Ⅳ 魔術触媒
小屋に入った途端、つん、と強い薬品の匂いが鼻につく。彼女は遠慮もせずに顔をしかめ、後ろに続いたクライブもそれに倣った。
前に来たときと変わらず、雑多な部屋だった。魔術の触媒ならば見境のなく集められた蒐集部屋は、やはりというべきか何の法則性もない。壁に極彩色のタペストリーが隙間なく張られ、その上からさらに契約文言のような紙がダーツの矢で留めてある。かと思えば隣の宝石がついたつり物がくるくると回転し、イリスのほうを指してぴたりと止まる。
まるでうっかり毛虫でも見つけてしまったかのような表情で部屋を見回す二人に、蒐集者が声をかける。
「ふん、人の部屋に入った最初の顔がそれなのかね」
女、と呼べるかどうかも怪しい声。その声は男のように低く、妙な執着を感じる。だというのに声質自体は滑らかで、毅然とした態度には気品すら感じる、おかしな声。
けれど声の主は女だった。店番のつもりか、やはり蒐集品だらけのカウンターにひじをついている。濃い紫色のローブをゆったりと着た、妙齢の女。全体的に世捨て人のような雰囲気が漂っているくせに、瞳だけは研ぎ澄まされた冷たさをはらんでいる。
「うるさい。嫌なら片付ければいい、とにかく目がチカチカするんだこの部屋。あと薬品の匂いも消してくれ。客人に敬意を払うんならね」
「お断りだね。人の部屋にずかずか入ってきやがったくせに、文句をつけるような無礼者に払う敬意なんて微塵も持ち合わせてないのだよ、わたしは。それにわたしはチカチカなんぞせん」
「そりゃ本人なら慣れるんでしょーねー……」
貴族のように尊大な口調で減らず口を叩く女に、無駄と知りつつクライブは口を挟む。案の定、彼に発言はなかったことにされたようで、女は「今日は何の用だね」と冷たく聞いた。
言われたイリスは神妙な面持ちになって、提げていた鞄の中を探る。
「ちょっと、触媒の鑑定を頼みたくてさ」
ドアを開けた途端、二人は予想もしなかった光景を見た。
宿の、割り当てられた部屋の中に少年が一人。光景そのものとしては、それだけの話だ。
ただ、部屋に置いた荷物の中身を探っているという点以外は。
目を合わせること数秒、少年は一瞬のうちに顔を真っ青にして、開いていた窓から飛び降りた。
「はい―――っ!?」
間抜けな声を上げたのは後ろに立っていたエレアノールで、ドアの前に立つリコリスを押しのけて窓の下を覗く。リコリスも気怠い身体を動かして窓から外を見れば、すでに通りの向こうに少年はいる。
手には何も持っていない。擦り切れたズボンとシャツだけの、貧相な身体つきを見れば、盗んだものを持っていないことくらいは容易に理解できる。だというのにエレアノールは「許せません!」と叫んで踵を返す。正確には、そのまま鼻息も荒く走り去った。リコリが止める間もなく、というか止めようとして掴んだ腕を苦もなく振り払って行ってしまった。
はあぁー、と溜息をついてリコリスはベッドに倒れ込む。癖で、エレアノールにムシをつけてしまったが、そこまで騒ぐことはないんじゃないだろうか。ここではリコリスたちは軍人ではなくただの亡命者一行に過ぎないし、下手に騒いでこの国の軍人と顔を合わすことも避けたかった。
少年が手を突っ込んでいた荷物袋の中には何の価値もない。金目のものもなければ、何か大事な情報の紙が隠されているわけでもない。旅に不慣れとはいえ、リコリスも高価な触媒や金、それにアルバートからの書状など、貴重品は常に持ち歩くという常識は守っている。それはもちろん、エレアノールやクロード、更に傭兵のイリスたちなどは言うに及ばずだ。
あの中には、せいぜい着替えくらいしか―――。
―――着替え、くらいしか?
