第5章 地獄の相部屋生活が始まりました
聖ロザリオ魔法学院の象徴とも言える、白磁の如き輝きを放つ「聖女の塔」。
その最上階にあるセラの自室は、学生寮という概念を遥かに超越した、不可侵の聖域であった。
アルス――現在は「エルフレデ王女」であり、セラの脳内では「男装の麗人」である少年――は、その部屋の天蓋付きベッドの端に腰掛け、絶望的な面持ちで周囲を見渡していた。
「……セラ様。改めて、確認させてください。私は『王女』であり、貴女は『聖女』です。身分ある女性同士とはいえ、学院の規則として、私に個室が与えられるはずでは?」
アルスは必死に、理性的なトーンを保って問いかけた。
しかし、クローゼットから「二人分」のナイトウェアを取り出しているセラは、鼻歌混じりに振り返る。
「アル様、何を仰っているのですか。不浄な男たちがうろつくこの学院で、貴女を一人にするなど、私の愛が許しません。それに、これは学園長直々の『監視名目』の許可を得ています。貴女には、王女としての立ち振る舞いに疑念がある……という建前で、私が二十四時間体制で『教育』を行うことになったのです」
セラが歩み寄り、アルスの隣に腰を下ろす。高価な香油のような、清涼な香りが鼻をくすぐった。
「監視、という名の独占。……ふふ、素敵だと思いませんか?」
セラの瞳は、一点の曇りもなく輝いている。
だが、アルスにとっては、それは執行猶予のない死刑宣告に等しかった。
この部屋には、逃げ場がない。そして今、最も恐れていた「夜」が訪れようとしていた。
第一の試練:魔導の着替え
「さて、アル様。夜も更けました。まずはその窮屈なドレスを脱いでしまいましょう。私が丁寧にお手伝いしますわ」
セラの白い指先が、アルスの背中の編み上げに伸びる。
アルスの背筋に、氷を突きつけられたような悪寒が走った。
「待っ、待ってください! 自分でやれます! 私は、その……人前で肌を見せるのが、極度に苦手でして!」
「あら、先ほど言ったではありませんか。私たちは『魂の秘密』を共有したパートナーです。それに……」
セラは少しだけ顔を赤らめ、アルスの耳元で囁いた。
「アル様が、その……お身体に巻いているであろう『晒し』や、過酷な修行で刻まれた傷跡。私は、それらすべてを尊敬の念を持って受け止めたいのです。女性でありながら騎士として生きる、貴女の覚悟の証を……」
(違う! 晒しじゃなくて、本物の大胸筋なんだ! 傷跡はあるけど、それは男として修行した証なんだ!)
アルスは心の中で叫んだ。だが、拒絶すればするほど、セラの「献身的な誤解」は深まっていく。
ここで強硬に拒めば、逆に怪しまれる。
アルスは咄嗟に、学院で教わったばかりの、そして唯一「幻影の首飾り」で再現可能な高度なハッタリを繰り出した。
「セラ様……実は、私のこの服には、王家秘伝の『自動着替え結界』が施されているのです。他人が触れると、強力な魔力反発が起きる仕組みで……」
「まあ、左様でしたか。流石はエリュシオン王家。……では、私が背を向けておりますので、その間に」
セラが素直に後ろを向く。アルスはその隙に、音を立てないよう、超高速でドレスを脱ぎ捨てた。
詰め物のパットを隠し、コルセットを外し、用意されていたシルクのパジャマを頭から被る。その間、わずか五秒。戦場での早着替えを彷彿とさせる神速の動きだった。
「お、お待たせしました……」
「……もう終わったのですか? 魔法の着替えとは、なんと素早い。やはりアル様は、一分一秒を惜しんで鍛錬に励む騎士の鑑ですね」
セラの感銘を受けたような溜息に、アルスは罪悪感で胸が痛みそうになった。
しかし、最大の難関は、着替えの後に待っていた。
第二の試練:聖女の「浄化」バスタイム
「では、次に身を清めましょう。私の部屋には専用の魔導浴場があります」
「……今、なんと?」
「お風呂ですよ。アル様。戦いの汚れ(キマイラの返り血など)を落とさなければ、安眠できませんわ」
アルスの顔面から血の気が引いた。
風呂。それは性別偽装における最終防衛ラインだ。
いくら「男装の麗人」だと思われていようと、全裸になれば、物理的な構造の差を一瞬で悟られる。
それは即ち、アルスの処刑。そしてアルベルト男爵家の滅亡。
「セ、セラ様! 私は今日は、その……魔法で身体を浄化するだけで十分です! お風呂はまたの機会に!」
「ダメです。魔導浄化だけでは、精神的な疲れは取れません。……もしかして、アル様。ご自分の筋肉質な体を私に見られるのが、恥ずかしいのですか?」
セラは慈愛に満ちた、しかし逃げ場を塞ぐような微笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私は、貴女のその『男らしく』鍛え上げられた姿も含めて、愛しているのですから。さあ、恥ずかしがらずに」
セラの指が、アルスのパジャマのボタンに掛かる。
アルスの脳内では、非常事態を告げる鐘が乱打されていた。
(考えろ。考えろアルス! 剣聖の息子としての知略を尽くせ!)
