番外編 欠点だらけの地図(前)
実のところ、リコリス・インカルナタは欠点の方が目立つ人間だ。
神子として魔術の才能は突出しているが、それ以外のことはまったく出来ない。 魔術という、いわゆる頭脳労働とは対極にある力だの体術などというのにはおよそ無縁なほどに非力だ。
眠っている間に拘束して無力化されてしまえば、あっという間に抵抗手段はなくなってしまうだろう。
そんなこんなで、幼馴染のクロード・ストラトスは遠征していた数日間、軍部に残った彼女が心配で仕方がなかった。 三日間の僻地での任務を終えてすぐに彼女の執務室を訪ねたのもそういう理由だ。
「………別の意味で心配になるな、これは」
クロードは部屋の状況を見て、思わず疲れがどっと出てくるのを感じた。
研究に没頭すると、必ずこうなるのだが、今回は特にひどい。
いつもはきちんと詰めてある本棚は半分以上が地面に下ろされ、本塚を形成していた。 残った本も、本来の並び順とはまったく違った配置にされている。 いつもは部屋の隅に整然と(というのも違和感を感じるが)積み上げられている本の塔も部屋の真ん中にどーんと置かれていたり、いくつかは倒れてしまっている。 本の僅かな隙間に入り込んだ計算や魔法陣が書かれた紙は、いつもの数倍になるのだろうか。
生活臭を感じないからマシだが、これはさすがにひどい。 典型的な研究中の魔術師の部屋だ。
部屋の主である黒髪の少女は、これまた書類と本で溢れている執務机に突っ伏して寝息を立てていて、寝返った拍子に、積まれた書類が雪崩となって落ちる。
ずさぁーっと落ちる書類をなんとも言えない脱力感で眺めたあと、ため息をつく。 とりあえずは手近なものを片付けようと、足元にあった本を手に取る。 表題は虫が這ったあとのような文字で書かれ、年代物らしくページの隅が破けている。 こんなものでも、彼の給料一月分になるというのだから驚きだ。
「確かこれはあっちの本棚にあったな……」
執務机の後ろの本棚にあったのを思い出してそこに向かう途中、寝ているリコリスの肩が突然ぴくっと動いた。
驚いて彼女の方を見るとリコリスはうーん、と呻いて寝返りを打つ。
黒い睫毛で縁取られた瞼の下にくまを見つけて思わず笑う。 大方、寝ずに研究していたのだろう。
そこで、奇妙なものを見つけた。
普段滅多に使わないサイドボードが、彼女の椅子の隣にちょこんと置いてある。 その周りだけは本や書き損じの紙の類はない。 その代わり真っ白な紙の上に、乾いた茶葉がぶちまけられていた。 逆さからひっくり返しただけではならない配置で、奇妙に盛り上がったりしている。 更に奇妙なのがその中に角砂糖が置いてあること。
こればっかりは訳がわからない。
ただ、リコリスは魔術研究に行き詰った時にこういう訳のわからない行動をする。
クロードが覚えているだけでもリコリスは過去に紅茶液で魔法陣を描き始めたり、おもむろに紅茶の中にフィナンシェを突っ込んだりしていたが、これはもう訳のわからない。 しかし、魔術師には変人が多いというし、この間配属されたピンクの髪の魔術師もなかなかの逸材っぽいし――と、無理に納得させて、本を本棚に入れる。
その瞬間、リコリス・インカルナタが起き上がった。 とろん、とした目でクロードの方を見、「おはよう」と呟く。 ほんのりと赤い頬と、寝起き特有の隙だらけの仕草には、まあ正直感じることがないといえば嘘になるが――ひとつ、言うのならば。
「……リコリス、今は夕方だ」
「まだ寝てたかったのに」
「別に寝てても良かったんだけどな」
机の上で頬杖をついてむすっとするリコリスに、本を片付けるクロードは冷たく言う。
「だってあなたが本を動かすから!」
足の踏み場もないほど荒らすお前が悪い、と言い返すとリコリスは不機嫌に冷め切った紅茶を飲み干す。
むすっとしているが彼女はすでに完全に目が覚めたようで、いつものキツメのリコリスに戻っている。 寝起き
だけ見られる警戒心皆無のリコリスはそれなりに面白いから好きなのだが、やっぱりこっちのほうがしっくり来る。
はあ、とさっきとは違った意味での溜め息を吐いた彼は手元の本を見る。 青い表紙に金色の表題。 今度は角張った文字のそれは、やはりクロードには読めない言語。
「リコリス、これどこにあったっけ?」
「えーっと、それは中期魔導文字の歴史書だから――って、え」
表紙を一瞥しただけで本の位置を言おうとした彼女はしかし言葉に詰まった。 やってしまった、みたいな表情に変わったあと、慌てて机の上の紙を見て、次いでサイドボードの方を見た。
「あああっ!」
彼女らしくもなく、黒髪を跳び跳ねさせて見たあとに、小さな肩がしゅんとおちる。
「あああ……」
呻いたあとに振り返ってクロードを睨みつける。
「俺、なんか悪いことした……?」
たじろいで言うクロードに、リコリスは視線を外す。
「原因といえばそうなんだけど……うーん、でも、気付きようのない事だし……」
(気付きようのない……?)
などとひと通り呟いてから、クロードにまた視線を合わせる。
「うん、よし、決めたわ。 ――これからしばらく、部屋に入らないでね?」
にこり。
これ以上ないくらい晴れやかな笑顔で、そう言い切ったリコリス。
クロードははあ、とため息をつく。
この曇りのない笑顔を見れば、この言葉に他意がない事ぐらいはわかる。
(でもさあ、リコリス)
ニコニコと追い出しにかかったリコリスに背中を押されながらひとりごちた。
(その言い方は、ちょっとひどいんじゃないか)
そんなある意味致命的な点もリコリス・インカルナタの欠点なのだが。