リコリスはむくりと起き上がる。
「……………それって、大事件じゃない」
ようやく、エレアノールの怒りに共感した。
ことん、と水晶の短剣をカウンターの上に置いた。
リコリス・インカルナタと、傭兵契約のときに受け取った品物。ちゃんとした魔術師に見てもらえ、下手なところに出すと、その真価を見抜くことはできないとリコリスはイリスに忠告していた。
雑多な部屋の、雑多なものが置かれた机の中でも、それは鋭く、けれどどこまでも透明に輝く。その輝きを見た女はほう、と感嘆の息を漏らす。この女に魔術触媒の鑑定を頼んだことは多かったけれど、こんな反応をするのは初めてだった。大抵の品は鼻で笑って、欠点をあげつらいながら金額を言うだけだ。
やけに恭しく持ち上げた女はそれを部屋の照明にかざす。水晶は当然、その光を浴びて洗練された輝きを放つ。女の瞳が始めて感動に輝いた。カウンターに一旦置いて、その刃の表面を撫でる。
「これ、どこで手に入れた」
「言えない」
即答だった。女はそれでいくつか察したらしい。
「ふん、依頼人の守秘義務かい」
沈黙を肯定と受け取った女は満足げに微笑んだ。また刀身を確かめるように撫でる。白く、けれど滑らかにしとやかに彫られた文様を特に念入りに。
「表面には強化、軽量化……中心には増幅、中身はカラ。柄に彫った文言には代行、と来たか。これを作った魔術師はよほど酔狂な者に違いない。水晶なんて強情な意思に、これだけの命令を刻んだんだから」
依頼したイリスが驚くほど、丹念に女は鑑定した。丁寧に、刻まれた術式を理解し、その度に感心する女は、イリスにとって始めて魔術師のように見えた。しかも驚いたことに、出てきた感想は賛美の言葉だった。最後に女は、イリスが置いたようにことん、と短剣をカウンターに載せる。
「これはねイリス、お前が今まで手にした中でも最高の宝だ。この刀身自体に、術式が刻んである。ああ、お前に言っても分からないか。そこらに出回っている増幅器や魔力剣と変わらないと思っているね。
―――これはね、使い手がこの刀身に魔術を刻むことで完成するんだよ」
いまいちわからないという表情のイリスとクライブに、かまわず鑑定者は語った。
「魔力剣なんてのはね、ただ刀身の石の性質と単純な構造の改良で機能させる。石と、魔力を流し込む構造。それで、魔術師自身の第二血流―――魔術の流れに干渉する。
けどこれは違う。構造の改良なんていう小細工ではなく、正真正銘の魔術が刻まれている。石は術式の干渉を受け辛いという話ぐらいは知っているね。術式自体と、刀身に刻む位置を考慮して、最適なバランスで刻むことで、術式を正常に機能させている。それも強化、軽量化、増幅、代行の四つだ」
女はもはや、自分の思考に埋没してしまったかのように語る。
「代行というのがこの剣の肝だね。この剣は中身のカラに、術式を刻むことで剣自体が術式を代行して行うんだ」
「………は?」
そこまで説明されれば、さすがのイリスもその異常性に気づいた。
「ただこれは、初級、よくて中級の魔術しか動かないだろう。それに水晶は強情だから一度刻んだ術式は取り消しが出来ないし、発動のときの力に耐え切れるかどうかも怪しいな。けど、増幅と強化、それに水晶のおかげで威力は折り紙つきだ。――ああ、本当に良い触媒だ」
うっとりしたように言う。放っておけばそのまま頬ずりさえしそうな勢いだったので、イリスは手を出して返すように言った。意外にもすんなりと返してくれる。
「こんなものを作れる魔術師は、そう多くないと思うが――まあ、依頼者がどうとか野暮なことは聞かないことにしよう」
「はあ、それ、本当か? この家から出た途端に、表の職人連中が取り囲んでたりしないよな?」
「まさか。客人にそんな無粋な真似はしないよ」
さっきと言ってること違うじゃん、とクライブが横で呆然と呟いた。がまたしても彼の言葉は採用されない。疑い深く視線を逸らさないイリスに、魔術師は粘着質な笑みを浮かべた。
「まだ不安かね?」
「ああ。それと、こんな一発で術者が割れるようなものを渡した依頼人にイラついてる」
彼女にとってはこの程度自分の技術の粋を集めたものと名乗るに値しないのだろう、と女は言った。
「それと本当に口外しないから安心してほしい。このご時勢、不確定情報で近所を騒がせたくないんでね。この国は好戦的で自己顕示欲が強い連中ばかりだから、黙っていたということは本当に知らなかったか、のっぴきならない事情があったのだろう、と勝手に配慮してくれるんだ。――ほら、わたしがこの件に関して口外しても、デメリットはあってもメリットはひとつもない」
だが、と続ける。
「だが、これだけのものを託されたということはお前はかなりの重荷を背負うことになる。関わった以上、知らぬ存ぜぬと突き通すわけにはいかないんだ。覚悟はできているのだろうね?」
ああ、とイリス・クロイツァーは即答した。それでこそ傭兵だ、と蒐集家の女は微笑んだ。