断章 聖女聖誕祭
——雪が、降っていた。
一週間前から降り続いた雪は首都カンタヴェリーに雪化粧を施し、いよいよ聖女の聖誕祭も明日に控えた雪月初頭。
首都郊外の雪原で、逃げ惑う影があった。質素な旅装束の男で、一見すれば武装は腰に下げたナイフだけの簡素なもの。しかしその走り方は何か妙で、誰が見たって至る所に武器を隠し持っていることがわかる。
追いかけるのは六つの影。
そのうちの五つは黒地に銀の刺繍、ティターニア軍属を示す衣服を着た男女。統率された動きで男との距離を追い詰めて行く。
少し遅れて真っ白な影。
雪と同化しそうな白に独特の金の刺繍は、教会の式典に用いるドレスだと容易に分かる。同じ白のフード付きケープを被っている。
ティターニア軍が魔術を放って、男は転ぶ。その瞬間にあっという間に五人の軍人に囲まれてしまう。陣形を組んで男を逃がさないようにしつつ、遅れてきた白い影を迎える。
白いドレスの少女は、ケープを外した。流れ落ちる黒い髪。夜の闇を閉じ込めた静謐の瞳。黒髪黒目の、間違いなく神子リコリス・インカルナタ。
まっすぐに男を見据えるその瞳は、彼をひどく怯えさせた。
少女が震える唇を開いた、と同じ瞬間。
真っ白な雪に、彼の血による赤い花が描かれた。
クロード・ストラトスがハノンブルク派遣からティターニアに帰国したのは、丁度クリスマス・イヴだった。
クリスマス——聖女ティターニアの生誕祭。ティターニアの国民に限らず、一切の仕事をやめ祈る日だ。
もちろん、軍人はそんなことは言っていられないのだが。
ハノンブルク派遣の任務自体は大したこともなく、二週間に渡る滞在の最後の夜、交流を深めたハノンブルク軍人と酒を飲みかわしさえした。
国が違うとはいえ、向こうもティターニア信者。当然、クリスマスを祝う習慣がある。異国でのクリスマスというものも見てみたかったし、軍人達から残って見ていくといいと言われたがクロードは固辞した。
リコリス・インカルナタに会いたかったから——なんてことでは、ない、と思う。きっと。
だいたい彼女はこの期間は休みに入るはずで、ティターニアに戻ったところで軍部にいる時のように四六時中一緒にいられるわけではない。
ただ、なんとなく。
クリスマスの前祝い、といってワインではなくビールを。厳粛にではなく、豪快に花火を打ち上げるその「お祭り」をクリスマスと思えなかったからだろう。こういう経験をするたびに、やっぱり自分はティターニアの国民だなと思う。
「……さて」
辻馬車を乗り継いで、ようやく慣れ親しんだティターニアの首都、カンタヴェリーに着いた。もうすでに日も落ち、人も少ない。夜の寒さがコートの中の身を震わせる。
慣れ親しんだ煉瓦と霧の都は相変わらず、厳粛というか、陰鬱というか。真っ白に降り積もった雪がさらに閉塞感を増やす。灰色の雲が分厚く空を覆っていて月明かりも届かなかったが、街に設置された炎の魔術ランプのおかげで真っ暗という訳ではない。
いつもより寂しい気がするのは気のせいではなく、すでに店は閉まっているからだ。クリスマスはほとんどの店が閉まってしまい、一般市民達も家族団欒でささやかに祝う。貴族街の方ではすでに盛大なクリスマス・パーティが行われている時間だろう。クリスマスの一日はほとんどの時間を教会での祈りに費やすため、今のうちに楽しんでおこうという感じだ。
「……帰るか」
少し、取り残されたような寂しさ。
貴族街の外れにある自分の家に向かおうとするが、ふと気づいた。
家族はどこかの家のクリスマスパーティに呼ばれていたような気もする(自分はハノンブルク派遣が重なっていたため断った)。さすがに、あの無駄に広い家でたった一人でクリスマスを過ごすのはさみしすぎる。
「俺ってつくづく寂しい人間だよなぁ……」
結局、一歩も歩かないうちに行き先変更。
誰もいないのは分かっている。けれど、家よりは慣れ親しんだ軍部の方がまし。彼の『執務室』はないが、庶務作業用の机はある。最悪、アルバートでも捕まえれば一晩中しゃべり続けてくれるだろう。
ティターニアの宮殿に併設された、ティターニア軍本部に向かうことにした。
クロードの一応、『執務室』とされている部屋は彼にとっては戦場である。いや、書類仕事の過酷さを指した比喩ではなく、本当の戦場なのである。
……ただし、クロードは戦士という訳でなく、戦いの発端であり、戦利品扱いな訳だが。
