ⅩⅧ 私の知らない強さ
「黒髪、セドナがあの商会に何をしに行ったのか、どういう関係なのか、それを聞きに」
リコリスは不躾な物言いも気にせずに、簡潔に答えた。アウグステはその返答を気に入ったらしい。彼女も同じくらい簡潔に答えた。
「私は知らない」
冗長にしようもないくらい、簡潔な答えだったからなのだけれど。
「散々もったいぶったことを言っておいてそれか?」
クロードは腕組をして言う。リコリスは無言で同調する。
「ふん、出来ないこともない。というか、これはほぼ真相と言ってもおかしくない。
あの黒髪はね、私が現役だった数年前にも来た。そう、あんたが教会に離反したちょうどその頃。―――教会と奴隷取引をしないかという商談だった」
「……なんですって」
「……へぇ」
信じられない、とエレアノールが、裏切りの事実を新たに知り、怒りを抑えんとしているリコリスの声が同時に重なった。
「当然私は断った。そんな息の短い、かつ汚い仕事はやってられるかってね。奴隷取引禁止法が制定されるよりずっと以前から奴隷商は人道的でないと言われている。だが、金になるのは事実だ。そしてなんと、非公開の神子がそれを持ち掛け、教会がそれを仲介すると言っている。この話に乗らない手はない、そう言い出した連中がいてね。……そう、あの馬鹿息子のことだよ」
アウグステの声は先ほどよりもずっと浮世離れした響きを持って、リコリスたちに話し続ける。遠い、しかし鮮明な記憶を掘り起こすように。
「商会内部は真っ二つに割れた。所属商人たちは互いに足を引っ張り合い、罠をかけあい……商人同士の信頼は皆無になった。そして私の、ほんの少しのミスのせいで奴隷取引反対派は敗北を喫した。私は生み出し、育てあげた商会を追い出され、隣国のここまで亡命する羽目になった。……もう、私の知っているパレナ商会では、なくなってしまった。
ならず者の吹き溜まり、と呼ばれているここにたどり着き、錬金術師たちを現役のころの知恵を使い助けて、ようやく私も安住の地を見つけた。暗闇の中の安らぎだ。それも、もう―――いや、この話はもういい。
つまり、あの馬鹿息子に代替わりした後は、わかるだろう?」
「ええ。分かりすぎるほどに」
リコリスは静かに会話を閉じた。アウグステの短い物語は、それでいて口惜しさと愛情と、そして失望が溢れていたから。聞くに堪えずに、打ち切ってしまったといった方が正しい。
友情と、信頼と。それらの結晶である場所。それが外来のものと自身の息子に壊されるという現実。
それがどれほど恐ろしいことか。リコリスはまだ、その恐怖に向き合うことはおろか、考えるということすらできない。
―――もし、リコリス・インカルナタがセドナに負けたあの夜、目を覚ましたそこにクロードがいてくれなかったら。
もし、アルバートがリコリスの無実を信じ、その解決を指示する手紙を送っていてくれなければ。
もし、エレアノールがイリスの家で泣きながら待っていてくれなければ、リコリスはセドナに立ち向かうことや無実を証明しようと思いもしなかっただろう。
孤独と、神子としての存在価値の否定。罪悪感に、裏切りという事実。
それらに抗うことも出来ず、一人自害していたかもしれない。リコリスが傷を負いつつも、何とか我を保っていられたのはクロードやアルバートの信頼という、安住の地があったからだ。
それを失くすことなど、リコリスには到底耐えられない。リコリスは結局、弱いままだ。
リコリスは自分には耐えられない思いを乗り越えた老婆を前に、追求すべき言葉を思いつかない。それを察したのかそうでないのか、クロードが躊躇いもなく問う。
「それはつまり、息子のルロイが奴隷取引の契約を教会と結び、セドナはその仲介人として複数回訪れた、そういうことだな?」
「そういうことだ、分からないのは神子自らがそんな汚れ仕事をしているところだが……そんなのは重要視するべきところじゃない」
「お姉さまが離反した直後から、セドナを使って教会が何かを企んでいたことですか?」
「それは本質的な問題に繋がるだろう。先ほどのことも加えて考えれば、これは重要なヒントになるはずだ。けれど今考えるべきはもっと短期的な、例えばこの街でセドナを蹴落とすためのどういった、材料を得るか、ではないかね?」
エレアノールは髪色と同じくらい頬を染めた。魔術師の思考傾向からして、短期的な打開策をすっ飛ばして根本の問題を重要視することは少なくない。ただ今は、魔術師の典型的な考え方は捨てるべき、ということに改めて気付かされた、と思ったのだろう。
「……あまり私の部下がいじめられているのは見たくないのだけど、商人さん」
リコリスは分かって当然、という態度を窘める。
「そういうからには、何かあなたの方で素敵な提案でもあると期待したいのだけど」
「もとよりやってもらうつもりだよ。こんなこと、危なくてあんたたち以外に頼めるものか。そうだ、前報酬にこれも持っていくといい」
リコリスに背を向けて戸棚を探っていた老婆が、リコリスにむけて小瓶を放る。身体強化が効かず、とっさに反応できなかったリコリスより先にクロードが動いた。片手でよろめいたリコリスを支え、もう片方の手で小瓶を掴む。
「ティターニアでやっていたら不敬罪で牢獄行きだ、アウグステ。中身は……」
「……、水銀ね…!」
驚いたように、リコリスは言う。その黒い瞳は、予期せぬ宝物を見つけたかのように輝いていて。
「ふむ、どうやらこれは……期待できそうだね」
女商人は満足げに笑っていた。