ⅩⅦ アウグステ魔術専門店
リコリスはほんの少しの間、記憶をたどる。
……そういえば、アーガイルに向かう途中で会った商人がそんな名前だったような気がする。あまりいい印象は持てない男だった、というか、「大丈夫かなぁこの人」と感想を抱いてしまう人間だった。なるほど、確かに彼ならイリスも確信を持てない。
時間にして十数秒にも満たない間だったが、女主人は心配そうに「大丈夫?」と彼女のこの国での偽名を呼ぶ。リコリスはそれに精々はかなげに見えるように頷いて部屋から出た。
この宿は二階が宿泊部屋、下は受付と酒場になっている。酒場の客はほとんど宿泊客で毎晩のように宴会状態になってしまう。往々にして旅で疲れた人間は羽目を外しやすいものだ。そのこともあってこの宿は安い。
けれど昼間の今となっては客の姿も少なく、カウンターに初老の客の後ろ姿が見えるだけだ。
「商人さん、リリー・クロイツァーさんですよ」
と、フルネームで女主人は紹介した。その声に商人はすぐに振り向く。
その瞬間。
その瞬間、まるでこの世のものではないものを見たかのように驚いていた。目と口を見開いている。視線は忙しなく髪と瞳、そして顔を行き来している。あまりの驚きように、リコリスは黒髪と黒目を隠した術が解けてしまったかと錯覚するほどだった。
けれど、自分でも何度見ても髪は本来の黒ではなく蜂蜜色。おそらく瞳も緑色のままだ。
「あの、私が何か?」
「あ、ああ……いえ、なんでもっ」
その問いかけに彼はようやく我に返ったようだ。相変わらず顔は驚いたままだったが、とりあえず会話を続けられる状態になったらしい。
「ああ、それで、頼まれていたものなんですがっ」と震える手で一通の手紙を差し出す。
その手紙は、キチンと蝋で封をされたものだ。蝋なんて、そう安いものではない。それだけ、気を使ったということか、あるいは機密性の高いものなのか。
「……今、ここで開いても?」
リコリスはあえて馬鹿な質問をした。普通、こんな誰に見られているかも分からないところで大事なものを開かせない。どうせ見た目はただの少女だ、下に見られても何ら支障はない。気を遣っただけならば単にこの男がお人よしすぎただけだし、開けるなと言われたらそれはイリスは当たりを引いたということだ。
「ええ、ここでどうぞ」
なんだ、外れかとリコリスは落胆する。ここであけて、何か質問などあればどうぞ、などとご丁寧に言ってくる。胸の内でため息を吐きつつ、リコリスは封を開ける。
癖の強い筆記体の、読みづらい文字は、しかしリコリスに瞬時に情報をもたらした。
「これは」
一行目に記された名前を何度も何度も見直して、リコリスは声が震えないよう、精一杯の虚勢を張った。
「最近ここに居ついた『元商人』で、奴隷商人と諍いを起こした女について記したものです」
「なあエレアノール、ここか、その魔術師用の店って」
「ええ、そのはず……ですけれども。なんだか違法なお店の匂いがしますわ」
エレアノールとクロードはリコリスの儀式のための材料探しをしていたのだが、たった一つだけ見見つからない材料があった。それは大量の豚の血だ。魔術師の少ないこの国では、豚を解体した後に血をわざわざとっておくなんてことはしないらしい。結果として流通量は減り、魔術店をたらいまわしにされ、「あそこでなかったら諦めな」と最後に紹介された店に来たわけだが。
看板すらかかっていない、どうみても民家な店。クロードたち軍人の経験に言わせると、それは違法販売店の化身だ。
「……はあ、他国で違法販売店を利用したなんてバレたら懲戒免職じゃ済みませんわ……」
「サマランカの地理と法律には不慣れで気付きませんでした、ですませばいいさ。アルに始末は任せればいい」
とクロードはどうでもよさげに言って、路地裏地区の最奥の店の扉を開けた。
無暗に心地よい響きを持ったドアベルが鳴る。
魔術の蒐集品で埋もれた部屋、その奥にローブを被った女がいる。
「紹介状は?」
「はい、ここに」
クロードが短く言って紹介状を差し出す。一通り目を通して、女はニィっとローブの下で笑った。
「豚の血をご所望かい、なかなか素敵な客じゃないか。ついこの間見た短剣の作り手の考えそうなこと……本当に素晴らしいな」
女なのに男性貴族的な話し方だった。
「ようこそ、アウグステの魔術専門店へ。看板も出していないのはよく間違えて読まれるからでね、別に後ろめたいものは取り扱っていないさ」
「――アウグステ・リオネル。ハノンブルグ出身」
どうして、今まで何も気付かなかったのだろう。オーガスト・ライオネルを探し続けても、見つからないわけだ。
ハノンブルグではほぼ同じ文法で違う読みをする。ちょうど、ティターニア読みではアイリスがハノンブルグ読みではイリスになるように。時には、男女の名前が逆転してしまう場合だってある。
ちょうど彼女がそうだった。
アウグステ・リオネル。ティターニアでの名前はオーガスト・ライオネル。
ベイツから受け取った手紙には、彼女がその誤解から男だと思われ、そのまま男をして振る舞っていたことを十分に説明できる内容ばかりだった。