Ⅸ 報われない監視者
―――起動術式は四つ。
―――身体強化術式、演算終了。第二血流に致命的損傷発見、要再構築。
―――《契約》は続行中、次回契約は三ヶ月後。
―――身体強化術式の再構築に必要とされる血液量……。
「ぅ……るさ、い……」
最初に口から出た言葉がそれだった。搾り出すように悪態をついて、リコリス・インカルナタは体を起こす。
木枠の窓から見える月の位置はすでに高く、彼女が意識を失ってから長い時間が経っていたことを物語っている。リコリスは未だに荒い息を整えようとしながら、ベッドに寄りかかった。
――第二血流、肩甲骨付近より分断、損壊。必要とされる処置…
「もういいわ」
思考の隅で読み上げられ続ける解析結果を、リコリスはピシャリと封じた。
倒れる前に動かしていた多重作業は、意識を失っても続行されていたようで安心もした。が、主人格であるリコリスの意識が失われてからは自重を知らず、各々好き勝手に作業を始めたらしい。
統率されていない思考は、術者の頭の中で囁き続ける。正直、うるさい。
ともあれ、これでほとんどの準備は整った。
問題は血液量で、この術式は大量の血液を必要とする。しかし自分の血とそこらの豚の血をうまく掛け合わせればできないこともない。当然、質はかなり落ちるし、施術後の体の負担も大きいだろう。が、今回の術式はセドナの確保まで持てばいい。設備が整った軍本部に戻ってから改めて治すこともできるのだ。
そもそもセドナの確保という任務自体、サマランカとの本格開戦までという期限付きだ。どちらにせよ、時間がないことは変わりが無い。
「まったく、どれだけ追い詰められているのか……」
言いつつ、リコリスは小さく笑った。
「あなたはどれだけリコリスを追い詰めているのか、分かってます?」
「何の話だ?」
問われた瞬間、彼の表情に確かな怒りが走ったのをエレアノールは見逃さなかった。すぐに表情を打ち消し、片目を瞑る。リコリスからそれがクロードの感情を隠すときの癖だと聞いたことを彼女は思い出す。
唐突に問うエレアノールにクロードはオウム返しに答える。クロードの視線はシドニアの街のどんな異変も見逃さない、とでも言うように休みなく動き回っている。夜の活気溢れる商業の街はたくさんの人間がいて、その中には強かそうな商人や傭兵たちの姿も少なくはない。かといって、それがこの状況を打開する手がかりになるとも思えないのだが。
それよりもエレアノールにとっては、リコリスの方が心配だった。
夕暮れの中。リコリスが無理をしようとも止めない、と答えた彼のことが分からないのだ。こんな男に彼女を――魔術師としては姉であり、妹のような少女を任せていいのか。
「お前って本当に面白いな。普段お姉様お姉様って言っているのに、今では分かったような口を聞く」
「それは受け攻めの話で――ではなくて。あなたこそ、優しいのはリコリスの前だけですのね」
答えた彼の声音は苛立っているようにも聞こえた。足並が少しだけ、揃わなくなる。先に行こうとした彼を追いかけて、早足で横に並ぶ。
「どうしてですか。普通止めるでしょう? 魔術だっていくつも動かせば、体に負担が出てきます。ましてやお姉様は『代償』が――運動的な面に問題があります。そんな子に、無理をさせるだなんて……」
「お前は、一体どれだけ追い詰められているのかわからないのか?」
立ち止まって、クロードは言う。
「リコリスはもうひとりの神子、セドナに敗北した。セドナの罪はすべてリコリスに着せられ、この無実を証明しない限りティターニア国内にあいつの居場所なんてない。極めつけはこの敗北のせいでサマランカが教会との連名で、ティターニアに宣戦布告したことだ。お前は、そんな中でリコリスが無理せず立ち止まれるとでも? 無理だろうな、アイツは自分の責と思わずにはいられない。俺達が止めれば、今度は俺達に黙って無茶をする。――むかつくんだ、そういうの」
反論を挟む余地すら与えず、クロードが一息で言う。
表情はあくまで無表情。しかし、そのポーカーフェイスにもはや意味はなくなっている。
彼の怒り―――自分だって、リコリスを止められたらどんなにいいか。けれどそれをしたら彼女はますます救われない、自分を責め続け、命すら捨ててまでもこの失敗の始末をする。それだけの力がある。
だから、ぎりぎりのラインをもって無茶をさせる。彼にはそれ以上の境界を超えないよう見守ることしかできない。そんな自分に対する怒りだ。
報われない監視者、執行権のない報告者。そんな言葉が、エレアノールの脳裏をよぎる。
「……悪いな、言い過ぎた」
きびすを返して詫びる彼に、エレアノールは小走りで追いつく。
「いいえ、私も軽率でした」
と、社交辞令的に返してみるもののわだかまりは残ってしまう。
傍観することしか出来ない、彼の怒り。
恐らく、それは彼が教会にいた頃から自分に対して持っていた感情だ。
けどそれでも止めてあげなければならないこともあるではないか。
結局のところ、リコリスと彼が教会の頃どんな子供だったのかを彼女は知らない。彼女が知っているのは、すでに魔術の神子として名高く自信に満ち溢れたリコリス・インカルナタという上官の姿だけだ。
カタチだけの和解。横に歩くクロード・ストラトスとの間に、彼女は深すぎる溝を感じた。