幻想結界は確かに、エレアノールの手によって『侵蝕する童話』に書き換えられた。この結界を掌握した彼女の手によって、全員が男の呪縛から逃れたはずだった。
それなのに、なぜ。
答えは分かりきっている。リコリス・インカルナタを見れば一目瞭然だった。
こと魔術においては負け知らずの神子。『侵蝕する童話』の中ですら、彼女は無意識にいくつかの法則を無視してしまえるほど。
そんな彼女が、この場の誰よりもこの男に囚われている。
黒曜石のような瞳は困惑と恐怖に満ち、視線は凝固したように動かない。桜色だった唇は色味を失ってさえいる。
恐怖している。明らかに、この男のおかしさに。
神子以外の存在を無視する男。目的はティターニアだ、と彼は答えた。
あの男は一度はリコリスを切り捨てた。
―――「君は余りにも使えない。その点セドナは、優秀だ」。
そして二度目はセドナを裏切った。
―――「その点、リコリス・インカルナタは優秀だ」。
その次に彼はこう言った。
―――「最高だ、やはり神子の名は君にこそふさわしい―――リコリス・インカルナタ、私の神子!!!」
この人間はリコリスやセドナを見ていない。見えていないのに、二人に誰かを重ねているのだ、とリコリスはたった今確信した。いや、重ねているだけならまだましだ。
この男は、意識的に「自分の神子をティターニアにしようとしている」。
遥か昔にこの世界から退場した人間を、自分だけの理想像のティターニアを甦らせようとしている。
おぞましいのはあたりまえだ。
自分を触媒としか見ていない。リコリスの意思を見ていない、それどころか、ソレすらも素材としか見ていない人間に、今、自分は執着されてしまったと理解してしまったのだから。
魔術師の狂気は知っている。もとより彼らは「超える」ことを―――言葉を変えてしまえば、「外れる」ことが目的だ。その途上にあるものが、正常であるはずがない。リコリスは自分ですらそうであると認識してきたし、他人の狂気も数え切れないほど目にしてきた。
けど、コレは違う。この狂気は他の魔術師とは格が違う。一介の人間が背負える狂気ではない。
―――男が一歩、前に進み出る。誰も手出しはできない。
リコリスは自分の慢心を心から悔いた。
ここは幻想結界などではない。ここはそれとは元から、規格が違うものだ。
道理で、と彼女は思った。クロードや、サマランカの軍人のオーランドやエレイシアが全く動けないわけだ。
―――男はすでに、リコリスの前にあった。顔の前に手をかざす。リコリスは確かに、それが意識を奪う術式であることを感知した。
ここは「侵蝕された現実」などではない。
ここはすでに、この異常者によって作り出された、都合のいい地獄だ。
目が覚めると、そこは目覚める前と変わらない霧の深い森だった。
当然、さっきとは違う場所だろうが、この異界の中ではどこであろうと同じ景色が続くに決まっている。差異があるとすれば視線が先ほどより低いくらいか。座らされ、腕が吊られていることに気づいて頭上を見る。手首を縛られ、短剣で木の幹に縫いとめられていた。
(……短剣、か)
はあ、と重苦しい気持ちを吐き出すようにため息を吐くと、数歩先の木に寄りかかって彼女を観察していた男がくすりと笑った。
「……随分と舐められた拘束ね」
「そうかな。か弱い君には十分だと思うが」
軽口を叩いている状況ではないのに、ついそんなことを言ってしまう。これも現実逃避なのか、いつもの自分に戻ることで冷静を取り戻そうとしている自分に呆れる。
(こんなところで拉致されていてどうするのよ、私)
自分はこの後、ティターニアとサマランカの停戦を、自分の無実を証明するために首都に行き、神明裁判をするのではなかったか。
あの場で恐怖にとらわれた自分に腹が立つ。それ以前に、幻想結界であればエレアノールを超えるものはない、なんて楽観視した自分を張り飛ばしたくなる。
確かに、幻想結界においてはエレアノールの右に出る者はいない。世界中を探しても彼女の術を破るものはいない。自分という例外を除いては。
しかしこの男は格が違った。
この男は狂気を魔力に乗せた。恐ろしいほどの妄念が、魔力に載せられたことで結界という枠を超えた。
