Ⅰ 消えた回路
「リコリス、神子というのは完璧であるべきなのです」
ある日突然、先生はそう言った。
教会の片隅の、いつもの教室。ようやく魔術の才に目覚めたリコリスは、その頃はそこでよく魔術の練習をしていた。
けど、幼い彼女は思い出す。
この女性はいつも「完璧でなくてもよい」と言っていたのではなかったか。
黒い瞳を不安げに揺らし、蚊の鳴くような声でそっと問うと先生は無表情な笑顔を崩す。
この頃の臆病なリコリスにしては珍しく、追い討ちをかけるように問う。
先生、私の足りないところは「力」ですか、と。
泣きそうな笑顔で先生は頷く。
「けどリコリス、あなたには魔術がある。それを補う術がある」
身体強化の魔術をしましょう、と先生は平坦な声で言った。リコリスが諦観したように黒い瞳から涙を流す。
それがどんなに恐ろしく、難しい術かどうかも知っている。
それでも、彼女達は――やらなければ、ならなかったのだ。
「………ぃった……」
馬車特有のひどい揺れで目が覚めた。どうやらぶつけたらしい頭をさすりながら起き上がると、荒い毛布が肩から落ちる。
リコリスがいるのは幌馬車の荷物部分。行商人が荷物を運ぶときに用いるそれは、もちろん人が寝るようには出来ていないから、当然体の節々が痛かった。
「リコリス。起きて早々悪いが、髪の色を直してくれないか」
荷台の中、彼女の隣にいたクロードが厳しく言った。リコリスは髪を押さえてハッとしながら詠唱する。瞬きする間に幻術によって髪は蜂蜜色に、瞳は澄んだ翠色に変わる。
張り詰めた様子の彼は荷台から油断なく外を見ている。平和そのもの、といった感じの爽やかな晴れの天気だが、状況を考えれば油断は出来ない。
「申し訳ありません、お姉様。もうサマランカ領に入っていますから」
言うエレアノールも目立つピンク色の髪を幻術で誤魔化すことにしたらしい。明るい茶髪のツインテールが新鮮だった。
それよりも、リコリスは気になることがある。
御者台に座っているのが二人なのだ。
「あんたは一体何人女を引っ掛けたら気が済むんだ?」
「引っ掛けるってそんな。俺が本気なのは姐さんだけですよー、あとは全部ただの偶然です。神のいたずらです」
明るい金髪に女性らしい体系の片方はいうまでもなく傭兵、イリス・クロイツァー。
そして、問題の隣。男のほう。
どことなくフラフラしたような話し方をする、赤毛の男。
思い出したくない強烈な既視感を覚えて、リコリスは思わず眉間を押さえる。
隣にいるクロードはどうかと目線を向ければ、やっぱり気に食わなそうに男の後姿を見つめている。
そんな視線を感じたのか否か、金髪の女のほうが振り向く。
「起きたんだ、リコリス。一応紹介しておくんだけど」
イリスはリコリスの眉間の皺も意に介さず、隣の男の紹介を始める。
ああ、思い出した。リコリスは心の中で毒づく。
首都からアーガイルに向かう途中で遭遇した賊の一人で、その後アーガイルで女性達に囲まれていた男だった。
「あ、オレがクライブ。リコリスちゃんにはまたお世話になりまーす」
ふざけた調子でいう彼に、リコリスはまた眉間を押さえるのだった。
「ええ? 何、アンタ覚えてなかったの? あんなに酒場中暴れて?」
御者台で驚いたようにイリスが言った。
「あの時は酔ってたのよ……」
彼女の後ろで幌に寄り掛かりながら言うリコリス。身体強化が解けた反動で思うように動かない体が恨めしい。魔術だけはいつもと同じように使えるのは、やはり神子の才能という特性ゆえか。
あんた酒飲んでなかった気がするけど、とぼやく彼女にリコリスは続きを促す。
「アンタとわたしが会ったあの酒場で、まあ私はぼっろぼろにやられた訳だけど。そのとき倒れたあたしを運んでくれたのがアイツ」
二人同時に後ろを見る。不機嫌そうなクロードとエレアノールに対し、上機嫌にしゃべり続ける彼。壊滅的に空気が読めていないらしい。
「詳しいことはあたしも覚えてないが、仲間から聞いた話だとあんたともやりあったらしいよ?」
もちろん歯も立たなかったけど、と続けて正面を向くイリス。ふうん、と相槌を打ちながらリコリスはありもしない記憶を探す。
「まあ、それであたしは情報屋としてあいつを使ってるんだ。リコリスが追われてるときにすぐ駆けつけられたのもあいつに探させてたから」
「……それで、なんでその彼がここにいるの」
「それがね、アイツ、検問所の向こうでこの馬車を用意して待ってたんだ。あたし達の計画もあいつには全部ばれてたってこと」
ふうん、とさっきと同じ返答をしながらリコリスは考える。あの時、計画を話すときにそれなりに注意はしていた。それにも関わらず計画を知っていた――あの男、実はかなり使えるんじゃないか。
イリスはもちろんそんな彼女の胸中を分かるはずもなく、はあ、と溜息を吐く。傭兵の彼女にとって、依頼主の本意が分からないのは珍しいことではないが、この少女に関してはなぜだかそれが腹立たしい。
「そんなことより、暇なら御者代わってくれない?」
「私、馬の扱い下手よ?」
「いいから」
強引に押し付けられた手綱を仕方なしに握る。馬の扱いにはそれなりに力が要るので、身体強化を再び発動させることにする。一度体に刻んでしまった術だから、再発動には数秒とかからない。
「―――、あ」
はずだった。
手ごたえがない。いつもなら魔力が通る、と感じる部分に、何の感触もなかった。
(なん、で)
思った彼女はもう一度体中の回路を探索する。魔術を通す血流が二つ、あらかじめ刻んでおいた陣が二つ―――違う、ひとつ。
刻まれているはずの身体強化の回路だけが、ない。正確には焼き切れている。
握った手綱を見る。今の体では馬が少し興奮しただけでも掴むことすら出来なくなってしまうだろう。
リコリス・インカルナタは大きく溜息を吐く。
(「けどリコリス、あなたには魔術がある。それを補う、術がある」)
十年以上前の、師の言葉が胸の奥で反芻した。