Ⅹ 取り戻す、そのために
「さっき、例の黒髪――セドナは前商会主の紹介で奴隷取引に噛んできたって話をしたね」
イリスが腕を組んで言う。 豊満な胸が更に寄せられるのを見てしまったクロードが思わず目をそらす。 それに気付いたリコリスが彼を思いっきりど突いた。
「で、それが?」
問うリコリスにもはや不機嫌な色はない。 表情はすでに、作戦を聞く軍人のもの。 頭の中ではすでに様々な考えを巡らせている。
それに気付いたイリスが、にやりと笑いながら返す。
「前商会主の周りを色々と探ってみたら色々と理由が見えてきたんだけど、何だと思う?」
パレナ商会の前商会主がセドナに入れ込む理由。
リコリスはパレナ商会検挙の際に見た報告書の記憶から、それらしきものを拾い上げる。 現商会主のルロイ・ライオネルならいざ知らず、前商会主となると記憶は薄れてしまう。
はあ、とリコリスは大げさに溜め息を吐いた。
「まず、それは《黒髪》、いえセドナね。 セドナが黒幕と前提していいのかしら」
「もちろん」
もう一度息を吐いて、答える。
今回はため息ではなく、自分に気合いを入れるためだ。
「私が考えているのはふたつ」
指を二本立てる。
「ひとつ、前商会主は金に目がなかったと聞くわ。 セドナが金を積んだ」
そういって、つまらなさそうに続ける。
「まあ、ひとつめはあまりないと思うけど。 次に」
一旦言葉を切って、皆の顔を見渡した。
数日前、パレナ商会突入前日。
リコリス、クロード、エレアの三人で最後の打ち合わせをした時のことが思い出される。
あの時、執務室で勝利の予感に胸を躍らせていた自分が遙か昔の事のように感じる。
きっと、あの時のリコリスに今の状況を説明しても恐らく笑い飛ばすだろう。
それだけのことが起きた。 最強の神子が正体不明の黒髪に破れ、その上隣国から濡れ衣を着せられ、今まさに戦争が起ころうとしている。
教会がサマランカについたことだって異常だ。
そして今から言う仮説はその中でも最も異常なものだ。
しかしそれが真実だとすれば全ての辻褄が合う。 合ってしまう。
リコリスはすう、と息を吸った。
「ふたつ目の可能性は、セドナが教会の手の者で、今回の騒動はすべて私を陥れるためのものだった。 要するに今回、教会が前商会主を脅したのね?」
一気に、言った。
そしてそれに、イリスは笑って。
「正解」
その瞬間、凍っていた動きが決壊するようにクロードが息を荒げて言う。
「お前……っ、そんなの何のために!」
誰に詰め寄るでもなく叫ぶ。
神子であるリコリスを追いつめて、何の得があるのか。
それ以前に彼は、感情的な面で安易には受け入れられない。
「リコリスを《理想の神子》にしたのはあいつらだろ! それなのに――」
「教会は」
その彼を遮ってリコリスは続けた。
「教会は、神子がどのような人間だろうともはや関係ない。 ただ、邪魔になった。 私が還俗したことで駒にできなくなったから、潰しに来るのはわかっていたことでしょう」
言うリコリスも、まさかこんな形で来るとは想像していなかった。 まるで、神子として自分を戒めているリコリスを責め苛むような方法を取るとは思ってもみなかった。
静かに言うリコリスの表情は、いつもの堅さのほかに、少し寂しさがあった。
そんなリコリスを見てクロードは椅子に戻る。 悔しいのは、彼よりもリコリスだと判断したからだ。
「あとは予想が付くわ。 ――教会からパレナ商会の前商会主に揺さぶりをかけ、その交渉材料にセドナを使った」
前商会主は敬虔な信者だったと聞く。 教会の人間だけが「リコリスを裏切れ」と言ったところで、何も起こらなかっただろう。 神子の力とはそれほどのものだ。
しかしそこに神子である黒髪黒目の人間を連れて、適当な嘘をついてリコリスに敵対心を持たせることは、できる。
「そしてその後は――説明は、いらないね」
イリスが頷いて言った。
パレナ商会は黒髪を新たに迎えて、奴隷取引を行う。 黒髪はパレナ商会が奴隷の買い付けに言った先で騒動を起こし、今回の騒動のきっかけを作る。
恐らく黒髪が奴隷取引などという危ない橋を渡ったのは、敢えて特定されやすくし、リコリスをおびき寄せて殺すため。
死人に口なし。
あの日、リコリスを殺してしまえばサマランカ皇帝暗殺の容疑も全く否定できなくなっていた。 もっと悪ければ、奴隷取引の黒幕という罪も着せられていたかもしれない。
そうなれば、ティターニアの面目は丸潰れ。 リコリス・インカルナタは汚名を着せられたままこの世を去り、逆に教会は黒髪――セドナを祭り上げて保身する。
「……でも、ひとつ分かりませんわ」
エレアが小さな、しかし狭く静まり返った部屋に響く声で呟いた。
