interlude - Confabulation 2
血。血。血。夥しい赤。床に叩き付けられ割れた柘榴。ひしゃげたトマト。
月明かりに照らされたソレを、床に転がる私はぼうっと眺めている。大理石の床の冷たさにか、それとも自分の××された×××のせいなのか、体温はどんどん奪われていく。
血のような赤い瞳が、私を覗きこむ。
―――違う。その瞳はもはや生者のものではなかった。それはまるで、死人の――――。
耳をつんざくような悲鳴だった。いや、悲鳴だけではない。神子の部屋に相応しい優美な調度品たちが、一斉に割れ、あるいは圧し潰されていた。破砕音と破裂音が飛び起きた彼女を正気に戻す。
「――――、静止」
必要最低限の言葉で自身の魔力の暴発を押しとどめた彼女は、最近癖になりつつあるように、つややかな黒髪を掻き上げた。生ぬるい脂汗が、頬を伝い落ちる。風通しの良い寝間着も、絹のシーツすら汗だらけになっていた。少女はいまだ荒く上下する胸を押さえ、大きく深呼吸する。
すーはーすーはー。
かつて「せんせい」に教えられたようにすれば、数分の時間を要したものの呼吸は次第に戻っていく。
黒髪の少女は安堵の息を漏らす。
………なんてひどい夢―――ではなく、現実。
夢の中の光景は間違いなく、彼女が数日前に引き起こした惨状のその只中の記憶だ。
人体への強化魔術と、そして精霊との永久契約を同時に行った夜のことだ。どちらも理論はあったが、実現は不可能と言われているもので。
「それを同時にやらせるとは」「酔狂なことだ」
と、幼馴染の男の子二人に言わせてしまう始末。
それはそうだ。強化魔術はようやく対物で成功したばかりだし、それも効果はまちまちだ。対人強化魔術、つまり身体強化は過去に何人もの魔術師が挑んだが、その誰もが悲惨な結末に終わった。
精霊との永久契約。これも前代未聞だ。前例がない。
そもそも通常、精霊魔術は精霊に「お願い」して起こす奇跡だ。それを人の身で永久に支配下に置こうなんて、おこがましいにもほどがある。
結果。立ち会った神子の家庭教師と院長は死体で発見され、また術者である少女自身も軽症ではあるが怪我をした。しかも神子には一部に記憶の混濁が見られる。発見したのは彼女と交友のあった第二王子とその従者の少年。
この事件に教会は混乱に陥った。とりあえず副院長を院長の座に据え、死んだ家庭教師の家族には自らの実験の失敗による事故死だと伝えた。すべては神子の名誉を守るため。
神子の罪を認めない彼らに対し、聖女の威光の下では何もかもが許されるのか、と当事者の少女は唇をかんだ。
せんせいを殺した罪を、裁いてほしかったのに。
それは間違いなく、私自身の、私だけの罪なのに。
神子はそれほどまでに「完璧でなければならない」のか。
けれど、けれどせんせいはそれを望んでいた。
ならば、なればこそ――――?
またカタカタとなりだした小物入れを魔力を込めた視線で睨み付ける。すると今度は制御がうまくいかず、またいっそ清々しいまでの破砕音を立てて、小物入れは粉々になってしまう。
「……お気に入りだったのに」
綺麗にカットされたガラスの小物入れ。光に当てると綺麗な虹色の光を放つそれが好きだったのに。
せめて後片付けだけでもしようと、立ち上がろうとする。
「―――っ、う」
首を絞めつける感覚でソレの存在を思い出した。
細い金の首輪に鉱石の感触。目的を察するにそれは紫水晶だろう。古い文献で見たことがある。
制御の首輪、と呼ばれていたらしいそれはその名の通り魔力を制御する効果がある。それを着けられた魔術師は全身に満ちる魔力を失い、無力化させられたという。
少女は事件から数日後、ただちにこの枷を着けさせられ、この部屋に閉じ込められていた。
世間から少女を守るための措置か、あるいは彼らの保身のための措置か。事件の隠蔽という事実を考えると、おそらくは後者だろう。幼い頃から痛感してきたとはいえ、うんざするほど俗で下衆だ。この教会という組織は。
少女の牙をこれで抜いたつもりらしいが、これは明らかに劣化品だ。
材質自体がかなり新しいもので、要となる紫水晶にすらそれほどの神秘は感じられない。これでは精々少女の魔力の流れを多少妨害する程度にしかならない。しかも解呪には十二時間もあれば余裕だろう。
例外があるとすれば、どうやら成功したらしい身体強化の性能が落ちることくらいか。
この首輪が彼女につけられたのは、少女が事件以降目を覚ましてから丸一日経った後なので、そのくらいの比較は簡単に出来た。
さらに言うならば、彼女は精霊との永久契約も成功させたらしい。彼女が心で念じただけで精霊は応えてくれるのだから、契約書である魔法陣―――つまりこの首輪に妨害される、魔力を使わなくてもいいというわけだ。
要するに、こんなモノはまったくもって意味のない枷というわけだ。
「これをつける意味って、あるの」
分析を終え、こんな感想を漏らすまでにたったの十数分。上層部はバカなのか、と今までになかった考えすら湧いてくる。しかも上層部の恐慌はこれで終わらなかったらしい。首輪に鎖をつけてベッドに固定し、神子の部屋に何重にも鍵をかけた。
一人不自由な状態で残された黒髪の神子はついに、「バカじゃないの」と侮蔑もあらわに呟いた。
……のが、数日前。少女の処遇はいまだに決まっていない。日に三度食事を運んでくる修道女に聞いても、何の反応もない。いい加減苛立ってきて、今夜か明日にでも首輪をはぎ取って扉を爆破してやろうか、なんて思っていたところだ。自分ってこんな過激な性格だったっけ。
そんなとき、ドアが豪快な音を立てて開け放たれた。
魔力の暴発でとうとう破壊してしまったか。一瞬そう思えるほどの突拍子のなさと勢いだった。
「リコリス!」
なじみ深い声。インカルナタ家と話がついた、と息を切らした幼馴染の声が解放を告げた。
「……ん」
地面が揺れている。かすかな振動。カラカラという音と馬蹄の音で、ようやく自分がサマランカ軍の馬車で護送されていたことを思い出す。
鉄格子で武装された窓の向こうは鬱蒼とした森の景色。すでに日が落ち切っているせいか、不吉なものを感じさせる。
頬が温かい。安心できるぬくもり。
顔を上げると、見知った顔が見つめ返す。琥珀色の瞳が笑みの形に細められたところで、リコリスは彼に寄り掛かったまま寝てしまったのだと理解した。
「ねえクロード」
ふと、純粋な疑問を投げかけてみたくなった。それは重要なことなのだ、と心のどこかで感じていた。冬の風のような、寒気を覚えさせるその言葉を。
「インカルナタと話をつけたのって、誰だった……?」