Ⅳ 奇襲
夕方あたりから自分の方で眠りこけていた幼馴染の少女が、薄く眼を開けるなりむにゃむにゃと何か寝言を言った。
何を言っているのかわからないが、それどころではない。と出来る限り不安を煽らない表現で言ってやる。彼女は長いまつ毛に縁どられた瞼を数回瞬かせると、ようやく事態の異常性に気づいたようだ。
この馬車は護送車だ。こんな何もない森の中で止まるはずがない。
「……何があったの」
「わからない」
眠りこけていた自分にぞっとしたかのような押し殺した声に、端的に答えた。
「私たちにも分かりかねます。いえ、心配せずとも大丈夫です。馬車が止まったのは本当に今しがたですから」
何が心配しなくても大丈夫なのか。赤い髪の女軍人は場違いに穏やかに微笑む。
「何が心配しなくても大丈夫なんですか。馬と御者が消えてますけど!」
馬車の小窓を覗き込んだエレアノールが叫んだ。
馬と御者が消えた、という言葉に一同が眉根に皺を寄せた。
女軍人の言う通り、馬車が止まったのは今しがただ。その際に馬が連結を外されたような気配も、ましてや馬と御者が襲われたようなこともなかった。まさに、「消えてしまった」。
リコリスは身を固くする。これは夜盗や獣による襲撃ではなく、高位の魔術師の手によるものだと理解したのだ。
「エレアノール、」
「なりません。あなた方を外に出すわけにはいかない」
と、これまで無言だったオーランドが口をはさむ。
「私たちに課せられた絶対命令は二つ。あなた方の逃亡を阻止すること。そして神明裁判の時まであなた方の命を守り抜くことです。みすみす危険な場所に行かせはしません」
「これは魔術師による隔離よ。魔術を使えないあなたが何をできると言うのかしら」
「何を言うかと思えば。インカルナタ大佐、あなたにこそ何ができる。首輪の解除はまだ終わっていないでしょう?」
―――完全に解除する前に、居眠りをしてしまったでしょう?
リコリスの目つきがますます鋭くなる。思い当るとすれば、道中振る舞われた紅茶。そういえば、あれを飲んでから記憶があいまいだ。
「薬を盛ったのか」
「解除されて逃げられては大変ですから。私が彼から許可をもらいました」
女の言葉に頷くオーランド。
「……見誤りました。確かにサマランカ国民は魔術に疎く、そしてあなた方二人ともに第二血流は開いていない。サマランカ国民の女性には『異能の力』を感知することに長けたものがいる、というのは本当でしたのね」
「それも数百人に一人くらいですが、私ほどの者はこの国に二人といないでしょう」
……これには驚いた。確かにエレアノールが言ったような噂は聞いたことがある。が、あくまでもそれは未確認の噂の域を出ないものだ。
自分より数代前の魔術の神子が実証しようと試みたが、結局マナの流れを感知できる者は魔術師のみだと結論付けられた。それにより、この噂は完全に都市伝説とされていた。
神子が間違っていた? そんなことがあるのだろうか―――?
「そんなこと今はどうでもいい。とりあえず、あなたが表に出て確かめてくれ。ええっと―――」
「エレイシアです。クロード大尉」
「じゃあエレイシア。エレアノールを伴ってこのあたりのことを調べてくれ」
「ですが何度も申し上げているように」
勝手に指示を飛ばすクロードに苛立ったように口を挟むオーランドの言葉を、今度はクロードが遮る。
「護送中に異常があった、というのはあなた方の責任だ。この状態であなた方に全幅の信頼を置くことはできない」
何しろ向かうは神明裁判。ティターニア国とサマランカ国の行く末を左右する決戦の舞台。
リコリスにとっては汚名を晴らす最後の機会。それを前に、こんな緒戦で躓くことなど、クロードには到底看過できることではない。
「あなた方の最優先護衛対象はリコリス・インカルナタただ一人だ。エレアノール少尉ひとりの逃亡はそれほど重要ではないだろう」
リコリスを首輪をつけさせたままで馬車で置く代わりに、エレイシアの調査にエレアノールを同行させる。これが彼の最大限の譲歩だ。
責任の所在を問われて、オーランドは言葉に詰まった。
「わかりました。……ですが、それはこちらも最大限の譲歩です。仮に、やむを得ない事態でも、インカルナタ大佐が首輪の拘束を解除すれば我々への敵対行為と見做します。神明裁判は当然行わず、即時開戦します。よろしいですか」
「結構だ」
あなたもそれでよろしいですか、とオーランドに問われ、リコリスは是非もなく頷いた。
……リコリスが口をはさむ余地すらなかった。