Ⅵ きっとそれは、破局の序章
「返信。
芽月二十の日、サマランカから宣戦布告、箝口令発令。 長くはもたない。 布告内容は『神子による皇帝暗殺未遂の報復』。 教会もサマランカ側に着いた。
こちらは事実無根と考えるが、布告内容により国民の不安を煽ることは必至。 既に不信感による一般士官の暴走も起こっている。 よって我々は神子に対する直接的援助は行わないものとする。
芽月二十二の日、防衛戦の準備を開始。
疑いを、晴らせ」
リコリス・インカルナタはまだ夜も明けない闇の中、指先に灯した魔術による炎を頼りに手紙を読み終えた。 焦っていたのか、地の言葉と公式文書用の言葉がごちゃまぜになっている。
密書に用いる通例的な隠蔽方法、あぶり出しで書かれた文字は流麗な筆記体。 サインがなくても独特な癖でわかる、これは紛れもなく第二王子アルバートによる直筆の手紙だった。
若干焦っているようでありながら簡潔な文は、昨日エレアノール・スコットに聞いた内容とまったく同じ。 厄介なことになった、という気苦労半分、裏切られたような悲しみ半分の溜め息をもらす。
もう一度手紙を見ると最後の方に書かれた日付は昨日の物。
「ずいぶん早かったのね、お疲れ様」
と、リコリスは寄りかかっていた塀に止まっている伝書鳩に声をかける。 当然鳩が何かを返すわけでもなく、目をパチクリさせただけだった。
このイリスの住まいがあるのは、暗黒街の一角だが明け方ともなるとさすがに街は静かだ。 戸口から階段が伸び、二階までの階段をがある。 リコリスがいる階段の踊場から白みかけた空の下、遠くに小さくアーガイル駐屯基地が見えた。 数日前はあそこの窓から、ここを眺めていたのに、と息を吐いて手紙をしまう。
「疑いを晴らせ」。 それも支援は一切なしで。
要するに単独、もっと言えば隠密行動しろということだ。 たったひとり、クロードを連れて行くとしても二人だけでティターニアから
脱出しサマランカ皇室を納得させなければならない。 恐らくこの暗殺未遂はもう一人の黒髪の仕業、とすると彼あるいは彼女を捕らえるのが一番の得策だろう。 今回の宣戦布告に教会が絡んでいるのが若干不安ではあるが。
教会の象徴ともいえる、神子リコリス・インカルナタへの敵対行為。 こういうのもなんだが、暗殺未遂程度の汚点で、容易く教会が神子、ひいてはティターニアの敵になるとは思えない。
(何が何でもそういう疑惑は叩き潰すはずだわ)
それほどまでに、教会は神子という力を頼りにしているのだ。 神子本人に還俗されようが、嫌われようが、表面上だけでも何気ない風を装うはず。 歴代神子にそうしてきたように。
育ての親ともいえる教会に裏切られた傷を無理やり広げるようにして考える。
(あいつらは大義とかで動くような連中じゃない。 何かあるはずよ)
しかしかねてから持っていた疑いは無限に広がる。 信頼と不信の矛盾に満ちた自分の感情を無視して考える。 その彼女に、
「お姉様」
控えめに声をかけられた。
顔をあげると、戸口の前にピンク色の髪の少女が立っている。
どうしたの、と声をかけるとエレアは一段、階段を上がって答えた。
「私、ずっと考えていたんですが、やはりわかりませんの」
冷たい風が背後から吹き付けて、一時的に術を解いたリコリスの黒髪をさらう。 磨かれた黒の視線はまさに夜のように冷たく、エレアを刺した。
対するエレアはその視線を受け止め、ひとつひとつ言葉を噛みしめるように話しながら、階段を上る。
「つまり、神子の弱点とは、ひとつの才能が秀でた分だけ、ほかの能力が極端に落ちる。 お姉様に、運動能力がないように。 だからお姉様は魔力を身体中に張り巡らせて、筋力や体力を無理矢理に上げている――そういうことでしたわね?」
リコリスは無言で頷いた。
遂にリコリスと同じ踊場までたどり着いた彼女は、柵によりかかって続けた。 戸口の方を向いたままのリコリスより、町の方を見るエレアの方が、少しだけ背が高い。
「辻褄が合いませんの」
なにが、とはリコリスは言わなかった。 この期に及んで、エレアには隠していたことがある。
「どうしてあの時、話して下さいませんでしたの」
「正直、あんまり言いたい話じゃなかったし、雰囲気に呑まれてくれないかなーと思ってたわ」
風が吹いて、黒髪とピンク髪が同時に揺れた。
「そういう誤魔化し方、クロード大尉にそっくりですわ」
顔を見なくても、渋い顔を作っていることがわかる。
