Ⅴ 出来損ないの夢
甘い香りが鼻につく。むせ返るほどの甘い臭気に、リコリスは思わず顔をしかめる。
馬車のドアを開けた途端に流れ込んでくる匂いに、ドアを開けたエレイシアは思わず鼻を押さえ、エレアノーエルは間に合わず盛大なくしゃみをした。
「……くっさ、くしゅっ、くさいです!」
なんて、くしゅんくしゅんとくしゃみを連発して、涙目になりながらエレアノールが訴える。三者三様に混乱する彼女らに対し、クロードとオーランド二人は何の事だかわからない、と言った顔をしている。
この匂いを感じられるのは魔術師と、魔術に敏感な人間だけのようだ。
鼻につん、と来たのでリコリスも鼻を押さえながら言う。
「……空間制御、というか空間をねじ曲げる類の魔術でしょうね」
ふごふご言う黒髪の少女にオーランドは懐疑的に問う。
「つまりこの空間が、何者かの手に掌握されたということですか?」
「おそらくは。ティターニアとサマランカ以外の勢力が、馬車と馬車の中にいる人間だけが隔離されたんでしょう。セドナの馬車も残っていれば、だけど」
リコリスの言葉に、ドアから身を乗り出して外の様子をうかがっていたエレイシアが答える。
「リコリス殿の言う通りのようですよ、オーランド。後ろにセドナ殿の馬車が」
部下に促されてオーランドは馬車の外をうかがう。その背中にリコリスが解説する言葉を付け加える。
「……推察するに、だけど。
これは指定した座標のものだけを"裏側"に落とす魔術でしょう。ここは停滞点、あるいは悪夢。
馬と御者が消えたというより、私たちが消えてしまったのでしょうね。」
エレアノールが青い瞳を見開く。
「……侵食する童話……」
聞きなれない言葉に、クロードが疑問符を浮かべる。しかしリコリスは珍しく解説を挟まない。
「安心なさい、エレアノール。それは世界に一つの血筋しかできないままよ。これはその出来損ない。
ただの夢と言っていい。夢であるのなら、目覚めてしまえばいいだけ」
「夢から覚める……あるいは夢の世界を壊すだけでいいのですね、お姉さま」
熱っぽくエレアノールが続ける。
「それで。どうすればいいのでしょう?」
魔術師二人だけで進められていることに苛立ったのか、オーランドがもったいぶるな、と腕を組む。リコリスはむっとしたように視線を返す。無粋な奴、とでも言いたげに。
「あなた、夢から覚めるにはどうすればいいと思う?」
「そんなもの―――」
と、言いかけて口ごもる。クロードも簡単なことだ、と思ったが具体的に考えると思いつかない。
視線が宙に浮く。革張りの馬車の内装ばかりが目に入るばかりで、答えなんてどこにも書いていない。
ええと、夢から覚めるにはどうすればいいんだっけ?
リコリスはふっと息を吐く。すごく馬鹿にされた気がする。
「……クロード・ストラトス大尉。あなたは頭は悪くないと思ってたのに」
以前どこかで言われたような気がする言葉。
どこで言われたんだろう、と引っ掛かるクロードを置いて、リコリス、ではなくエレアノールが話を進める。
「夢の中の世界は自分だけのもの。空を飛ぶことも、海の中を自在に泳ぎ回ることもできますわ。
けれど、そこはエゴだけで築き上げられた世界。ありえない、と自分のエゴが思ってしまったのなら崩れてしまう。……つまりは、自分が認められないことをしてしまえばいいのです。
そう、たとえば――――」
奇抜な髪の色と同じ、桜色の唇が答えを告げる。その前に、
「おい、話し合いは終わったかな?」
苛立った声。忘れもしない中世的な声によって遮られる。
開けたドアの向こう。霧の立ち込める森の中でも圧倒的な存在感を保って、セドナが平然とそこにいた。
「拘束とやらはどうしたの」
「あんなもの、足止めにもなりはしない。一応、壊すのはまずいかと思ってそのままにしてたんだけど、そんな場合でもなくなってみたいだからな」
隻眼の黒い瞳が、冷たく馬車の中を見回す。しかしその冷たさは殺意による冷たさではなく、純粋に戦力と状況を図る視線だった。
リコリスはまるでその答えを想定していたかのように、そう、とぞんざいに答えた。結論を言う機会を奪われたエレアノールは、しかしオーランドとエレイシアを睨み付けていた。
「釈明の言葉もありません」
上官が余計なことを言う前にさっさと謝ってしまうエレイシア。この一瞬でこの二人組の上下関係が知れてしまった。オーランドは天を仰ぎ見た。
「早急にここを抜けましょう。これ以上は我が軍の沽券にかかわります」
エレイシアは事務的に告げて、馬車から出てセドナに歩み寄る。並び立つと意外に彼女は背が高く、セドナよりも頭一つ分は背が高い。あなたの馬車に乗っていた軍人はどうしましたか、との質問にこともなげに「殴ったら気絶した」と答えるセドナ。
一方でセドナはそんなやり取りを不満げに流すと、組んでいた腕を解く。
「それで、君はどうしたの。君ならそんな拘束ぐらい簡単に解けるだろう」
君、というのはリコリスを指しているらしい。何故か親しげな口調。違和感に身を固くするクロードの腕を、リコリスの小さな手がそっと抑えた。
「あなたほど堪えが効かない性格じゃないもの、私。けどそうね、この様子じゃ我慢してもしなくても同じだったかしら」
オーランドを揶揄するように続けるリコリスの言葉の最中、セドナはごく自然に、馬車の中に足を踏み入れた。リコリスはそれが当然のことであるかのように、ごく自然体でそれを受け入れた。黒い瞳は夜のように静かなまま。
黒髪の剣士と黒髪の魔術師の視線が交錯する。冷たい瞳と静かな夜の瞳はまるで示し合せたかのように無表情。三秒の後、肩口までしかない黒い髪がさらりと肩から零れ落ちる。
髪が動いたのはセドナが屈んだからだ、と気付いた時にはセドナの指はリコリスの首にあった。
あまりにも自然で殺意のない動作に、クロードの反応が遅れる。とっさに攻撃に転じようとした彼を、添えられた彼女自身の手が阻んだ。
処女雪のような白い首に嵌められた首輪。血のように赤い宝石にセドナの無骨のような指がかかる。ぱきり、と音がして圧力をかけられたかのように宝石が割れる。残る留め金を、セドナは両手で引きちぎる。
「なっ……!」
クロードが思わず声を上げる。鉄を引きちぎるこの剛腕と、自分は今まで戦っていたとは。それ以上に、そんなことをしてしまう人間にも恐れ入ってしまえけれど。
いや、それよりもそれ以上に。敵であるセドナがリコリスの拘束を解いてくれるとは思っていなかった。
「首輪も外れたし、力の出し惜しみする必要もないな。さっさとこの胸糞悪い空間から出してくれ」
セドナはつぶれたカエルのような声を出すクロードを無視して踵を返す。
不快そうに首輪の跡をさするリコリスは、全員の唖然とした視線に気付いた後。
安心させるように、また奮い立たせるように、頼もしく微笑んだ。