この中はすでに一つの世界だ。―――もっとも近い表現をするのなら、ここはもといた世界から数次元上にずれた同じ空間、というべきだろうか。
彼は世界の主だ。そんなモノに挑んだこと自体が間違いだ。
主が重要視するのは自分と、セドナとリコリスというモノ。ほかの人間は、文字通り羽虫というわけだ。
「………本当に何者なの、あなたは。ヒトの形をしているけど」
「そうか、まだ私の名を名乗っていなかったね。クロウ・クルワッハ。クロウと呼んでくれ」
「………」
話がかみ合っていない。名前がわかったのはそれはそれで進展だけども。
居心地が悪い。空気が鉛のようだ。男―――クロウが、リコリスの挙動ひとつさえも見逃さないように、つぶさに観察しているのを感じるからだ。頭上に縛り付けられた縄を外そうと腕を動かそうとしても咎めようとすらしない。むしろそれすら愛しげに見つめている。しばらく心地の悪い空気が続いた。
魔術を使おうか―――否。この短剣があるうちは、それは悪手だ。
そうしているうちに、クロウが思い出したかのように彼女の前に立った。
「うん? これだけでは決定打にならないかな。―――痛いかもしれないけど、我慢してくれよ」
「――――ぁっっ……! い、た――――」
先ほどと同じようにどこからか現れた短剣で、何のためらいもなく、彼女の腕を切り付けた。
二の腕を切られたため、腕を吊るされている状態のリコリスは傷を見ることはできないが深く斬られたのは分かった。なぜって血の量が多い。あっという間に腕を、服をしたたり落ち、地面にポタポタと落ち始めた。リコリスは残留する痛みに片目を閉じた。開いている方の目も、突然の痛みに驚いたか、視界が滲む。
「これで一旦は、魔術は使えなくなった。そうだろうリコリス?」
「―――」
そんなリコリスの姿にほくそえみながら、彼はそんなことを平然と言った。
「そうだろう、と聞いているんだけど。リコリス、まだ触媒の短剣は足りないのかい?」
次の短剣をひらひらと振りながら、舌なめずりしそうな笑顔で。
「―――……いいえ。触媒の数は腕に一本……これで十分よ」
「そうか、それはよかった。君の苦痛の表情は好きだけど、この体をこれ以上傷つけたくはないからね」
そう、変わらず笑顔で答えると、燕尾服から取り出したハンカチで止血するクロウ。
あんなに楽しそうに切り付けた癖に。けれどその言葉に嘘はないのだろう、とリコリスはぼうっとする頭で思った。
甲斐甲斐しく処置をするクロウに、リコリスは尋ねる。
「……どうして、このことを」
「君の魔術の約束のことかな。君の置かれている状態について、私は完全に把握していると思うよ。
―――君の魔術。君の魔術の強さは、五つの約束によって守られている。
上手い手だ。最初に知ったときは心底感心したよ。こんなことを考え付くのは、まさに魔術の神子だけだと思ったよ。これを行ったのは身体強化の術式を、最初に行った時のことだね?」
「……ええ。その通りよ。……院長先生は最後まで反対していたけどね。
通常の魔術師は境界を超えることしか考えていない。だから自分の強化しか考えない。
けどそれは等価交換という魔術の教えに反するわ。だから、」
「だから君は引き算をすることを考えた。君の魔術をより強固なものにするために」
ええ、とリコリスは頷いた。
「君は五つの約束を魔術師として致命的なものに設定した。そのことでより多くの対価を得た。特に致命的な『約束』は二つ。
一つは、『魔術について尋ねられたら、必ず答えなければならない』。
もうひとつは『魔術を行う場で短剣によって血が流れてはならない』。これは身体強化の回路を開く際、短剣による自傷が行われたからだろう。そして、この約束は『身体強化術式のみ例外』とすることで、君にとって身体強化を特別な神秘性を帯びた。そうだね」
「―――どこで、それを」
あまりの正確さに、背筋が凍る。絞り出すように聞くと、ちょうど覗き込んできた爬虫類のような目とあった。細い目の中に、自分の無防備な姿が写っている。
「それを応える義務は私にはないな。ただ、君にひとつ教えよう。
―――『約束』は五つだけではない。君にはそれ以外の制約や呪いがかけられている。呪いの一つは魅了の魔術だ。あとは自分で考えなさい」