Ⅶ 路地裏区
「オイ、聞いてるのかアンタ」
宿の部屋で、不機嫌にイリスが睨んだ。手に持っているのは買ってきたパン。宿の食堂で料理を頼んでもいいのだがかなり値が張るということと、イリスたちから報告があるということなので外で買ってきたものを部屋で食べている。
「聞いてるわよ」
クロードは相変わらずのポーカーフェイスだし、エレアノールは不機嫌だ。イリスまで不機嫌になられたら、他人の怒りには慣れているリコリスですら気まずさを感じてしまう。イリスの隣にいるクライブはそんなのお構いなし、とばかりにパンを口に頬張っている。
「いーや聞いてないね。あたしはそういうのは目でわかるんだ。あんたは今、私の話を聞いてなかった。そういう目をしてた!」
「ならその観察眼、磨き直してくることね。私はちゃんと聞いていました、お姉様?」
最後は『リリーちゃん設定』で返してやれば、予想外のことだったのかイリスはぐっと言葉を詰まらせた。
挑発的に返すが、厳密な意味ではイリスの観察眼は正しい。リコリスの目が虚ろだったのは多重作業を動かしていたからだ。
身体強化術式の為の準備だ。本来は数ヶ月掛けて被術者の身体を調べ、十分な環境を整えて行うものだが彼女は違う。一度その術式を刻み、神子である彼女にとってはその準備など造作もない。普段から検査していた体をさらに詳しく、前回の儀式の時との差異を明確に理解し、術式に組み込んで行く。精査用の術式等合わせて三つの上位術式を稼動させている。エレアノールが知ったら卒倒しそうな高度で(並みの術者にとっては)危険な行為だ。
「ふうん、じゃあ言ってみろ。一言一句違わず、完璧に私のセリフ再現してみれば認めてやるよ」
「あなたの口調ごと真似する気にはならないけど。まとめるのならば三点」
リコリスはパンをちぎっていた手を止め、指を三本立てる。クロードは無言で九つ目のパンに手を出していた。
「一つ。エレアが勝手に飛び出して行ったと聞いてアホか、という罵倒」
エレアノールが二つにまとめた髪をビクン、と跳ねさせた。
「二つ。私の出した報酬に対する苦情」
苦情じゃない苦言だ、とイリスが言い返す。
「三つ。パレナ商会前主人の居場所が、どういうわけかまったくつかめないということ」
ここまで言ったところだったわね、とリコリスが確認する。クロードが口にパンを頬張ったまま頷いた。チッ、とイリスが舌打ちしたところに、クライブが笑顔で頷いた。あまりにも良すぎるタイミングに苛立ったらしい彼女は更に表情を険しくする。
が、ここはイリスも傭兵だ。雇い主の嫌味にいちいち反応しては器が知れる。
「ああ。隠居してる爺さんと聞いてたからてっきり街の中でのうのうと暮らしてると思ったら、そんなことはなかった。住民記録にもない」
「つまりこの街にはいないってこと?」
「いや」
イリスがソーセージを頬張りながら言う。
「路地裏区。俗にそう呼ばれてるところなら可能性はあるかもしれない」
「どこの国にも、あるもんなんだな、そういうの」
パンを詰め込みながら、クロードがふごふごと言った。その様子をみたクライブが、もう我慢ならんとばかりに口火を切る。
「おいてめえ、それでいくつめだ」
「六つ目だ」
飄々を答え、さらにパンに手を伸ばすクロード。
「食い過ぎなんだよ! それ俺が食うって決めてたパンだし! 表出ろやぁ!」
ごくんと纏めて嚥下したクロードは無言で部屋を出る。クライブもその背中をギリギリと歯ぎしりしながら追いかけた。ちなみにこのパン、味付けが違うということはない。
「いいんですか、アレ」
「いい、ほっとけ。定期的にああいうこと言い出すんだアレは」
エレアノールの問いに面倒臭そうに答えて続ける。
「あのあたりは錬金術師とか、故郷を追放されたりした魔術師達の吹き溜まりだ。だから国もなかなか手を出したがらない。偽名を使っても調査なんぞされない」
事実、今日会ってきた知り合いも偽名で居住申請を出しているしなと苦笑する。
「パレナ商会はあれでも中々大きい商会だったわね。相当恨みを買っているはずの前商会主が偽名を」
ばたん。廊下からなんだかとても痛そうな音がする。
まるで鳩尾を殴られて壁に叩きつけられたような音だ。
シーン、と音がしそうなほど静まり返った部屋にクロードが入ってくる。表情は何故か、晴れやかだ。
イリスがはぁー、と溜息を吐いてドアを開ける。ドアの外には鳩尾をおさえたクライブが倒れていて、「クロードさんにあれは禁句だったん、すね……」と手を伸ばした。
イリスは無情にもドアを閉める。
「何があったの、クロード」
「気にするな、食事中の妖精だ」
「その表現、気持ち悪いわよ。続き、いきましょう」
遅れてイリスが席に着くのを待ってから話し出す。
「前商会主は、偽名を使って路地裏区で生活していてもおかしくはないということね?」
「そういうこと。ただ、あたしもクライブも活動拠点はティターニア。裏路地区の地理には詳しくない。今日の知り合いの伝手を辿って行くしかないが、最短でも四日はかかるな」
「なるほど、ところで今日、ちょっとした騒動のお陰で路地裏区の地図が出来てしまったのだけど、これは何かの助けになる?」
もったいぶった言い方に、イリスは眉根を寄せる。
「ちょっとした騒動……ああ、エレアノールか」
言う間に、リコリスは荷物から紙を取り出し、その上に手をかざす。
「記せ」
目を閉じて短く命じた瞬間、紙に金色の魔力によって線が描かれる。
曲がり角、交叉路が寸分のズレもなく複写されていく。数秒もたたない内に紙には街の地図が現れる。
「エレアノールに何か術式でも仕組んだのか」
「正解ね。で、これは役に立つの? 立たないの?」
「ああ、大助かりだ」
笑ってイリスは受け取る。
「優秀な魔術師のおかげで、幾分か楽に捜索できそうだ」
リコリスはその唐突な褒め言葉に、色を変えた目を瞬かせた。