大尉ともなると当然部下はつく訳で、部下は上司の側について雑務を行うのは当然。だがしかし、その部下三人ともが女性なのはどういうことか。
クロードはその『執務室』に足を踏み入れ、泣きそうな気分になった。出向前は確かにクロードの机と離れた位置にあった部下の机が、ぴっとりとくっつけられていたからだ。この分だと、自分がいない間にもそれはそれは凄絶な舌戦が繰り広げられたことだろう。
それだけでかなりの疲労を感じながら、クロードは自分の机に行き、そこで見慣れた文字の書き置きを見つけた。
「書類は私がやっておきます。後で私の部屋に取りにくるように」
署名すらない書き置き。しかし、その癖のある流麗な文字は、間違えようもなくリコリス・インカルナタのもので。
「たらい回し、かぁ……」
クロードはひとりごちて、踵を返して部屋を出た。
「——何で、まだここにいるんだよ」
「悪いかしら」
リコリス・インカルナタはランプの薄明かりの下、顔すら上げず不機嫌に答えた。
上等な机の上は書類だらけで、一見して見るといつも通りの光景。しかし、クロードは違いに気付いた。まるで間違い探しみたいだ、と嘆息する。
「夜は魔術研究の時間、じゃないのか。こんな時間に軍の雑務なんて珍しいな」
リコリスはカタン、とペンを置いた。
夜闇を閉じ込めた瞳がまっすぐにクロードを見据える。揺れる黒髪は、別の髪型に結っていた跡がついたのか、ふんわりと広がっている。桜色の唇はしっかりと引き締められ、強気な印象を与える。
久しぶりの幼馴染の変わらぬ表情に、クロードは妙な安堵を覚えた。
「今日はやる時間なんてなかったのよ。今日、何の日か知ってる?」
「クリスマス・イヴ——ああ、そういうことか」
書類をもらおうとリコリスの机に歩み寄りながら答える。明らかに避けてある、クロードの署名が必要な書類を取ろうとして、
「ちょっと待って」
リコリスはあろうことか、その腕をがっしり掴んだ。突然の彼女の行動に動揺はしたものの、それをうまく誤魔化して笑った。
「おい、何のつもりだ」
「聞いて。私の話を聞いてから取りなさい。何というか、とりあえず私の愚痴を聞いて」
三度も重ねて言うことか?——なんて、怖くて言えない。緩急つけることもなく一気に言った彼女に逆らうことも出来ずに、彼は小さく頷いた。
「今日はね、クリスマス・イヴよ。教会に呼ばれて聖書読ませられて歌わせられて祈らされて本当にもう大変だったのよ。しかも、カンタヴェリーの四つの教会、全部回って! 当然無給でね! しかもアルもアルよ、自分はクリスマスパーティー行った癖に、この、書類の、山よ!」
「お、おう……」
最後は区切り毎に積まれた書類をばんばん叩きながら言った。
「それで、……」
リコリスは荒い息を整える。
「それで、残ってこれ、片付けてたの。クロードの分は全部終わらせてあるわ。署名なしのものはもう提出してあるから、そこにあるのだけ署名をお願い」
何でもないことのように言う彼女に、いつものことながら驚いてしまう。
素っ気なく書類の束を突き出す黒髪の少女。素っ気ないのはいつものことながら、リコリスのその態度に違和感を覚える。
恐らく、礼拝の際に髪を結った癖がついたのだろう黒髪をリコリスらしくもなく放置していることから、相当に疲れているのだと伺えた。
本当は、こちらが労われる立場なのだが。今回ばかりは彼女の方が苦労したことだろう。
大尉とはいえ、クロードもそれなりの役職だ。当然書類もリコリスのような左官ほどではないが膨大になる。
過去にリコリスがこういった庶務を四日間放置したところ、部屋が埋まったことから考えると彼女の仕事量は尋常ではない。それにクロードの仕事も引き受けたという。
「……人間業じゃない」
「何か?」
「いやなんでも。——てこれ、期日まで余裕があるじゃないか。今日、無理してやることなかっただろ」
受け取った書類を見て言う。見ると、彼女が今書いている決算報告も期日は大分先のものだった。そういえば、リコリスのペンの進みはかなり遅い。例えるなら、そう。
「他にやることがないからやってる、みたいな」
リコリスはその一言でペンを投げ出した。端正な顔には、しっかりと眉間の皺が刻み込まれている。
「……なんで、分かるのかしら」
「何がだよ」
リコリスは書類を片付け始める。書き終わった書類はまとめて箱へ。資料は引き出しへ。これまた珍しいことに、その作業は数分とかからず終わってしまう。