アルスは、浴場の入り口にある魔導式の設定パネルを視界の端に捉えた。
あれは湯加減や霧の量を調整するものだ。
「分かりました……。ですが、一つだけ条件が。私は、極度の『霧浴』が好きなのです。視界が真っ白になるほどに霧を焚かなければ、落ち着かなくて……」
「まあ、ストイックな方は五感を遮断するのを好むと言いますものね。お安い御用ですわ」
セラがパネルを操作し、浴場内は瞬時に視界数センチの濃霧に包まれた。
アルスはその隙に、タオルで巧みに「見えてはいけない部分」を隠しつつ、湯船の奥深く、お湯が最も濁っている場所へと飛び込んだ。
「……アル様? どこにいらっしゃいますか?」
濃霧の中からセラの声がする。
パシャリ、と湯船に誰かが入ってくる音が聞こえた。
「ひっ……!」
「そんなに怯えないでください。ふふ、霧で何も見えませんが……声のする方へ行きますね」
(来るな! 来るんじゃない!)
アルスは必死に、湯船の縁に沿って移動する。
しかし、セラは最強の魔法師だ。視覚が奪われても、魔力の気配で正確に位置を特定してくる。
「見つけましたわ」
ぬるりと、温かな手。
セラの手が、アルスの肩に触れた。
「…………っ!」
「……アル様、やはり貴女の肩、とてもがっしりしていますね。女性のそれとは思えないほど、広く、逞しい。……ああ、この肩で、どれほどの重責を背負ってこられたのでしょう」
セラの手が、アルスの鎖骨、そして胸元へと滑り落ちようとする。
アルスは心臓が口から飛び出しそうになるのを堪え、必死に「女っぽい(と自分が思う)声」を絞り出した。
「そ、それは……剣の重み、です。セラ様、あまり触られると……くすぐったい、ので……」
「……うふふ。騎士様が、そんな可愛らしい声を出すなんて。……分かりました。今日はこれくらいにしておきましょう。あまり刺激しすぎて、嫌われては困りますものね」
セラは名残惜しそうに手を離した。
アルスは、お湯の中で溶けて消えてしまいたいほどの安堵感と、あまりの綱渡り状態に魂が抜ける思いだった。
第三の試練:添い寝と誓い
風呂上がり。
アルスは、セラの「今日は同じベッドで寝ましょう」という提案を、命がけの土下座(令嬢風)で阻止することに成功した。
「騎士としての規律を乱したくない」という言い訳が、セラの心に響いたらしい。アルスは床に敷かれた予備の寝具で寝ることになったのだが。
「アル様、眠っていますか?」
深夜。
アルスのすぐ隣から、囁き声が聞こえた。
見れば、セラが自分のベッドを抜け出し、アルスの寝ている床にまで下りてきていた。
「……セラ様。規則正しい睡眠も、騎士の務めだと……」
「分かっています。でも、どうしても伝えたかったのです。……貴女がこの部屋に来てくれて、私は初めて、夜の静寂が怖くなくなりました」
セラの瞳が、月光を浴びて銀色に輝いている。
「皆、私を『聖女』として扱います。敬うか、恐れるか。でも、アル様。貴女だけは、私を『女』として……いえ、一人の人間として、対等に見てくれた。あの演習場で私を守ってくれた時、私、本当に嬉しかったんです」
セラは、アルスの手首に、そっと指を絡めた。
「貴女が『男装の麗人』として生きる苦しみ。私には想像もつきません。でも、この部屋にいる時だけは、貴女も私を『盾』にしてください。私が、貴女の秘密を守る結界になります」
アルスは、その言葉の重みに息を呑んだ。
自分は騙している。
彼女の純粋な憧れも、孤独への共感も、すべては「偽りの姿」に向けられたものだ。
だが――。
(……この人を、絶望させたくない)
それが、保身のためなのか、それとも一人の男としての誠実さなのか、アルス自身にも分からなかった。ただ、彼にできることは、この「地獄」のような同居生活を、一秒でも長く無事に続けることだけだった。
「……ありがとうございます、セラ様。私も、貴女を信じています」
その言葉に、セラは少女のように無邪気に微笑み、ようやく自分のベッドへと戻っていった。
翌朝。
アルスは、セラの「朝のお清め(顔を洗ってあげるサービス)」から逃れるために、夜明け前に起き出すことになる。
さらに、学院内に「王女と聖女が密会している」という噂が広まり、それを快く思わない「自称・王女の婚約者」を名乗るエリート男子生徒が、決闘を挑んでくるという新たなトラブルが迫っていたのだが――。
アルスが、女装したまま「男としてのプライド」をかけて剣を取るべきか悩むのは、その数時間後のことである。
つづく




