Ⅰ ただひとりの、女の子を。
「じゃあ俺達でこの国を守ろうぜ!」
――それは他愛もない約束のはずだった。彼らが胸に抱き続けている、遠い記憶。
「名前はティターニアを守り隊、でいいな」
「うっわアル、センスねえ」
「アル、私もそれ……恥ずかしいかも」
礼拝堂の隅でいつも泣いてるあの子をなんとか笑わせてあげたくて。
馬鹿みたいな話をして、馬鹿みたいな悪戯をして。
「るっせえぞ、クロード隊員、リコリス隊員。ならお前等で考えろ」
「ティターニア隊」
「変わんねーよ。次、リコリス」
三秒で考えたようなことをいう侍従に王子は顔をしかめてそう吐き捨てる。いうと黒髪の少女はおずおずと顔を上げる。
「わたしがつけても、いいの?」
うん、と王子と侍従がうなづくと彼女は今にもかき消されてしまいそうな、儚い笑顔を浮かべる。今の彼らにはこれが精いっぱい。けれど確かに、それは小さな花のような笑顔で。
「じゃあ、ね」
少し考えるようにステンドグラスを見上げた黒い瞳が、それを映す。礼拝堂の意匠のひとつ。聖女の逸話を模った、壮麗なその絵を見る。
少女の瞳はある一点に留まる。それは聖女の持つ剣。契約の剣と呼ばれる、いまは失われた聖遺物の名を、こぼれるように呟いた。
「……カルタナ騎士団」
「次、腕」
「………事務的」
きびきびという幼なじみ、リコリス・インカルナタをみてクロードはため息をついた。その様子に、リコリスは眉を不機嫌に吊り上げる。数時間前までは生きているかどうかも疑わしいほど息も細く眠っていた少女とは思えない強引さで、リコリスはクロードの袖を捲り上げた。
……気付かれないようにしているのだろうが。息は上がっているし、身体の動きも傷に障らないように気を遣っている動き。顔をしかめているのも、ただ不機嫌というだけではないだろう。
リコリスは答えず、クロードの腕の包帯を丁寧にはがしていく。これは彼女が目覚める前にクロード自身が処置したもの。片手で処理したので止血にはまったく問題はないが、かなり適当に見えた。
「……ほんと、体大事にしてよね」
などと、呆れ半分にいう幼馴染。クロードこそそんな言葉を言いたいのだが、あとが怖いので黙っておく。
ほかに被害は、と問う上官でもある彼女にクロードは首を振る。クロードは腕をすこし打ち身になった程度で、あまり大きな怪我はない。重症なのは言うまでもなく、今治療を始めようとしているリコリスのほうだ。
リコリスは背中を大きく切られている。細い体を袈裟切りに。肩から脇腹まで到達しそうなほどの大きな傷だ。ほかにも全身切り傷、小さな打ち身が散見される。
クロードが彼女を見つけたときは、彼女は血だまりの中に沈んでいた。
溜まった水たまりを染め、足元に流れていく赤黒い血。それを見た時の感覚を、恐怖をクロードは数日たった今でも忘れられない。
おそらくは数分前まで意識はあったのだろう彼女は、到底生きているとは思えなかった。それほどまでに、その場は死の空気で満ち溢れていた。
普段から救命訓練をしていて本当に助かった、と今思う。そうでなければ、冷静に止血をし、治療をすることなんて到底できなかった。
何とか止血をし、血と砂利を拭い、消毒と包帯を巻き―――そうして彼女を横たえたとき、微かに上下する胸元をみてようやく安堵した。
処置中に、不思議に傷が修復されていったのは驚いたが。意識があるうちに彼女が治療魔術を使っていたのだろう、と思い至った。
目覚めたリコリスは驚いたようにクロードを顔を見つめたあと、冷静に状況報告を求めた。ここが見つけていた奴隷取引の場所である小屋だということ、あれから三日も経っていること。クロードはありのままを話し、リコリスも冷酷に自分の敗北を話した。
「あれから、三日も……」
とりわけ、そのことから三日も経っているということには、強く苛立ちを覚えたようだった。
そして、何故かクロードを治療を始めたのだった。
ベッドの上に座り、上半身には包帯、背中の傷に障るからと言う理由で前を閉めずに軍服を羽織っただけの状態。開きっぱなしの服から、包帯を巻いただけの白い肌がよく見えた。軍服からちらちら覗く白い肌がやたら目に入る。
「リコリス、頼むから前閉めてくれ。集中できない」
「集中するのは私でしょう」
傷を凝視するリコリスの目はすでに魔術師の眼になっている。何の感情も介さない、無機質な瞳。思考は完全にここにあらず。
こうなった彼女は何を言っても聞いてくれそうにない。ので、クロードも傷を努めて凝視することにした。
リコリス曰く、治癒術は他人にかけるほうが難しいのだという。
魔術師は自分の体ならほぼ完全に把握しているが、他人のことはそうでない。その上、自分の体を調べる時のように「内から」調べるのではなく「外から」調べるのだから、確実さも幾分落ちるのだという。
