XⅣ 愚か者の決断
光が完全に遮断された部屋の中で、神子たる彼女はふぅっと息をついた。
体中が悲鳴を上げている。いくら魔術の天才であるリコリスとはいえ、度重なる多重作業の使用は脳に負担がかかる。
ため息の原因はそれだけではない。リコリスは幻術を解き、闇色に戻った瞳でベッドの上を見た。
正確には、その上にある手紙に。
イリスが見つけてきた手がかり。数日前にリコリスとクロードが盗賊から助けた商人ベイツからの手紙。そこにはオーガスト・ライオネル……否、アウグステ・リオネルに関する詳細な情報と「サマランカとティターニアの現在の状況」が記されていたのだ。前者は詳しく、後者は端的かつこれ以上ないくらいに明快に。まるで思い出したかのように付け加えられた後者の情報は、ティターニアの軍人にはこれ以上ないくらいに重要なものだった。
曰く、数日前のサマランカの宣戦布告ののち、ティターニアから和解と原因たる暗殺未遂事件についての共同調査を求める使者が送られていること。それも複数回。
曰く、その行動についてティターニア上層部は開戦派と王子たち率いる和平交渉派で既に荒れ始めていること。
……つまり、アルバートが苦境に立たされていることは想像に難くない。
リコリスは力の入らない腕を、精々強く握りしめた。顰めた顔は激怒しているようでもあり、泣きそうでもあり。
(……私はアルに信頼されてこの任務に就いた。なのに、なのにこの体たらく)
時間がないのは明白だった。呆けていた。自分ときたら自分の無力さを噛み締めて、地団太を踏んでいただけだ。その時間さえ、朋友が必死で稼いでくれていた時間だったというのに。
もはや彼女に、手段を選んでいる時間などなかった。
だから応じた。アウグステの要求に。
商人が、というより人間が人に無茶な、合理的でない要求をするとき。それは相手の「本気」を図りたいとき。要は、アウグステはリコリスをどんな人間か試したのだ。
人をいいように使って自分は殻にこもる臆病者か。
あるいは、無謀と知っていてもたった一つの光に応じる馬鹿者か。
答えは決まっている。
リコリスは本来、そういう人間だったはずだ。
魔術の神子。ティターニアの再来と言われた天才魔術師。たった一人で戦局を変える戦略級魔術師。彼女を表す言葉はいくらでもある。
代わりに彼女はほかのすべてを失った。体力や運動能力。親や家族、普通の日常。こんな戦いの中に身を置かない人生なんて、いくらでもあったはずだ。
それをすべて捨てて、彼女はここまで来た。その成果として、彼女はティターニア軍第三師団の大佐という称号を得た。ほかのものをすべて捨てて、たった一つだけ見えた光を追い求めてきた。
「臆病者よりは、馬鹿者のほうがずっと私らしいわ」
リコリスは笑みを浮かべた。
軍人ならば軍人らしく、君主に与えられ、自ら臨んだ職務を全うするべきだ。馬鹿者と言われても仕方がない。
君主が苦境に立たされているのに、自分は手をこまねいて機を逃すわけにはいかない。
リコリスは瞳を閉じる。もう一度瞳を開けると、その瞳は黒ではなく、澄んだ翠だった。
リコリスがしなやかに髪を梳くと、黒髪は亜麻色の髪となって手から零れ落ちる。
幻術をかけなおした彼女は身支度を整える。重いからとはずしていた剣を腰に。小道具が入ったウエストポーチを巻く。スカートの下、太ももに巻いたベルトにイリスに渡してしまった短剣の代わりに新しく買いなおした短剣を刺す。
重かった。こんな装備ですら、いつもよりずっと重かった。立って歩くことすら億劫な身体強化の効いていないこの体に、この装備は重かった。リコリスは腰にさしたレイピアを抜く。
