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異世界で無職を極めた俺は、役割を拒んだ選択の末に歌姫を救う  作者: 若木勇祐


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第4章「王国の外側へ」

黒葉夜乃は、何も言わずに歩き続けた。

恒一とゼロスライムもひたすら後をついていく。


路地を抜け、

石段を下り、

祈りの声が聞こえなくなる場所まで。


「ここ」


指差された先には、

簡素な食堂があった。


「……今?」


「今だから」


夜乃は立ち止まらずに言う。


「空腹は判断を鈍らせる。

 それに――」


一瞬だけ、視線を伏せる。


「“逃げてきた人間”に見せないため」


夜乃に導かれて辿り着いたのは、

王都下層の共用区画だった。


商人、下働き、巡回を終えた神殿騎士。

立場も役割もばらばらな人間が、

同じ長机を囲む場所。


ここでは、誰も名を問わない。

祈りも、裁定も、確認もない。


「管理の目が、いちばん薄い」


夜乃は、それだけ言った。


共用区画でも、

聖律の作法だけは残っている。


命令ではない。

守らなければ罰せられるものでもない。


――習慣として、

世界に染み込んでいるだけだ。


夜乃は、迷わなかった。


この場所を、

“知識として”ではなく、

“使ったことのある場所”の歩き方で店内に入っていく。



この長机には、

決まった顔ぶれがいない。


昨日いた人間が、

今日はいないこともある。


誰も、それを話題にしない。


(……ここは)

(戻れなくなった人間が、

 一度だけ“普通”に戻る場所なんだ)


木の机は、思っていたよりも低かった。

表面には細かな傷が走っていて、長く使われてきたことがわかる。


皿が置かれる。


焼いた肉。

黒パンに似たもの。

湯気の立つスープ。


色も、匂いも、

記憶のどこかに引っかかる。


(……普通だな)


異世界の料理だと聞かされなければ、

違和感を覚えなかったかもしれない。


(……サンタクルス、か)


誰がそう名付けたのかは知らない。

でも、

この世界が“交差点”だという意味なら、

皮肉としては、悪くない。


夜乃は、何も言わずに腰を下ろした。

恒一の向かい側。


ゼロスライムは、机の脚のそばで、

丸くなっている。


「食べていい?」


恒一が聞くと、

夜乃は小さく頷いた。


「どうぞ。冷めるわ」


その言葉に従って、

恒一は手を伸ばしかけて――止まる。


周囲の人間が、

一斉に動きを止めていた。


誰かが、自然に口を開く。


「――聖律に感謝を」


声は低く、短い。

歌うようでも、祈るようでもない。


続いて、別の声。


「与えられた糧に感謝を」


さらに。


「今日という循環に、感謝を」


三つの言葉。

それ以上、何も続かない。


誰も目を閉じない。

手を組まない。

天を仰ぎもしない。


ただ、言って、終わり。


(……いただきます、みたいなもんか)


そう思った瞬間、

自分がそう考えたこと自体に、

少しだけ引っかかりを覚えた。


夜乃は、恒一を見なかった。


当然の動作として、

肉にナイフを入れる。


「信仰、なんだよな?」


小さな声で聞く。


「聖律信仰」


夜乃は、皿から視線を外さずに答えた。


「正しい循環を尊ぶ、ってだけ」

「神を愛するとか、救われるとか、そういう話じゃない」


「ルール、みたいな?」


「近い」


夜乃は、一口食べてから言った。


「世界が壊れないための前提条件」

「守ってる、というより……従ってる」


恒一も、スープを口に運ぶ。


温度も、味も、

想像とほとんど変わらない。


(うまい)


それが、少しだけ怖かった。


「動物も、似てるし」

「食べ物も、違和感ないし」

「祈りまで、こんなに短い」


言葉にしてから、

恒一は、そこで止めた。


夜乃が続きを言わなかったからだ。


「……考えすぎ?」


「考えるのはいい」


夜乃は、淡々と返す。


「答えを急ぐのが、よくないわ」


その言い方は、

将棋部で聞いたのと同じだった。


盤面を前にして、

一手先を読む前の声。


「世界は、説明しやすい形をしてる」


夜乃は、そう言って、

パンを一口かじる。


「説明できる、ってことは」

「誰かが、そう整えた、ってこと」


恒一は、皿の上の肉を見る。


焼き加減も、

香草の使い方も、

どこかで知っている。


(……親切だな)


そう思って、

すぐに打ち消した。


親切、という言葉は、

誰がやったか分からない時に使うものだ。


「なあ」


恒一は、フォークを置いた。


「この世界、俺たちが来る前から」

「こうだったのか?」


夜乃は、少しだけ考えてから言う。


「少なくとも」

「来る人間が、困らない程度には」


それで十分だとでも言うように。


ーー食事をしていると、隣の席から男たちの会話が聞こえてきた。


「最近、神殿が慌ただしい理由?