リコリス、ティターニアを陥れるためにはそれが完璧だったはずだ。
「なら、どうして――」
お姉様を殺さなかったんですの。
後半の言葉は、口にすることができなかったらしいエレアを見て、リコリスは安心させるように微笑んだ。 それはまったくエレアらしい、人間として正しい気遣いだった。 リコリスはそれが出来たかどうかは、正直怪しい。
魔力の節約のため今は黒に戻している髪をいじりながら、リコリスはクロードに視線を移す。
クロードもだいぶ落ち着いたようで、こちらの視線を真っ直ぐに受け止めて言う。
「目的はわからなくても、俺達にとって敵ということには変わりない。 敵の情報は出来る限り把握しておきたい。 イリス、その前商会主の居場所ってわかるか?」
「ああ、それはもうばっちり」
どこから取り出したのか、地図をひらひらさせて答える。
「ただ、奴めサマランカの国境沿いに住んでるから行くのもそこで動くのも大変だ」
深刻に言うイリスに意外にも力強く頷いたリコリスは、立ち上がってエレア、クロードに目配せした。
何かの準備をしに行くのか、二階への階段に向かうリコリスの背中に、椅子に座ったままのイリスは挑戦的に問う。
「で、ちゃんとついて来られるのか。 お嬢様?」
リコリスは黒髪を翻して、振り返る。 髪と同じ漆黒の瞳は、笑みすら浮かべて。 けれどイリスと同じくらい挑戦的に見つめ返す。 人形のような端正な面持ちは、たぎる戦意で人間的な躍動に満ちる。
そんな表情を崩さず、リコリスは。
「ええ。 ――全部、取り返すわ」
彼女自身の地位も、信頼も。
民の平和と、危険に晒される友人の安全も。
そして何より、あの雨の日に失った「答え」を―――。
「お上からこっぴどく怒られたんだってな、セドナ」
セドナと呼ばれた人間はぴたりと足を止めた。
どことも知れぬ暗い路地裏。 あの日の尻拭いのために向かう目的地は、この先にある。
国境の街アーガイルの暗黒街。
そこへ向かう真っ暗な道を歩く黒髪の人間。 しかしセドナはあの神子のように暗闇と同化しない。 黒というには少しだけ明るい黒髪だからだ。
後ろに続く金髪の、八重歯が目立つ少年は、セドナの返答を待って、返事が来ないので勝手にしゃべり続けることにした。
「なんで殺さなかったのさ、もー虫の息だったじゃん。 あの神子、ありゃ惨めだったなあ?」
肩を一瞬震わせただけで答えないセドナをつまらなそうに見て、溜め息を吐く。 平然とまた歩き出すセドナに苛立ちすら感じる。
つまらないので、まだ続けることにした。
「……ああ、もしかして」
これはくるだろう、と思った彼は口角を釣り上げて言う。
「情が、湧いちゃった?」
―――シャリン!
剣が鞘を走る音がして、続いてほとんど同時に風を切る音。 目で追いきれないほどの速さで抜かれた剣は、まだ十分に状況が理解できない彼の目と鼻の先にある。
「リコリス・インカルナタを討ち取るのは僕の悲願で、生きる理由だ。 背後から不意打ちで殺したって、何も面白いことなんてないね」
剣を抜いて向き合うセドナは、髪に合わせてか、全身黒の旅装束。 黒髪は肩の上で切りそろえられた髪。 長めの前髪から見えるのはやはり黒の右目だけで、左目は眼帯で見えない。
右目から放たれる執念にも似た殺気を気にする風でもなく、彼は両腕を上げて降参の意を示していた。
ふん、と鼻息も荒く前を向くセドナ。
「……まあ、尻拭いはちゃんとするさ」
「当然だろ。 もうすぐ着くぞ」
前に向き直ったセドナは、頭上を覆い尽くさんばかりの高さの建物を無感動に見回す。
「うわ、たっけー。 ほんとにこんなとこに隠れてるのか? この状況下とはいえ、あの神子がだぞ?」
隣のぼやきを聞いたのか聞いていなかったのか、セドナは小さく、それでいて狂気すら感じる低い声で答えた。
「ああ、今度こそリコリス・インカルナタは――潰す」
「ああーっ! またねーちゃん負けたーっ!」
負けず嫌いのリコリス・インカルナタに火をつけてしまった子供たちは口々に文句を言う。 それでもどこか表情は明るくて。
きっと、自分たちと全力で戦ってくれる大人がいることが嬉しいんだろう。
「ねーちゃん俺、疲れた」
「諦めろよ、ねーちゃん」
それでもこう連続でやられると飽きてくるらしい。
「お願いもう一回! 一回くらい勝たせて、ね? でも手加減は抜きで」
子供相手に、ただゲームに勝ちたいという理由だけで全力でぶつかって行くのもどうかと思うが。
「それじゃあ、ねーちゃん勝てないよ」
「大丈夫、次は大丈夫!」
それでもこうやって、全力で進む彼女を見ているのが、クロード・ストラトスは好きだった。