リコリスはその緊張感を十分に持って、彼の体を精査している。
空っぽの視線が、肉が避けた生々しい傷だけに注がれる。
「……少し、傷口に触る。痛いだろうけど、我慢して」
口調には、一切の温かみすら感じない。リコリスの細い指が、赤い肉が露出した傷口を撫でるように触る。
「――っ」
声にならない苦悶の声。呻いたクロードにリコリスはごめんなさい、と謝りながら詠唱を続ける。
「――読影、完了――施術開始――」
つぶやいて、もう一度リコリスの指が傷口をなぞる。彼女の指が通り過ぎたそばから新しい皮膚が再生してそれを完全に治した。
ふう、と言う安堵の吐息。ようやく人間らしい表情が戻ったリコリスは、さらに顔色が悪くなっている。そんな彼女は自分の様子に気づいていないようだ。
「ごめんなさい、痛かった?」
「いや、別に」
涼しい顔を作った彼にリコリスは柔らかく微笑んだ。クロードは彼女のほうが心配になって、聞く。
「リコリス、背中は」
「別に、もう治ったわ」
即答だった。
「……いや、それ嘘だろ」
ふざけたように言う、クロードのそれは注意だった。
細い指で残ったクロードの包帯を丁寧に巻きなおしながら、リコリスはまた少し笑う。
「やせ我慢をしているのはあなたもでしょう。本当は体中痛いくせに」
「お前だって、ここ一週間は寝てなかっただろ。傷もそうだけど、それ以外に――」
――心の、整理とか。
言うと、リコリスの笑顔が凍り付いた。
「そう、ね」
言うと瞳の光が失われる。この少女は、表情をなくすと本当に人形になったかのように感じられる。それは悲しくて、同時に恐ろしかった。
幼いころ、蝋人形は本当に恐怖の対象だった。姉が持っていたビスクドールすら夜中に動き出しそうで怖かったし、物心つく前の自分はそれを見ては大泣きしていたという。
だから、教会で初めて会った頃のこの少女は本当に怖かった。
人間の姿かたちをしているのに、中身は何も入っていないようで。絹の黒髪も、黒い瞳もすべてが作り物のように見えて。
いや実際、あの頃の彼女には何も入ってはいなかった。親からの無償の愛も、たわいない遊びの楽しさも、成長する自分への喜びもなにもない。人形と変わらないがらんどう。
中身を入れたのは自分たちか、それとも少女自身なのか、今となってはわからない。けれど、傍で見ていたクロードは断言できる。
少女の中に詰まっていたモノは「完璧な神子」という自分。
そうでなければこんな重荷に耐えきれるわけがない。彼女は重荷を背負っていたわけではない。その重荷こそが、リコリス・インカルナタという自己を形成する中身だった。
だとしたら、あの黒髪の神子に負けた―――「完璧な神子」という虚像を壊されたリコリスは、また人形になってしまう。
向き合わせないように、会話に出さないようにだってできた筈のクロードは、不思議と後悔はなかった。
「……どうして、そんなことを」
思い出させるの、と震える声でいうリコリス。夜闇を閉じ込めたような、大きな瞳を見て安堵する。
「神子は、負けてはいけないと。誰にも屈してはいけないと」
その瞳から、大きな涙が一筋。
すがるように、祈るように、呪文のように言う。
「そう思って、来たのに。完璧であれと、完璧でなきゃいけない私なのに」
人間である以上、完璧だなんてことはありえない。聖女だって、教典の中で間違えることはあったというのに。
ああ、とクロードはその顔を見て合点する。
教会から彼女を還俗させるとき。同じような感情を抱いたことがあった。その頃はまだ、明確に言葉にはできなかったけれど今ならわかる。
人間であるのに、人間賛歌をうたう神の子でありながら、そんな簡単な事実を受け入れることも叶わなかった少女。どうしようもない矛盾を抱えながら、そのすべてを呑み込む神子。
―――ティターニア以来の、最高傑作と謳われたリコリス・インカルナタ。
彼女は神子なんかじゃなく、ただひとりの人間なのだと。
なんでもないことで笑って、なんでもないことに呆れて怒って、悲しい時には涙を流す。
「………あ、れ……おかしいな、なんで……私」
頬を伝う温かいものをすくって、それを不思議そうに眺める。それをみて壊れそうに笑う少女。その華奢な体を引き寄せる。
「……まだ子供なんだから。泣きたいなら強がらずに泣いてろ。人間、その方が精神衛生上にいい」
そんな、ほかの誰でもない、たった一人の女の子を守るために。その小さな手を取ったことを思い出した。
【2016年10月9日】改稿しました。
全体的に心情描写を加え、また視点をクロードに統一。あと副題も変更。クロードの掘り下げができたかと思います。
ご新規様はもちろん、以前お読みになった方もご一読いただければ……!