 そりゃあ……

 一国だけじゃ、収まらなかったからだろ」


「……他にも?」


「ああ。

 海の向こうと、北の方で、だとよ」


「それより聞いたか?

 こっちだけじゃないらしいぞ、

 向こうの世界から来た連中」


「また勇者様の話か?」


「違う違う。

 西の方の国にも、似たようなのが現れたってさ」


「向こうの国じゃ、

 役割が決まらなかったやつを、

 そのまま兵にしたらしい」


「……そんな国も、あるのか」


「あるさ。

 世界は一つじゃない」


ゼロスライムが、

机の脚に身体を寄せた。


『……おいしい?』


「……ああ」


恒一は、そう答えてから、

もう一度だけ、心の中で思った。


(似すぎてる)


異世界にしては。

偶然にしては。


そして、

それを不思議だと思わなくなっている

自分自身が、一番不思議だった。



食事が半分ほど減った頃、

近くの席で、小さな物音がした。


黒パンが、床に落ちた。


乾いた音。


一瞬だけ、

空気が止まる。


落としたのは、少年だった。

まだ幼い。

慌てて拾おうとして、手を伸ばしかける。


「――触るな」


低い声。


誰かが、即座に制した。


少年の手が、止まる。


周囲の視線が集まる。

責めるでも、驚くでもない。


ただ、

「してはいけないことを見た」

という、静かな共有。


少年は、言われるままに手を引っ込めた。


聖職者ではない。

神殿騎士でもない。


ただの大人が、

淡々と続ける。


「床に落ちた糧は、循環から外れる」

「戻してはいけない」


それだけ。


理由も、罰も、語られない。


落ちたパンは、

誰かが布で包み、

机の下に置かれた箱へ入れられる。


箱には、

小さな刻印。


聖律の紋様。


(……捨てる、わけでもないのか)


恒一は、黙って見ていた。


夜乃は、何も言わない。


「禁忌?」


小声で聞くと、

夜乃は一拍置いてから、頷いた。


「正確には」

「“戻さない”っていう禁忌」


「食べ物を?」


「循環を、よ」


夜乃は、皿に残ったパンを見下ろす。


「一度、循環から外れたものを、

 “元に戻す”という発想自体が、禁忌」


恒一は、指先でパンを割った。


割れ目は、

もう元には戻らない。


「理由は?」


「知らない人の方が多い」


夜乃は、淡々と言った。


「でも、みんな守ってる」


「……破ったら?」


夜乃は、ほんの一瞬だけ、

恒一を見た。


「破る人は、まずいない」


それが答えだった。


ゼロスライムが、

床を見て、きゅっと縮む。


『……だめ?』


「……ああ」


恒一は、小さく答えた。


(落ちたら、戻れない)


食べ物も。

役割も。


さっきまで、

自分がいた場所も。


(……同じだな)


そう思って、

それ以上、考えるのをやめた。


この世界では、

禁忌は説明されない。


ただ、

「最初から知っている前提」で

そこにある。



次に足が触れたのは、

冷たい土だった。


夜風。

草の匂い。


空は、やけに広い。


「ここは……」


「王都の外れ」


夜乃が答える。


「ここも“管理の薄い場所”」


振り返ると、

神殿は見えない。


光も、音も、届かない。


恒一は、

胸の奥が、妙に軽いことに気づいた。


怖い。

不安だ。

何もわからない。


それでも。


「……自由だな」


ぽつりと呟く。


夜乃は、

その言葉を否定しなかった。


「そう」


「だから」


視線を前へ。


「ここからは、

 誰も守ってくれない」


夜乃は、振り返らなかった。


「ここから先は、あなたの領域よ」


恒一が、何か言いかける。


その前に。


「無職はね」


夜乃は、静かに言った。


「導かれた瞬間に、終わるの」


風が、草を揺らす。


「だから私は――ここまで」


「わかった」


恒一は、一歩踏み出した。


役割の外へ。

世界の地図の外へ。


ーー無職として。



走っていた。


理由は、はっきりしている。


追われているからだ。


息が切れ、喉が焼ける。

足元の石畳が、夜の闇に溶けていく。


背後からは、

まだ足音は聞こえない。


それでも、恒一は止まらなかった。


(……あの場に、戻れない)


