Ⅶ 童話使い
苛立たしげな鼻歌が聞こえた。
苛立たしげな鼻歌、なんて表現をするのはとても奇妙だと思ったが、まさしくこれはそうとしか感じられない。
抑揚のない鼻歌。明るい曲調とは真逆の、偏執的な怒りを載せた鼻歌。
ここは霧の深い森。月の光さえ届きはしない、と絶望せよ、と歌の主が言っているのが、鳥肌が立ってしまうくらい、はっきりと感じてしまえるのだった。
エレアノールが忽然といなくなった、そんな異常すら異常と思えない。結界の起点の木、その裏にいるその人間は異常すら超える異常な執念を、気配だけで感じさせた。思わず、固まりそうになる全身「いいえ、それは気のせいよ」を、黒髪の少女が一言で呼び覚ます。
見れば全員が頭を押さえたり、地面に膝をつきかけていたところだった。
「出てきなさい。悪趣味な魔術師―――いえ、それ以下の、気持ちの悪い偏執狂さん?」
リコリスの言葉に反応して、ゆっくりと木の後ろから姿を表す。
きっちり着こなした燕尾服と揃いの帽子。薄い金髪に、濁った青い瞳。爬虫類を思わせる顔つきは、リコリスの記憶にあるものより獰猛に見えた。
あの夜、アーガイルを脱出する際、屋上でリコリスに切りかかった男だった。
「……あの時の」
「……やっぱりお前か。気持ち悪い」
呟く声は同時。やはり黒髪黒目の神子同士、似通ったところがあるのか、その声音すら同じ思いを持っているようだ。クロードも、おそらくこの場にいる全員が、二人と同じ意見のはずだ。
その男はリコリス・インカルナタとセドナ、二人しか見えていない。見ていない、のではなく見えていないのだ。
この場において全員が彼の敵なのに、それすら度外視して彼の興味は神子二人にしか向けられていないのだ。
この男は異常だ。この男はおかしい。
本能が警告する。リコリスをこの男の視界に入れてはならない。そう思っていても、指一本動きはしない。
「……なぜ裏切った、とは聞いてくれないんだね、セドナ」
「ああ。期待していなかったからな」
淡々と、まるでそうだろうと思った、と言わんばかりのセドナの態度に、その男は大げさに悲しむ素振りをする。
「嗚呼。君の悲しむ顔が見たかったのに……その点、リコリス・インカルナタのほうが『優秀だ』」
「この……っ」
一瞬。
ざっと風が吹き抜けた。驚くべき速度でセドナはオーランドの剣を奪い、男に肉迫する。瞬きの間に行われたこと、クロードですら対処できなかったかもしれない。
けれど、男はどこからか取り出した短剣でそれを受け止めていた。
「無駄よ、セドナ」
セドナの細腕が震える。
「この結界内でまともに渡り合うなんてできない」
セドナ自身の力で圧され、足が地面にめりこんでいく。
「くっくく。リコリス嬢のことになると、君はいつも冷静さを失う。それが君の美点であり、唯一の欠点でもあったが、今はもう、どうでもいい」
男は軽々とセドナを押し戻す。よろめくセドナの姿は見た目通りの華奢な少年そのもので、そう思った、思わされた状況に、クロードは目を見張る。
男は腕を戻すその勢いを殺さず、リコリス目掛けて短剣を投げつける。リコリスはその動作を読んでいたかのように「―――守れ」。
呟き、金色の魔力で編まれた魔力弾が打ち出される。短剣は勢いを殺され、リコリスの一歩前の地面に落ちる。
息を吐く暇はない。リコリスは次の一手の動きを見る。男はまたどこからか短剣を取り出す。形状も意匠もそれぞれ違う。
(なるほど、幻想結界を使って短剣を無限に作っているのね。けど、使用できる武器は短剣に限る……! なら、元を断つ……!)
