ⅩⅤ ヒントは明確にそこに在る
首尾よく獲物を捕らえた、とイリスは笑みを浮かべた。もちろん、相手は商人。何を考えているのか、どこで足をすくわれるか分かったものではない。
「何の用だ?」
と、呼び止められて気を悪くした風にクライブが言う。赤毛の彼は、少し語気を荒くするだけでいかにもならず者のように見える。
「ええ、ですから先ほどの、ですよ。―――パレナ商会の。探していらっしゃるんでしょう?」
初老の商人は、人の好さそうな笑みを浮かべた。
彼はベイツと名乗って、「どこか手頃なところで食事でもしながら」と誘ったが、二人はそれを固辞した。その席で別の商人に聞かれては困るのだ。彼はイリスたちをパレナ商会――ティターニアにいたルロイが逮捕されたので、その親であるオーガストに差し向けられた借金取りだと思っている。ほかの商会の金銭状況など簡単に漏れることはないので、すぐにその情報を疑いはしない。けれど、パレナ商会と繋がりがあったものならば推察することはできるのだ。
そして、これは所詮クライブが思い付きで言った嘘。よくよく考えてみれば、そこかしこに矛盾を孕んでいるだろう。
けれど金の匂いに惹きつけられるのが商人の性。賢明な町商人ならともかく、駆け出しの行商人程度ならすぐに釣れるだろう、と予測してのことだった。
(……まさか、こんなおっさんが引っ掛かるとは、ねぇ)
イリスは内心、罪悪感にも似た呆れを抱く。露店の酒を渡してくるベイツは、どうみても初老。そして彼は行商人だと名乗った。普通、彼くらいの年齢ならば町で店を構えていてもおかしくはないというのに――。
「どうか、されましたか? お連れの方、具合でも」
「いや、疲れが溜まってるだけっすよ。それより、話しって」
渡された酒に口をつけて、クライブが問う。口がうまいのはクライブの方なので、イリスはこのままできるだけ聞き役に撤するつもりでいた。
朝の市場の喧騒に負けてしまいそうなくらい存在感のないベイツは、どう答えるべきか思考を巡らせているように見えた。……この間が、というかこのところどころ抜けている感じのせいで、この年まで行商人をやっているのかもしれない。
「……実は、私にも大した情報はないのです。オーガストは、この地にやってきてから一度も商会を介した正式な取引は行っていないので」
朝の市場のど真ん中に露店の密集地があるのも珍しいが、そんなことを堂々と言う商人も同じくらい珍しい。
露店の前に、座席代わりの酒樽が置いてあるこの場所は朝だというのに出来上がった漁師や傭兵が騒いでいる。イリスとクライブを除いて、だが。
「……は?」
一瞬思考停止したイリスは、嫌悪を露わにした。その視線を真っ向から受け止める気のない商人は、盃を呷った。
「ですから、『ない』というのが重要なのです。あなた方はオーガストがここにいるという、確かな情報を得てここに来た。なのに肝心のこの町には痕跡すらない。おかしいでしょう?」
酒の勢いを借りたのか、少しだけベイツの語調が強くなる。イリスは熟考する。
確かにあの路地裏の女は「いない」と否定したし、ほかをいくら調べても彼の痕跡は出ていない。ただ一つ、奴隷商人の証言を除いては。
(普通の取引では、正規の手段では痕跡を残していない。けれど、奴隷商人はオーガストがここにいると知っている…?)
