第7話 逆転
> この前、駅前で見かけました。
> もし今も活動してるなら、一回ちゃんと話しませんか。
私はその文面を、朝の通勤電車で何度も見返した。
ちゃんと話す。
何を、とは書いていない。
でも、たぶん掲示板のことだろうと思った。
正直、気は進まなかった。
わざわざ会って、何か言われるのも面倒だった。
ただ、画面を閉じても、その文が残った。
説明される側みたいで嫌だった。
でも、少しだけ気になった。
私は昼休みに返事をした。
> お久しぶりです。
> 大丈夫です。
> 今週でしたら、金曜の夜が空いています。
既読はすぐについた。
> ありがとうございます。
> では、前に会った駅の近くで。
それだけだった。
金曜。
待ち合わせ場所に行くと、相手はもう来ていた。
名前は、悠人さんだった。
前に一度だけ会っている。
その時は、特に悪くなかった。
ただ、会話の解像度が少し足りない気がして、私は保留にした。
今見ると、前より少し落ち着いて見えた。
服装はシンプルだった。
時計も鞄も普通。
でも、変に無理していない感じがした。
「こんばんは」
「こんばんは」
「来てくれてありがとうございます」
「いえ」
会釈の角度が自然だった。
店に入る。
前ほど、私は周りを見なかった。
年齢。
腕時計。
靴。
そういうものが、目に入らなかったわけではない。
ただ、前みたいには並ばなかった。
「何飲みます?」
「じゃあ、アイスコーヒーで」
「同じにします」
注文して、席につく。
一瞬だけ沈黙があった。
私はそれを埋めようとして、いつものように質問を探した。
仕事。
年収。
親との距離感。
そこまで頭に出て、やめた。
先に口を開いたのは、悠人さんだった。
「急に呼び出したみたいになって、すみません」
「いえ」
「たぶん、気分よくないですよね」
「まあ、少しは」
「そうですよね」
彼はそこで、苦笑いした。
前に会ったときも、この人はこういう笑い方をしていた気がする。
強く来ない。
でも、逃げてもいない。
「掲示板、見ました?」
「見ました」
「……そうですよね」
「見た方が早いって言われたので」
「たしかに、その通りです」
私はストローの袋を折った。
「正直、ああいうことする必要あるかなとは思いました」
「そうですね」
「嫌ならその場で言えばいいのに、とも思いました」
「それもわかります」
「でも」
「でも?」
「そんなに、私ってしんどかったですか」
言ってから、少しだけ変だと思った。
“そんなに”という聞き方は、もう答えを半分わかっている人の聞き方だ。
悠人さんは、すぐには答えなかった。
「しんどい、という言い方が合うかはわからないです」
「じゃあ、何ですか」
「落ち着かない、ですかね」
「落ち着かない」
「ずっと、正しく答えないといけない感じがしたので」
「でも、実際大事なことじゃないですか」
「そうですね」
「年収も、仕事も、結婚観も」
「大事だと思います」
「じゃあ」
「ただ」
「ただ?」
「順番の問題じゃないですか」
私はそこで黙った。
順番。
その言葉は、どこかで聞いた気がした。
たぶん真帆も似たことを言っていた。
「杏奈さんって」
「はい」
「人をちゃんと見ようとしてるんだと思います」
「……はい」
「でも、見方がずっと審査なんですよ」
「審査」
「たとえば、前に会った時も」
「はい」
「僕、たぶん杏奈さんのこと、ほとんど何も知らないまま帰ったんです」
「そんなこと」
「ありますよ」
悠人さんは、責めるような言い方をしなかった。
だから逆に、少しだけ刺さった。
「杏奈さんの好きなものとか」
「……」
「苦手なこととか」
「……」
「何で笑うのかとか」
「それは、別に」
「聞かれませんでしたし」
「そっちも聞かなかったじゃないですか」
「聞ける空気じゃなかったです」
「……」
私はコーヒーを一口飲んだ。
反論しようと思えばできた。
初回は確認を優先しただけだ、とか。
効率の問題だ、とか。
後からでも聞ける、とか。
でも、そのどれも少し違う気がした。
「掲示板のこと」
「はい」
「悠人さんも、書きました?」
「書きました」
「……そうですか」
「ただ、一番ひどいことは書いてないです」
「ひどいことって」
「ひどく書こうと思えば、たぶんもっと書けたので」
「それ、フォローになってます?」
「なってないですね」
私は少しだけ笑った。
悠人さんも笑った。
その笑いは、不思議と疲れなかった。
「でも、何で今さら会おうと思ったんですか?」
「駅前で見かけたからです」
「それだけですか」
「あと」
「あと?」
「杏奈さん、たぶん理由がわからないまま止まってるなと思ったので」
「止まってる」
「はい」
私はそこで、少しだけ嫌な感じがした。
止まっている。
説明される側。
やっぱり、そういう位置に置かれている気がした。
でも、今はそれを否定しづらかった。
「……わかりました」
「はい」
「……今の私は、どう見えますか」
「今ですか」
「はい」
「前より静かです」
「静か」
「質問を我慢してる感じがします」
「我慢って」
「すみません」
「いえ」
図星だった。
私は今日、かなり気をつけていた。
仕事の話に流れそうになっても止めた。
家族の話も出さなかった。
趣味を聞いても、評価に繋げないようにしていた。
でも、それが“自然”ではなく“我慢”に見えていたなら、あまり意味がない。
「杏奈さんって」
「はい」
「真面目なんだと思います」
「そうですか」
「ただ、相手も人なんですよね」
「……」
「そこを飛ばして条件だけ合わせようとすると、たぶん誰と会っても似た感じになると思います」
「誰と会っても」
「はい」
私はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