神殿。

聖職者。

勇者と、役割を与えられた同級生たち。


あそこはもう、

自分の居場所じゃない。


ーー無職。


その二文字が、

背中を押していた。


路地を抜け、

崩れかけた外壁を越え、

人の気配が完全に消えた場所でーー


恒一は、ようやく足を止めた。


「……はぁ……っ」


呼吸を整えようとして、

そこで気づく。


静かすぎる。


風の音が、ない。

虫の声も、遠い。


まるで、

音そのものが、

ここだけ避けているような。


「……?」


足元を見る。


地面に、

不自然な円が刻まれていた。


削られた跡ではない。

後から描かれたものでもない。


最初から、

そこに“在った”ような線。


踏み込んだ瞬間ーー


景色が、沈んだ。


落下ではない。

引きずり込まれる感覚とも違う。


ただ、

世界の層を一枚、

踏み抜いたような。


「……っ」


声が、反響しない。


気づけば、

恒一は立っていた。


天井の低い、

岩肌むき出しの空間。


人工物ではない。

だが、

自然洞窟とも違う。


整いすぎている。


「ここは……」


振り返っても、

入口は見当たらない。


代わりに、

空間の中央に、

淡い光が灯っていた。


近づくと、

文字が浮かび上がる。


【ダンジョンを確認】


【対象:無職】


【アクセス権:承認】


「……は?」


誰に聞かせるでもない声。


無職。

それしか、

情報が書かれていない。


ロールも、

ランクも、

属性もない。


ただ一つ。


【初期レベル:0】


【目的:未設定】


「……目的、未設定?」


冗談みたいな表示だった。


その時。


足元が、

ぬるり、と動いた。


「……!」


反射的に、後ずさる。


床から、

半透明の粘体が、盛り上がる。


スライム。


だが、

見たことのある魔物とは違う。


敵意を示さない。

襲いかかってもこない。


ただ、

そこにいる。


【チュートリアル開始】


文字が、淡く明滅する。


恒一は、

ごくりと唾を飲み込んだ。


(……これは)


逃げ場じゃない。


避難所でもない。


ーー試験場だ。


しかも、

自分ひとりのための。


ゼロスライムが、

不安そうに形を揺らす。


恒一は、

ゆっくりと息を吐いた。


「……やるしかない、か」


役割を与えられなかった者に、

役割を押し付ける場所。


無職専用ダンジョン。


その第一歩が、

静かに、始まった。



スライムは、動かなかった。


正確には、

「待っている」ように見えた。


「……来ないのか?」


声に反応したわけでもない。

だが、次の瞬間ーー


ぬるり、と。


床を滑るように、

距離を詰めてくる。


速くはない。

逃げようと思えば、逃げられる。


それなのにーー


(……身体が、動かない)


足が、すくんだわけじゃない。

恐怖で固まったわけでもない。


ただ、

「ここで向き合え」

と、

空間そのものに言われている気がした。


スライムが、跳ねる。


避けきれない。


「っーー!」


腕で顔を庇った瞬間、

粘体が、ぶつかった。


冷たい。

重い。


だがーー


(……痛く、ない?)


衝撃はある。

体勢も崩れた。


それなのに、

骨が軋む感触がない。


床に転がり、

息を整えながら、

恒一は自分の腕を見る。


赤くなっている。

だが、

腫れてもいない。


血も、出ていない。


「……?」


違和感が、

じわじわと広がる。



スライムは、追撃してこなかった。


距離を保ち、

再び、そこに留まる。


まるでーー


(……様子を見てる?)