「その神子の能力が《境界を超え》ないための措置だとしたら、お姉様がそんな裏技を使えるわけがありません。 境界は絶対です、越えたからにはそれ相応の対価があったはず。 その対価を出してもいいと言うほど、お姉様は何にも追いつめられていたんですか」
エレアが考えていたのはここだ。
通常の魔術でさえ、精霊との契約の元魔力を持ってかれる。 境界を越えるほどの魔術の対価など、想像もつかない。 成功するか否か、それよりもエレアにとって、その対価の方が恐ろしい。 では何故、リコリス・インカルナタはその危険を承知してまで力を求めたのか。
リコリスはほんの少し黙り込んで、答える。 風が二度吹いた。
やがて、口調だけは軽く、しかしその横顔は今にも壊れてしまいそうな、誤魔化しの笑顔を浮かべて、言った。
「教会にいた頃、私って本当に平凡な子供だったわ」
――赤ん坊だったリコリスは、その髪の背負った運命故に親に捨てられ、教会が保護した。
それが幼い頃のリコリスが知っていた自分の生い立ちだった。 身元引受人として名のある貴族、例えばインカルナタ家が手を挙げていたが、リコリス本人はそんなことをまったく知らなかった。
綺麗に整えられた黒髪に、人形のような端正な面持ちの彼女は神子として人々に崇拝された。
ただし、それは表面上のことだ。
「私はね、最初から才能があったわけじゃなかったの」
体力がないという対価だけは顕在化していたものの、肝心の才能の方はさっぱりだった。 勉強や魔術をやらせてみても、人並みにはできるが才能と呼べるほどではない。 教会長を始めとした、内情を知るものたちはリコリスに決して優しくはしなかった。
煌びやかな教会の、灰色の部分を幼いながらもリコリスは見ていた。
それでも彼女の先生は優しかった。 頑張っても頑張っても駄目で、いつも抜け出して泣いていた礼拝堂の隅で、二人の男の子に出会って、それが初めての友達だった。
灰色の中の、色の付いた記憶。 才能が開花しないままだったが、リコリスは少し幸せだった。
そしてリコリスは、あの声を聞いて――。
魔術の才を目覚めさせた。 それはきっと、破局への序章。
リコリスは言おうとした言葉を飲み込んで、吐き捨てるようにいう。
「やっと魔術の才能が出てきて、その分、もともと低かった運動能力はさらに劣化した。 それに対して先生は、かなり上から追いつめられた」
壊れそうな表情はそのままに、リコリスはエレアの方に振り返った。
「あ、………!」
魔術師だからたてられる、仮定がエレアの頭の中に現れる。
恐らくリコリスはもともと別の才能があって、その分の対価は生来の運動能力の劣化という形ですでに支払われていた。 しかし、魔術の才能、つまり第二の才能が目覚めたが為に、リコリスは更に運動能力を削られる羽目になった。
リコリスの言葉に、隠しきれない怒りがにじむ。
「そう、当然先生もそう思っていたけどあくまで仮説。 教会はその証拠能力の低さにつけこんで先生を追い詰めた」
そして、《先生》は壊れた。
「先生は魔術の才能が目覚めたばかりの私に、体力強化のための術式を仕込ませた」
訳もわからず、幼い少女は今までにないくらいの怒声を上げる師に逆らう術もなく、術式を刻んだ。
そして、成功してしまった。
リコリスは手袋に包まれた腕を抱く。 目に見えるような印はないながらも、たしかにそれは残っている。 皮肉なことに、それは成長したリコリスにとって欠かすことのできない力となって。
それでも、この事件は彼女の心に深い傷を負わせた。
「まあ、この術式には助けてもらってるし、欠点と言えば昏睡状態になったときに術が一時的に切れること、切れた後、使いすぎた反動として筋肉痛になることかしら」
無理に明るく言って、大きく伸びをした。
夜はすでに空けかけて、空は群青から青、青から日の出の橙色と綺麗なグラデーションを描いている。
「待って下さい」
おやすみ、といって歩き出したその背に、エレアノールの詰問が投げかけられる。
「まだ、その時の対価について聞いていません」
さすが、だった。
「やっぱり雰囲気には流されてくれないのね」
「当たり前です。 何なんですか」
リコリスはエレアに顔だけで振り返って、言う。
「……さあ、ね?」
結局のところ、それは本当に本人にもわからないのだ。
もしかして、と思うのはひとつあるけれども、それも結局「ただの仮説」なのだから。