イリスに渡した触媒剣とほぼ同じものだ。軽量と代行を刻んだ水晶の剣。違うのは、柄に埋め込まれた宝石の有無だけだ。優れた魔術師なら、この宝石が纏う薄い魔術の匂いに気づくかもしれない。けれど、この魔術の正体までは気付けまい。―――いや、「そう」であるとは思いもしない。
感情を強い意志で固めた翠色の瞳が水晶の刀身に写ってリコリスを見つめ返す。リコリスはシャリン、と音を立てて鞘に戻す。
いまだ浮かんだままの金色の地図に視線を移す。この宿からアウグステの店までの道順は覚えた。よくよく見れば、やはりこの辺りは路地裏区なんていうだけあって錬金術師だの奴隷商人だの、胡散臭い連中が雁首揃えている。
リコリスが一睨みすると金色の地図は霧散し、部屋は完全な暗闇に戻る。
時計を見れば、アウグステの要求にこたえてからまだ数分も経っていなかった。
リコリスは剣呑な雰囲気を隠そうともせず、部屋を出た。
路地裏区はそんなに遠いはずではなかったのに、とても遠く感じた。
見知らぬ土地に一人、というのもあったのかもしれない。戦の雰囲気を敏感に感じ取って勇む国民に気圧されたのかもしれない。
けれどそれ以上に、自分の体力のなさをいうものを思い知らされた。
まるで貧血になってしまったかのよう。似たようなものだけど。
そんな視界の端に、リコリスは見覚えのある人影を捉えた。正確には彼女自身の目ではない。エレアノールにつけた魔術を通して見た姿。
貧相なワイシャツからすらりと伸びた足に、赤毛を隠すように帽子に閉まっている。
(―――あの泥棒)
視線に気付いた相手が、その意味に気付いて逃げ出すのにそう時間はかからなかった。
けれど、リコリス・インカルナタの魔術展開の速度はそれ以上だった。
とっさに路地裏に逃げ込もうとした彼の足首を、地面から突如現れた風の渦が掴んで離さないのだ。
路地裏の暗がりで倒れこむ子供の姿に気づく者はいない。リコリスはゆらりゆらりと幽鬼のように、彼に近づいた。観念した盗人は叫ぶ。
「ごめんなさいごめんなさい、いつの人だか知らないけどごめんなさい―――――!!!」
「………アウグステ魔術用品店」
「……は?」
拍子抜ける彼に、リコリスは再度告げる。
「アウグステ魔術用品店。あなたがあの日、エレアノールを振り切った場所の近くにあった店。
そこへ私を案内して。それと知っていることがあるのなら、すべて白状なさい」
「そしたら?」
「あなたを憲兵に突き出すのは、考えてあげる」
「……分かった」
リコリスは無言で魔術を解いた。思わずふらつきそうになる体。
「だいじょうぶ?」
「何が」
不機嫌に答えることで、彼の疑問を封殺する。支えようと伸ばした手を振り払い、白状しなさいと言ったはずよ、とリコリスは早急に情報提供を求めた。
「アウグステ魔術用品店、ボクが住んでいるところなんだけどさ」
さらっと爆弾発言だった。早く捕まえとけばよかった。
「アウグステはどこかの元商人さんで。いや、今も商人なんだけど」
少年の案内は、やはり慣れているせいか頭の中の地図を参照するよりずっとわかりやすい。
「そこで昔、奴隷商人と何かやって恨み買ってるみたいでさ。あいつらずっと何かあればアウグステを破滅させる気でいるんだ。反対に、錬金術師さんたちとは仲がいいみたいで錬金術師さんたちがいろいろと守ってくれてるわけだけど」
「……なかなかに複雑ね」
「そうでしょ?」
少年はリコリスの表情を伺いながら話し続ける。見かけだけは悠然と歩くリコリスより、彼の方が少しだけ歩調が遅い。しかしあえて合わせる気もないので、速度はそのままだ。
「まあ何が原因っていうのは知らないけどさ。でも色んなこと隠してそうで」




