ⅩⅥ 妥協
「……飽きた」
ついにリコリスはベッドに倒れこんで呟いた。大して動いたわけでもない体が、その動作だけで抗議の声を上げる。
全身の筋肉痛、疲労、眠気。それらはすべて、身体強化術式の演算の反動によるものである。前回は高価な紙を無尽蔵に使えたから幾分演算も楽だったが、今回はそれがない。イリスの持っていた黒板を無断で借用したものがかろうじてあるだけ。
身体強化は本来、ひとりの魔術師がおいそれと使えるものではない。それを考えると、この程度の「代償」は可愛いものかもしれない。
―――けれど、ほかの人間がこの事件の収集に動いているというのに、自分だけ引きこもって魔術の演算、というのはつまらないものだ。
イリスとクライブはこのことを知らない。まだ完全に信用したわけではないイリスに、神子の弱点を教えるわけには行かないからだ。
あの、クロードに身体強化が解けているのがばれてしまった夜から、すでに二日も経っている。
二人に頼んだ身体強化儀式の材料は揃いつつある。イリスは何か糸口を掴んでいるようだったが。
「……遅すぎる」
そう、遅いのだ。
ティターニア国境であの金髪の少年剣士を逃がしたのは七日前。彼をわざわざ逃がしたのは彼があの「神子」ではないこともあったが、彼を捕らえるにはもっと明確な証拠を掴んでリコリスの名誉を回復する必要があるからだ。そのためにはある程度泳がせておきたい。
けれど、このままでは追いつかれてしまう。
賭けのへたな人間は大きな儲けを求めて引き際を考えないという。リコリスもまた、同じだったようだ。
「まあ、そうは言っても現状できることは何もないのよね」
と独り言ちる。
できること、というか頼まれごと、というべきかという案件は一つあって、それはイリスからのものだ。
「近々、利用してる商人が手紙を持ってくるからそれを受け取ってほしい。もちろん、中身は調査内容のことだから読んでも構わない」
「なんで私が」
「人づてに渡したくない」
信頼できるのか?と彼女に聞くも、イリスは非常に困惑した表情で「できる、と思う……多分」というだけだったので、リコリスとしてはいまいち信用できない。けれど彼女は彼女なりにその商人の有用性を考えているようなので、一応手札の一つとして数えておくことにする。
煤けた天井を睨み付けながら考えていると、遠慮がちなノックの音が響く。
「リリーちゃん? お客様だけど」
むやみに親しげな響きの声はこの宿の女主人だ。リコリスと同い年の、サマランカ兵である息子を持つ彼は『戦争から逃れてきた、病弱で人見知りな少女』に大層親身になってくれている。
リコリスはその善意を利用しているようで良心が痛むが、クロードは少し笑った後に「そう大して違ってないじゃないか」と笑った。どこがどう違わないのか、とは聞かなかったが。
まあ、良心は痛むが利用できるものは利用したいというのが現状だ。リコリスはおずおずとドアを開け、女主人の創造するリリーになりきる。
「お客様……ですか?」
「ええ、ベイツっていう商人さん」
なんだか、どこかで聞いたような間抜けな響きの名前だった。