ⅩⅨ 月下の儀式
数時間後、リコリスはアウグステの部屋にいた。
店舗ではない、彼女の部屋は魔術商品に関する書物や経済の本などが整然と並べられており、雰囲気はリコリスの私室に近かった。本以外にあるのは隅に追いやられたベッドだけ。床面積はかなり広い。
違うのは彼女の私室ほど荒れていないこと、リコリス自身の魔術がうごめいていないこと。魔術用品それ自体はこの部屋にはないため、術式や道具のノイズに悩まされることはない。
ちょうど今夜は月が明るい。火が揺らぐ音すら雑音となる、この儀式を行うにはちょうど良い夜だった。
リコリスは瞳を閉じる。視界を封じることで余計な俗世の情報を締め出すことができる。
想像するのは、忘れもしないあの魔法陣。全身で感じるのは、魔力の通う第二血流。認識するのは、自らが開いた身体強化のための魔力の血潮。
ほんの少しの誤差すら許されない、極めて高度な魔術。
成功者は歴史上にいない、幻の術式。いるとすれば、それは過去の自分だけ。
「―――血潮を開き 旧き血潮を保て―――」
リコリスは手に持った子瓶の蓋を開け、床に中身の水銀を垂らす。瞳を閉じているにも関わらず、その光景はよく見える。過度な集中状態に入り、魔力の感覚を完全に制御している彼女にはその程度の不可能など、簡単に可能にして見せた。
広がったのを確認し、リコリスは水銀溜まりに指を伸ばす。記憶通りに、しかし修正した箇所はきっちりと反映し。彼女の指は正確に、複雑な魔法陣を描く。彼女の指にこの水銀は害を為さない。為さないように彼女が制御している。いつしか彼女の指よりも、水銀そのものが彼女の思うまま、陣を描き始める。
「―――新しき血潮を 己を越えた力を受け入れよ―――」
この術に本来必要なのは大量の人の血液。それを知らずに行った幼い彼女は、怖い大人と恩師をその無知ゆえに失った。代用しようとしたのは比較的手に入りそうな豚の血。正直成功するかどうか怪しかった。けれど、魔術と相性のいい水銀ならば成功する確率は飛躍的に上昇する。
「―――躰を穿ち 躰を鍛え 躰を超え よ ―――」
本来の、人間にあるまじき情報の処理速度。理解の限界。
その唇からこぼれる言葉はもはや言葉にすらなっていない。正確には、古き時代に廃れた魔術のためだけに作られた言語を彼女は発していた。体が熱い。血液が沸騰したように。
―――血を、抜かなきゃ。
抜かなきゃ、足りない。
リコリスは虚ろな黒い瞳を開ける。ぼんやりとした視界に自身の魔力が視覚化された金色の光と、消えかけた水銀の魔法陣が見えた。
―――足り、ない……!
儀式はほとんど最終段階だと、体が告げている。けれど魔法陣が完全ではない。完全でない魔法陣で乗り切れるほど、この儀式は簡単なものではない。この儀式に使える材料は二つ。
血液か、水銀か。
水銀はもうない。ならば、血液しか、ない。
リコリスは歯を食いしばる。スカートの中に仕込んでおいた、儀礼用の短剣を取り出した。体が魔術の運用に耐え切れず軋むがリコリスにはそれを気にしている余裕などない。取り出したその腕で、もう片方の腕を貫いた。
痛かった。けれど叫びはしない。苦悶の声すら残しはしない。口は詠唱だけで手一杯だ。自身の痛みをあらわす表現など、いらない。
貫かれた腕から、ボタビタと血がこぼれる。リコリスはそれに魔力を注ぎこんで、消えかけた魔法陣をなぞらせた。
光が一層強くなる。床に落ち、描かれた血液がしゅうしゅうと音を立てながら煙を上げている。けれど、これでようやく終わる。
「――――――――開け」
最後はたった一言だった。光が途端に収束し。描いた魔法陣は最後に蒸発して消え失せた。
全身の筋肉が弛緩して、リコリスは倒れこむ。しかし最近彼女を襲っていた倦怠感は訪れない。短剣を持っていた右腕を見ると、新たに身体強化の刻印が刻まれていた。
成功だ。
未だに血を流し続ける右腕の傷を撫でるようになぞりつつ、魔力を流し込む。傷は跡形もなく消えた。
術式中の万能感も、描いた魔法陣も綺麗さっぱり消えていた。荒い呼吸を深呼吸をして宥めすかせ、体の状態を確認する。
身体強化術式、第二血流、ともに異常なし。
「これでひとまずは安心ね」
誰に言うでもなく呟いて、リコリスはしばし窓の外の月を見上げる。
しばらくそうしていると、階下で誰かが入ってきた音と話し声で騒がしくなる。
クロードとエレアノール、それとここの住人が帰ってきたのだろう。
久しぶりの軽いからだ。それを起こして彼女も彼らを迎えに行くことにした。