「『通常の取引をしていない』のに、ここにオーガストがいるという情報がある。では、どこから情報が漏れたのか」
「裏の取引をしている……?」
呟いたクライブに、ベイツが微笑んだ。
「幸いここには、錬金術師に奴隷商人と裏の人間と関係を持ちやすい土地です。そこを探るといいと思います」
「あ、ああ、ありがとう」
イリスは圧されたように感謝の意を伝える。
(この商人、意外と鋭い……)
ベイツはまたニッコリ笑って、酒を思いっきり呷った。
「ああ、それでですねぇ。私も裏の関係を持ちたいと思って探りを入れてたんですよ。でも、錬金術師とつるんで商売してる女と奴隷商人が抗争しあってて―――」
途端に饒舌に話し始める初老男性。
「……酔ってる」
「酔ってますね、ええはい」
ああこれは絡み酒してくるタイプの人間だ、とイリスは観念した。
ベイツの頬が林檎のように赤く染まっているのをみて、イリスはどこぞの下戸神子を思い出したのだった。
「―――ふうむ」
リコリス・インカルナタに渡されたメモを見て、クロードは思わず唸った。メモに書かれているのは、身体強化術式の儀式に使うものを記したもの。
今朝、イリスとクライブが教会に向かったのを見計らって書いたものだ。彼女たちにリコリスの弱点を知らせるにはまだ早い。
リコリスは例によって宿で待機、エレアノールとクロードは引き続き調査……とイリスには言って、儀式で使うものを調達することになっていた。さすがに毎日奴隷商人のところにいくのは怪しまれると考えたからだ。今は市場に向かう途中。土埃だらけの白い石畳の街、騒ぐ男たち。隣国だというのに、ティターニアとはまるで雰囲気が違う。
「豚の血、ろうそく、銀の短剣……あとは、読めない」
彼女らしい癖ある字。今読み上げた後に書かれた文字は、彼の知らない言語で記されているのか全く理解できなかった。
人ごみに流されかけていたエレアノールが追いついて、背のびしてメモを盗み見る。
「ああ、これは……ここで言うと物議を醸しそうですね。でも、魔術師相手の問屋にでも行けば簡単に手に入ると思います」
エレアノールはクロードに置いて行かれまいと足早に歩く。視線はメモにくぎ付けだった。
「魔術師として、この儀式に使うものは興味があるんですよ」
じっと注視していると、聞いてもいないのに解説し始める。
「ああ、豚の血……この儀式には人の血が必要なんですね? それも相当量の」
「でも、大量の人間の血なんてどこから調達するんだ? 豚の血はそれの代用なのか?」
「ええ、察しがいいですね。馬鹿正直に人の血を集めて、道を踏み外した魔術師が何人いることか。さすがお姉さま、普通はこんなこと思いつきませんよ」
エレアノールはまるで自分のことのように満足げに笑う。
「童話効果、ですよ」
「童話効果?」
聞いたこともない言葉に、思わずおうむ返しに返す。
「精霊と契約するセレニア式魔術にのみ用いられる技法です。簡単に言うと、魔法陣や詠唱文句を童話に置き換えることによって省略できるんですよ。―――例えば、女の子が毒を飲んで死んでしまった場合」
人差し指を出して、まるで教師のように話し出す。
「蘇生させる方法は魔術しかないとします。そしてその魔術はとても難解、ああ、なんとか省略したい――そんなときに使います」
極めて限定的な事例だな、とクロードは思った。まず第一に、死んでしまったのは蘇生できないんじゃなかったか、とも。
「七人の子供に棺を作らせます。そのあとたまたま通りかかった王子様に口づけをしてもらいます。魔術師は童話効果で代用する旨の魔法陣を書いておくだけ」
子供のころ、よく聞いた物語の状況だ。確かそのあと、王子様の口づけによって眠らされた姫は生き返るのだ。
「そうです、そして精霊はそのまま童話の状況を再現します。つまり、王子様によって口づけされた『お姫様』を生き返らせることができます。まあこれは、特殊な事例ですが。魔術師がすることは童話効果で代用する旨の魔法陣を用意すること、再現したい結果のある童話の状況を作り上げること。別にこれは、物語の結末だけじゃなくても可能ですよ。ある種の設定とかの細かいものは、うまく魔法陣を組めば童話の状況を作ることなく再現可能です……面倒くさいからふつう考えないんですけどね、ふふふふふふ」
一息で話した後、さすが私のお姉さま、と不気味な笑いを漏らす。そんな彼女にぶつかった小僧が怪訝な顔をしたのち、真っ青な顔をして走り去ってしまった。大方朝から悪魔に出会ってしまったと思ったのだろう。まあ、間違ってはいない。
「人間の血を豚の血で再現……ああ、狩人が姫の心臓の代わりに、と魔女に差し出した豚の心臓から来てるのか」
「そんなところでしょう」とエレアノールは答えたのだった。