Ⅴ 神子の『秘密』
「お姉様の、神子の『秘密』――教えて、いただけませんか」
日も暮れかかった小屋の中に響く凛とした声。 刺すような視線。
イリスは「面倒に関わるのはごめん」とすでに部屋の外に出ている。
リコリス・インカルナタは気怠げに、しかし甘美に髪を梳く。 その髪色は当然、黒ではない。
「答えられる、範囲なら」
違和感しか覚えない、その光景をリコリス・インカルナタは目に焼き付けながら言った。
「神子の弱点は」
そう短く核心を突いたエレアに、リコリスは「長くなるわよ」と断って話し始めた。
――そもそも、神子とは。
そうティターニア民に聞いたなら、彼らは子供でさえそんなことも知らないの、と失笑しながら答えるだろう。
定義としては「あるひとつの分野において異常なまでの才能を持ち、黒髪黒目を有すること」。
「そんなこと、知っています」
そこまでリコリスが話すと、エレアは憮然として言う。 話を逸らされていると感じたらしい。
しかし答えるリコリスに遊びはない。 これはほかでもない「本筋」だ。
「恐らく、理由は神子が《境界を越え》ないように、要するに人間の範囲内でいられるようにって調整なんだろうけど」
とリコリスは前置きする。 エレアは更に眉をひそめた。
この次はエレアを含めたほとんどの国民が失念している。 リコリスは黒ではない瞳をエレアに向ける。 エレアはまっすぐに、少し怒ったように見つめ返す。
「神子の才能はひとつの分野にのみ発揮され、それ以外の能力は極端に落ちる」
見つめ返された瞳が、揺らぐ。
それは教会によってひた隠しにされてきた事実。
(――「神子は完璧でなくては」)
教会は絶対的な崇拝を得なければならなかった。 ならば、その教会の象徴たる神子は、完璧でなければ。
そんな教会にとって、神子のこの欠陥――つまり、得意分野以外は凡人以下という事実は非常に不都合だった。
それを隠すために、教会は百年ほど前から神子の保護を始めた。 この欠陥が誰かに知られる前に教会がそれを隠すために。
(――「神子は完璧でなくては」)
幼い頃に教会に保護されたリコリス・インカルナタに刷り込まれたこの言葉が、すべての答えだった。
ある時は凍えそうな大理石の上で、ある時は勉強部屋の中で。 繰り返し言われた言葉。 神子自身に、それを隠すように仕向けるために。
「……お姉様は」
なんなのか、とか、どうやってとか、やっと聞けるようなそんな震えるつぶやきの意味を正しく汲んで、リコリスは表情を変えずに答える。
「私は魔術師で、体力がない。 だから」
まさか、とエレアが視線を向ける。 体力を上げたいなら、魔術師なら誰もが思いつく簡単な方法。 しかし、それは技術的にはほとんど不可能で、第一、危険すぎるその方法。
「魔力で、強化したの」
身体中に魔力の血管を張り巡らせること。 肉体に魔力自体危険で、その魔力が血管ひとつ、神経ひとつにでもかすったら即座に死んでしまってもおかしくない。 昔、実践した魔術師が失敗し、全身を破裂させて死んだ、凄惨な事故として今も語られるそれを。
エレアノールは今度こそ絶句する。
そんな方法を、平然と口にした彼女は、それ以上の追求を許さず、微笑んで言ったからだ。
「さあ、そちらのことも教えてくれる?」
夕焼けの赤に染められたその整った顔は、しかしひどく歪に、笑った。
冷めかけた紅茶が執務机に若干乱暴に置かれた。
明るい木目調の机には白磁のティーカップがふたつ。 ひとつは彼、アルバート第二王子の分。
もうひとつは彼の兄にして、この国の実質の統治者、第一王子エドワードの分。
夜も遅く、静まり返った城の最深部第一王子執務室。 国王が病に伏せっている今は、その部屋の主がこの国の最高権力者だ。
その部屋の中で、国の二番目の権力者、第二王子アルバートが口火を切る。
