Ⅷ 侵蝕する童話
名家の魔術師の恐ろしさとは、その血の濃さと、積み重ねられた研究成果にある。
魔術師の子はどこの子も、親から受け継いだ研究を一つ昇華させ、また次の代に受け継がせていくことを義務としている。そうしていつか、自分の末裔がこの世の『境界を越え』ると信じて。
エレアノール・スコットも、そうした家名を受け継いだ者の一人だ。
彼女が受け継いだ秘術の名は『侵蝕する童話』。
エレアノール・スコット。別名『童話使い』。それが、彼女の魔術師としての本質だ。
「『侵蝕する童話』……! そうか、これが!」
童話使いの詠唱に、男は驚きつつも歓喜の表情を見せる。リコリスとセドナ以外の者に初めてまともな反応をした。
無理もない。彼女の幻想結界は通常のそれを超えている。
幻想結界は曖昧な世界しか作れない。願望や希望を叶えるもの。人間の想像はうすぼんやりしたもので、本来なら細かな世界観は作れない。圧倒的なまでに、再現できる情報量が少ないのだ。だからこそ、先ほどまでの世界は霧がかかり、道に果てがなかった。
けれど今は違う。
霧の向こうに木々の影が見える。草木が見える。隠れ潜む動物の気配がする。川のせせらぎが聞こえる。
月明かりの存在に気づく。照らされた森の中に、自分たちが確かにここにいるという確信を得る。絶望的なまでの生きている実感。
『侵蝕する童話』はその名の通り、童話世界を幻想結界として再現する魔術だ。
幻想結界と親和性が高いとされている魔術の特性、童話効果。それを最大限活用し、現実を侵食する魔術。それに最も早く、そして高度な技術で仕上げたのがスコット一族だ。この秘術を受け継いだ彼らは代々軍に迎え入れられ、結界魔術師として重宝されてきた。ただし、この魔術にはひとつ難点があった。
―――第四の壁の存在である。
この魔術は演劇的な解釈や制約を取り込んで、あくまで結界内での出来事は「物語上のこと」としている。
そのひとつ、術者は強制的に「語り手」として認識される。語り手には様々な制約がある。
例えば、語り手は物語の中におり、読者や作者の世界にはいてはならない。語り手と、読者や作者との間には、超えられない「第四の壁」がある。語り手は、物語内で出会っていない存在と意思疎通していてはならない。
第四の壁の存在はこの魔術においては大きな障害だ。
要するに、術者にとって完璧に都合にいい空間を設定することはできても、術者自身は手を出すこともできないのである。
しかし一族の中での最新の童話使い、エレアノール・スコットはこの魔術にいくつもの改変を加えた。
ひとつ目は童話の断片をいくつも取捨選択して、より自分に都合のいい世界を構築すること。
二つ目は、結界に取り込む対象を術者が任意に設定できるようにしたこと。
そして三つ目―――第四の壁の破壊。
春先の冷たい風が吹く。桜色の髪が揺れる。枝に腰かけたままのエレアノールは、まるで童話の妖精がそうするかのように、少し首をかしげて微笑んだ。
「月明かりに光る石を探してまいりました、お姉さま。―――まあ、私の物語の中で、とても面白いことをなさってますのね、クロード大尉?」
なんて、童話の住人らしくふわふわしたことを感想を述べた。そこで数分ぶりに自分の暴挙を思い出す。
剣を向けられたリコリス・インカルナタはようやく視線をエレアノールからクロードに視線を戻す。そして、ようやくクロードの顔を見て、視線を合わす。
クロードの無駄なあがきをしている顔を見て、どこか安心したように微笑んだ―――のは、気のせいだろうか。すぐに険しい顔に戻ってしまった。
「エレアノール、面白がって見てないでさっさと術を解きなさい。後が怖いわよ」
「もう、お姉さまったら―――"悪い魔法使いの呪いは解けました。めでたしめでたし"」
途端に体が動くようになる。クロードは若干の情けなさと隠すために、すぐに笑ったままの男に剣を向ける。
尻餅をついたままのセドナに険しい顔のままリコリスが歩み寄る。
「あなたはずっと動けたはずでしょうに、セドナ。ほら、いつまでも座っていないで、立ちなさい」
と、手を差し出すリコリスに、セドナは少し戸惑いつつもその手を借りようとして、「いや、大丈夫だ」と自力
「……いや、動けなかった。悔しいけどな」
リコリスは秀麗な眉を寄せた。
「………まあ、いいわ。―――で、どうするの? あなたの幻想結界が『侵蝕する童話』より強いとは思わないけれど?」
「ふむ、そうだな。たしかにこの童話世界は素晴らしい。数多の童話の中から、君たちに都合のいい世界観ばかりを切り取って作り上げたんだね。さすがだリコリス、いい手足を持った」
「セドナの手足であるあなたは最低なようだけど。―――サマランカ軍に拘束される前に聞きたいことがあるわ」
その言葉に、リコリスの背後で硬直させられていたエレイシアとオーランドが、びくりと肩を跳ね上げる。少し遅れて術が解けたことに気づいたようで、あまりの情けなさにオーランドの顔色は土気色になっている。自分も人のことは言えないが。
「『君』に聞かれたなら仕方がない。私にわかることならば」
と、男は意外なまでな素直さを見せる。リコリスに手を握られたままのセドナが「……くそ」と小さく悪態をつく。
「まあ一つしかないけれど―――あなたの目的は何? 見たところ、あなたは『神子』に執着しているみたいだけど」
「違うな。そいつの狙いは神子じゃない。僕も最初はそうかと思ったが」
セドナは片目だけの視線を男に投げかける。それを受けた彼は、よくできた生徒にそうするように、微笑んで見せた。
「聡いなセドナ。そう、私の目的は神子じゃない。君たち個人でもない。―――神の娘、ティターニアだよ」