「アルが戻ってくるまで、帰れない事態が起こったわ。人は使えないからアルを呼び戻せないけど、明日の朝では遅い。今夜、私が知らせないといけないから、残ってる」
真剣な瞳だ。さっきまでの言葉は遊び、あるいは現実逃避。
「聞いても、いいか」
「当然でしょう、駄目だったら最初から何も言わないわ。……聞いて、欲しい」
クロードは一瞬、聞くべきか迷った。リコリスがアルバートに緊急で報告しなくてはならなくて、人を使えない報告。内容は子供にだってわかる。神子についてのことだ。
けれどリコリスの濡れた瞳を見て、聞けないと言えるはずがなかった。
机上に出されたのは一枚の報告書だ。
「それか?」
頷いたリコリス。クロードはそれを手に取る。よくみればそれは、報告書の体すらなしていない、走り書きのようなものだった。
『亜麻色の髪に、翠色の瞳。人形のような端整な顔の造形をした女——』
「……お前、か?」
「違うわよ」
素っ気なく言われてしまう。
「——私の、母親よ、多分」
そんな言葉を、絞り出すように言った。
リコリス・インカルナタは捨て子だ、というのは意外に知られている。
生まれたばかりの黒髪の神子は教会の前に置き去りにされ、保護された。彼女の親が残したのは、彼女がその時きていた衣服と、おくるみに刺繍されていた彼女の名前——「リコリス」だけ。
彼女の両親が誰なのか、どういう理由で神子を捨てたのかは未だにわかっていない。教会で成長し、軍部に入ったリコリスも手を尽くしたが、ろくな情報はつかめていない。噂話程度のものがニ、三あるだけ。
「尤も、手掛かりがあったとしても教会が潰していたっておかしくはないけれど」
これは、リコリスの言葉。彼女を逃がさないため、あらゆる手を尽くした教会だ、何をやってもおかしくない、と彼女は続けていた。
それが、今日になって手掛かりが現れた。
雪月二の日。聖女ティターニア聖誕祭。対外的には神子と教会は友好関係にあるのだから、と礼拝に呼ばれ、それを終えた直後のこと。
護衛の部下たちと帰路につこうとしたところ、顔面蒼白な修道女がリコリスを呼び止めた。
懺悔室で、神子の母親を騙してしまった、と懺悔した信者がいる、と。
本当は懺悔の内容は他言無用。しかし今回ばかりはそうでないと修道女は判断したのだろう。
「そう聞いて私たちは懺悔室に向かった。けど彼は、そういう修道女の反応で神子に自分の存在が知られる、ということを知ったのね。私たちが着いたとき、懺悔室はもぬけの殻だった」と、足を組み直しながらリコリス。
「素人だもんなぁ、部屋の鍵を閉めなかった、とかなんで逃がした、とかは責められないけど手抜かりだったと言わざるを得ないな」
あえて的外れな回答を返す。リコリスの張り詰めていた表情を、ような少しだけ和らげることに成功する。
「追いかけて、雪原まで言ったけどその男、最期まで口を割らなかった」
報告書の最後に、「アーロン・ブラック死亡」と結ばれている。ブラックというのが、男の名前らしい。
「そいつ、最期は」
「殺したわ——なんて、言うと思った?」
リコリスは苦虫を噛んだような顔をする。
「真顔で言ったら、お前を見損なうところだった」
「あらそう、よかったわ。——自分の持っていたナイフで首を切って自殺よ。追い詰めたって目の前で死なれたら、たまらないわ。結局、死体の荷物を探ってたら人身売買の証書を見つけた。アーロン・ブラック、非合法な奴隷商人よ」
最後は吐き捨てるようだった。
「最悪な気分。クリスマスに、こんなことがあるなんて。ブラックは私の母親を騙したと言ったわ」
商人は信用を第一に考える生き物。それが騙した、という言葉を使うとすれば同じ商人相手か。
奴隷商人に限って言うならば、商品に対して使う言葉だ。
「ねえ、クロード」
リコリスは報告書を放り投げた。冷たい窓ガラスに指を這わせて、窓の外を眺める。夜の空は分厚い雲に覆われて寒々しい。振り返ったリコリスの表情もそんな曇り空みたいに弱々しい。
「教会は、いえ、協会が仮にそれを知っていたとして——どんな手段を……使ったのかしら」
答えられなかった。最悪の結末しか思い浮かばなかったからだ。
リコリスはそんなクロードを見て、泣きそうな笑顔をして視線を窓の向こうに戻した。
雪が、降っていた。
彼女は知らない。
雪が雨に変わる頃。春の雨の日に、戦いの幕が開けることを。
雨に打たれて、噛みしめる敗北の味を彼女はまだ知らない。
——雪月、二の日。物語を数ヶ月後に控えた聖女聖誕祭の夜の出来事だった。