「第七師団によると未だにサマランカ国民に布達なし。 が、向こうの城の方は相当ピリピリしてたらしく、城の中まで入り込めなかったらしい」
「軍備を整えている、と考えていいな」
傍らの書類を見ることさえせず、兄に報告したアルバートは一息着くように紅茶を口にする。
あの晩からアルバートはほとんど寝ていない。 リコリス・インカルナタの報告書にはサマランカ側に戦争の気配がなかったとある。
「あの神子に担がれたんじゃないか」
報告を受けた兄は、泰然と笑う。 彼だって、リコリスの失踪を知らないわけではない。 死亡の可能性すらある「失踪」者をその幼なじみの前で馬鹿にする。 しかしアルバートはその挑発に乗ることなく反論する。
「アホか。 俺だってリコリスの報告だけを鵜呑みにしてるわけじゃない」
手元の報告書の束にはリコリスのもの以外にも第七師団、通称情報局からの報告がある。 寝る間を惜しんで精査したのはアルバートだ。
「どれを見ても同じだ。 サマランカ側に戦意はなく、あるのは「黒髪」への疑惑のみ。 向こうも俺達と同じように調査を出し、和平交渉の準備もしていたらしい」
エドワードは弟と同じ赤銅色の瞳で、報告書を一瞥する。
「んで、その矢先の宣戦布告か」
弟と対照的に優雅に紅茶を啜るその仕草に苛立ちすら覚えるアルバート。
(リコリス・インカルナタに言わせれば「兄と比べて」)素直な自分としてはこういう会話は非常に面倒くさい。 余計な言葉遊びもごまかしも許さず、一言一句違わず暗記している布告文を読み上げる。
「我々サマランカは、神子リコリス・インカルナタによる皇帝暗殺が計られたことに強く遺憾の意を示し、またティターニアの名のもとに報復する」
ただし、その暗殺は失敗に終わったようで、使用人が逃げる黒髪を目撃したとある。
エドワードはカップから視線を上げて「で、やったと思うのか」と問う。 アルバートは肩をすくめて否定する。
「いくらあいつが魔術の天才だろうと単独で国境を越えられる体力かない。 大体、あいつにはサマランカの皇帝を殺す理由がない」
失踪者の話題だと感じさせないくらいに、さらりと答えた。
ただ、厄介なのは書状にある「皇帝暗殺の日」と言うのはパレナ商会を逮捕した日、要するにリコリスが失踪した日だったこと。
アルバートは幼なじみとして、というよりは現実的に考えて否定した。 が、それをサマランカが素直に納得するはずがない。
「それに、教会まで向こうにつくとはな」
ティターニアの名の下に、の一文は教会がサマランカに大義を与えたことを示す。 はあ、と溜め息を吐く。 まさに寝耳に水、の話なのだ。
(貴族の教会離れやリコリスの還俗の件があったものの、教会にはリコリスやティターニア王国を裏切る必要があるのか? サマランカも何でそんな)
前述したように、リコリス・インカルナタが皇帝を殺そうとしたようには思えず、手持ちの情報から考えるとただの狂言、ともうひとつの可能性がある。
皇帝暗殺未遂の犯人は、リコリスが追っていた、「黒髪」によるものだという線。
わからないことだらけでは対策の立てようがない。 今必要なのは確かな情報と、近いうちに動き出すサマランカ軍の対策。
「とりあえず、宣戦布告については一般人に対しての箝口令を敷いたが、そう長くは持たないだろうな」
アルバートの言葉にエドワードが続けた。
「だが、宣戦布告内容は国民に不安をもたらしかねん。 状況を精査する必要がある。 訳も分からないまま情報を開示して、内戦起こして終了なんて冗談じゃな――」
コンコン、と控えめな音。 そのノックはしかし、ドアの向こうからではなく、窓の方から聞こえる。
見覚えのない、一般に売られているような長距離用の伝書鳩が、そこにいた。
「――、ぁ」
アルバートは気の抜けたような声を出す。
何故ならその鳩の首に、リコリス・インカルナタとの密書用の鳩に使われていた、見慣れた黒いリボンが結ばれていたから。