前なら、少し大げさだと思ったかもしれない。
でも今は、そこまで否定する気になれなかった。
会話は、思っていたより長く続いた。
仕事の話もした。
でも年収の話にはならなかった。
休日の話もした。
でも“生産性”には繋がらなかった。
悠人さんは、旅行先で道に迷った話をした。
私は珍しく、途中で質問を挟まなかった。
ただ聞いていた。
その話のどこがそんなに面白いのか、最初はよくわからなかった。
でも、悠人さんが少し笑って話すのを見ていたら、こちらも少しだけ笑った。
「あ、今の、前より自然でした」
「何がですか」
「笑い方」
「……評価ですか?」
「違います」
「今ちょっとそうでしたよ」
「すみません」
「まあ、でも」
「でも?」
「前よりマシです」
私は口元だけで笑った。
前よりマシ。
たぶん、褒め言葉ではない。
でも、嫌ではなかった。
店を出る頃には、夜風が少し冷たかった。
駅まで歩く。
前に会ったときより、距離感が近い気がした。
別に肩が触れるほどではない。
でも、無理のない幅だった。
私はそのまま別れるつもりだった。
でも、改札が見えたところで、足が止まった。
「悠人さん」
「はい」
「今日、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「正直、来るまでは気が進まなかったです」
「それはそうだと思います」
「でも」
「でも?」
「思っていたより、ちゃんと話せました」
「それはよかったです」
「はい」
「……」
「それで」
「はい」
私は少しだけ息を吸った。
たぶん、ここで言わないと、また前と同じになる気がした。
条件。
保留。
見送り。
そういう方に戻る気がした。
だから、少しだけ踏み込んだ。
「もしよければ」
「はい」
「また会いませんか」
言った瞬間、自分で少し驚いた。
“保留”でも“二回目で判断”でもなく、
ただ会いたいと思って言ったのは、たぶん初めてだった。
悠人さんは、すぐには答えなかった。
その数秒が、長かった。
私はそのあいだ、自分の表情がどうなっているのかわからなかった。
たぶん、かなりまっすぐ見ていたと思う。
悠人さんは、困ったように少し笑った。
「……嬉しいです」
「はい」
「でも」
「でも」
「会わない方がいいと思います」
「え」
聞き返した声が、自分でも少し薄かった。
悠人さんは視線を逸らさなかった。
「今日の杏奈さんは、前よりずっとよかったです」
「……」
「たぶん、ちゃんと変わろうとしてるんだと思います」
「なら」
「でも」
「……」
「僕は、一回目のしんどさを知ってるので」
「しんどさ」
「はい」
「それって」
「たぶん、消えないです」
「今日で少しは変わったかもしれないじゃないですか」
「そうかもしれません」
「じゃあ」
「でも、僕はもうそこを試したくないです」
私は何も言えなかった。
試したくない。
その言い方は、静かだった。
静かすぎて、言い返す余地がなかった。
「杏奈さんが悪い人だとは思ってないです」
「……はい」
「ただ、僕はもういいです」
「……」
「すみません」
改札の前で、人が何人も通り過ぎていく。
誰もこっちを見ない。
だから余計に、妙に静かだった。
私は何か言おうとして、やめた。
“わかりました”も違う気がした。
“そうですか”も軽すぎる気がした。
“もう一回だけ”は、もっと違った。
結局、口から出たのはそれだけだった。
「……そうですか」
悠人さんは小さくうなずいた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
それで終わった。
彼は先に改札を抜けた。
私はその背中を、少しだけ見ていた。
引き止めようとは思わなかった。
思わなかったというより、できなかった。
電車に乗ってから、私はスマホを開いた。
トーク画面はそのままだった。
最後のやり取りも、今日の待ち合わせも残っている。
私は一度、メッセージ欄を開いた。
> 今日はありがとうございました。
そこまで打って、消した。
違う気がした。
何が違うのかはわからない。
でも、いつもの丁寧な文を送ったら、たぶんもっと違う気がした。
結局、何も送らなかった。
画面を閉じて、窓に映る自分を見る。
いつも通りの顔だった。
少なくとも、泣いてはいなかった。
ただ、少しだけ思った。
今まで私は、断る時の文面を何種類か持っていた。
やんわり。
丁寧に。
もう会わないのが伝わるように。
断る文面はいくつか持っていた。
でも、断られる文面は一つも持っていなかった。
家に帰って、コートを脱ぐ。
バッグを置く。
水を飲む。
それだけの動作が、少し遅かった。
ベッドに座ってから、私はようやくスマホをもう一度開いた。
新着いいねは、ゼロ。
メッセージも、増えていない。
当然だった。
でも、今日はその静けさが少し違って見えた。
今までは、選ぶ前の空白だと思っていた。
条件に合う人を、まだ見つけていないだけだと。
でも今日は、そうは見えなかった。
何も届かない画面を見ながら、私は初めて少しだけ理解した。
断られる側というのは、
返事が来ないことではなくて、
もう来ない返事を、自分でわかってしまうことなのかもしれない。
その夜、私はアプリを閉じる前に、検索条件を開いた。
年収。
身長。
学歴。
転勤。
写真。
指はその画面の上で止まったままだった。
一つも消せなかった。
でも、前みたいにそれを正しいとも言い切れなかった。
その中途半端さが、少しだけ居心地悪かった。
そしてたぶん、今の私はそこにいるのだと思った。
読んでいただきありがとうございます。
初めて踏み込んで、初めて断られる。
ここまで来て、ようやく見えるものがありました。