現実に錬成された短剣ならば、リコリスは手を出せない。だが、それが魔術によって生み出されたのなら魔術の神子が干渉できない余地など、どこにも存在しない。
もとを断つ。短剣の象徴は風と炎。呼び出すイメージ核のこの精霊を、リコリスが奪い取ればいいだけの話だ。
両腕を広げる。左腕に刻まれた、四大元素の紋章陣を強く意識する。
契約書は自分の体に刻まれている。四大元素の精霊を使役することなど、造作もない…!
「―――炎よ、風よ! 汝らの象徴たるものをこの場から断て……!」
【―――御意】
風が、炎が。左腕を核に生み出される。呼び出す言葉は一節にも満たない。一息で呼べる数字だけの、最短詠唱。
精霊の存在の残滓が出たのも一瞬。リコリスは精霊から提供された、彼の魔術の一端を垣間見る。解析を始める。思考に乱れはない。常人なら他人の第二魔術に埋没し、精神死してもおかしくないそれをマルチタスクに回し、自分の視界を、世界を現実に合わせる。
詠唱の意味に、自分が短剣を出すことができないことに気づいたのだろう。男の顔が、初めてせっぱ詰った顔になる。
「―――は、原初の炎、」
常人としては上出来な二節までの短縮。けれど、そんな幻想結界の支援あってこそのモノも魔術の神子の前には意味をなさない。
「―――水よ」
言葉が、意識が白熱していく。全身を流れる血が熱い。第二血流は溶けた鉄のように燃え上がる。神経は悲鳴を上げる。けれど、生身の体に興味はない。生身の体がつぶれても構わない。
今はこの、魔術の戦いに身を置くこと。どれだけ魔術を駆使できるか。
今はただ、たったそれだけだけが魔術師たる私が望むこと――――!
「くっはははははははははははははは!!!!! 最高だ、やはり神子の名は君にこそふさわしい―――リコリス・インカルナタ、私の神子!!!」
突如、哄笑が雨のように降ってきた。
リコリスは戦い狂いたい思いをそのままに、男を睨む。男はなおも笑い続ける。
「最高だった。四大精霊を使役するのに、一節以下とはね―――いや、いいものをみた。けれど君は忘れていやしないかい? ここが私の結界の中だということを」
男はここで初めてリコリスとセドナ以外に目をやった。ここにきて、全員が指一本動けないことを嘲笑するかのように。なめまわすような視線の最後に、クロードに視線を合わせて、にたりと微笑む。獲物を見定めるように、舌なめずりしそうなほどに。
「現に君たちは私の支配から抜け出せていないだろう? リコリス嬢と、少し予想外だったがセドナ。君たち以外は。私は彼らを思いのままに動かすことができる。そう例えば」
芝居がかった動作で、クロードを指さした。途端に体が動く。姿勢が治る。
「彼にも、君は同じように立ち向かえるかな?」
違う。体が動くのではない。クロードの体に入った力は、間違いなく彼が間合いを詰める動作だ。腕は確かに剣を抜く動作をし始めている。けれど、その先にいるのは。
(リコリス、なのに。あいつ相手に、なんで、剣を―――)
体の動きは止まらない。
不思議なのは、それだけでなく。
どうして、リコリスは、彼の存在を素通りして、虚空を見つめているのだろう―――?
「私は、失望したわ。ねえ、本当に、まだ気付いていないの?」
一歩、リコリスが進む。
何のことだ、と問う彼に、リコリスは問われれば答える魔術師として答える、までもない。
舞い降りるは花。桜の花びらが、先もしない木の上から降ってきている。
物語るは天壌の語り手。桜の花弁などではない。もっと鮮烈で、あいまいな力を含む魔力の塊。
まるで童話の妖精がそうするかのように、魔術師エレアノール・スコットは木の枝に腰かけて、くすくすと笑っていた。風に揺れる髪は魔力の顕現。桜色の髪が淡く輝いている。
そうして、桜色の魔術師―――『童話使い』と呼ばれる彼女は、魔法の言葉を唱える。
「そして、第四の壁は壊されました」