露と消ゆる城
慶長十一年十一月十九日。徳川方は二十万の大兵で天下の名城・大阪城を包囲した。かつては政権を支える一員であった徳川氏がなぜ豊臣家を攻めていたのか。これには深い理由があった。その発端は天正十八年の出来事であった。
「徳川殿!関八州をそなたに授けようと思う!異論はあるまいな?」
そう提案するのは天下人・豊臣秀吉である。それは提案の形をしていたものの、実際は不可避の命令であった。東海を治めるだけの徳川家には従う他なかった。
「ありがたき幸せ!必ずや殿下の期待に答えてみせましょうぞ!」
そうは言うものの、徳川家康は内心激しく怒っていた。苦心して経営してきた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を没収されることが条件であるからだ。しかし、この時は屈服する他なかった。更には関八州の本拠の江戸城でさえボロボロであった。こうして徳川家の関東統治が始まる。しかし家臣からの反発にも根強いものがあり、統治は難航した。二年後に発生した文禄の役でも、領内が完全に統治できていなかったために出兵を拒否していた。この散々な領地経営が軌道に乗ったのは移封から五年近くがたった文禄四年のことであった。慶長三年には移封を強制した豊臣秀吉はこの世を去り、豊臣政権の基盤は大きく揺らいだ。その時点で既に徳川家は最大の大名家にまでなっていた。
また徳川家康が秀吉の遺言を複数破ったために、豊臣家は対立が露わとなった。徳川家康を筆頭とする勢力と石田三成を筆頭とする勢力である。この二大勢力が激突したのが関ヶ原の戦いである。この戦いで徳川家康率いる東軍は勝利し、石田三成らは斬首された。関ヶ原の戦いの後には家康は江戸に幕府を開き、豊臣家からは完全に自立した。その後、徳川家康が鐘の銘文に難癖をつけたことで大阪冬の陣が始まる。
「なぜなのじゃ!なぜ江戸の古狸が主筋の我らに歯向かってきておるのじゃ!」
「お袋様。落ち着いてくだされ。徳川家はずっと開戦のきっかけを窺っていたのです。」
「重ね重ね不快な!浪人どもに伝えよ!必ず家康の首を取れと!」
「しかし母上。この戦いの主力は彼らたちです。秀頼はあくまでただの総大将です。そのようなことを言えば悪影響かと。彼らが奮戦することを願いましょう。勝敗は天のみぞ知るものです。」
「よう分かった。」
しかし、浪人諸将の奮闘も虚しく大阪型は和議を結んだ。徳川方の大筒に淀殿が驚いたためである。大阪方は淀殿の安心のために外堀を捨てたのである。多くの浪人諸将は徳川方が再度攻めてくることを懸念したものの、淀殿は押し切って和議を結ばせたのである。悲しいかな。案の定徳川方は攻めてきた。堀を埋められた大阪方に籠城という選択肢はなかった。やむを得ず野戦に引きずり出されたのである。
「母君様!何卒秀頼様を城外に出陣させる許可を!秀頼様が出れば勝てまする!」
「ダメじゃ。秀頼が傷つけばその時点で我らの負けじゃ。秀頼は絶対に出さぬ。」
真田幸村による決死の突撃も耐え凌がれ、大阪方はもはや負けであった。淀殿や豊臣秀頼は自害。ここに秀吉が一代で築き上げた豊臣家は露と消えた。