立ち上がる。


すると、

また一歩、距離を詰めてくる。


逃げると、追わない。

近づくと、動く。


(……調整、されてる)


試されている。


強さじゃない。

反射神経でもない。


「……選択、か」


どう動くか。

どう対処するか。


それだけを、

見られている。


もう一度、

スライムが跳ねた。


今度は、

少しだけ速い。


肩に、直撃。


「っ……!」


転びそうになるが、

踏みとどまる。


その瞬間。


じん、と、

熱が走った。


痛みが、

引いていく。


「……治ってる?」


回復魔法の光はない。

誰かが詠唱したわけでもない。


それなのに、

確実に、傷が戻っている。


(……死なせない、ってことか)


殺すためじゃない。

勝たせるためでもない。


ーー進ませるため。


その時。


足元で、

別の気配が動いた。


ゼロスライムだ。


不定形だった身体が、

わずかに、引き締まる。


伸びる。

固まる。


「……え?」


それは、

刃でもなく、

盾でもなくーー


ただ、

“持てる形”になった。


棒のような、

何か。


恒一は、

反射的に、それを掴む。


軽い。

だが、

頼りない感じはしない。


(……これ)


考える前に、

身体が動いた。


スライムが跳ぶ。


恒一は、

ゼロスライムを突き出す。


ぶに、と、

奇妙な感触。


だが、

押し返した。


スライムが、

弾かれる。


壁に当たり、

形を崩す。


「……倒した?」


違う。


消えていない。

ただ、

動かなくなっただけだ。


次の瞬間。


文字が浮かぶ。


【戦闘終了】


【評価:進行可】


進行。


倒せ、とは書いていない。


恒一は、

荒い息を吐きながら、

ゼロスライムを見る。


不定形に戻りながら、

どこか、

満足そうに揺れている。


「……お前」


名前も、

正体も、

役割もない存在。


無職の自分と、

どこか重なる。


「一緒に、進むしかないな」


ゼロスライムが、

小さく、跳ねた。


その奥でーー


次の通路が、

静かに、開いていた。


スライムを押し返した余韻は、まだ残っていた。

しかし、次の通路を進むと、空気が変わる。


湿った石壁。

微かに硫黄の匂い。

そして、奥から聞こえる、じわりと這うような音——


何かが、這っている。


恒一は、ゼロスライムを手元で小さく揺らした。

柔らかい塊が、彼の手の動きに反応して、形を変える。

棒状になったり、盾のように広がったり。


(……今回も、俺が操作しなくても勝手に判断してくれるのか)


そう思いながらも、胸の奥に小さな緊張が走る。

無職で、役割のない自分。

「この世界の常識」に属さない存在である自覚。


ーーそれは、恐怖よりも、妙な孤独感だった。


足元の石が軋む。

黒い影が、塊になって現れる。

蜘蛛のような形態。

だが、目はなく、牙も小さい。

攻撃する気配はあるが、致死性はなさそうだ。


(……前と同じだ)


敵は倒すために出てきたのではない。

試すために、進ませるために、存在している。


恒一は息を整え、ゼロスライムの形を変える。

盾状に広げ、相手の触手のようなものを受け止める。

そして、棒状に戻し、軽く叩く。


衝撃が、跳ね返る。

敵は形を崩し、這いながら後退する。


ーー倒す、じゃない。

“進む”。

それだけ。


恒一は、頭の中で整理する。


(このダンジョンのルールは……戦うことじゃない。

 死なない。倒す必要もない。

 状況に合わせて選択することだけ。

 ……生き延びる、という感覚じゃない。

 “正しい進行”を、探す、ってことか)


敵が再び近づく。

目の前で、無数に分裂する小さな塊。

触手を伸ばして、ぶつかる。


恒一は、ゼロスライムを手で揺らす。

盾状に広げて受け止め、弾く。

跳ね返った敵は壁に当たり、ぷるぷる揺れる。


(……怖くない)


体が自然に動く。

心がざわつかない。

不安も、焦りもない。

あるのは、ただ——


「どう動くか。どう選ぶか」


ゼロスライムが、少しだけ膨らむ。

まるで肯定するように、跳ねる。


恒一は、ほんの少し笑った。


(……これが、自由、ってやつか)


敵が散った隙に、一歩踏み出す。

次の影が迫る。

再び盾を展開し、棒に変え、進む。

ゼロスライムの動きは、自然すぎて、違和感すら感じない。


ーーそう、違和感はあった。


役割のない自分が、世界の外側に立つ違和感。

それは、胸の奥でじわじわと広がる。

だが、同時に、これまで感じたことのない軽さもあった。


(……自由だ)


選ばれない者だけに与えられた自由。

誰も強制せず、守らず、指示もせず。

ただ、選択しろ、と。


次の通路に光が差し込む。

薄い青色の光が、石壁を淡く照らす。

それを見た瞬間、恒一は、確信する。


(……抜ければ、何かが変わる)


理由は分からない。

でも、

世界の方が、先に折れる気がした。


足元のゼロスライムが、ぷる、と震える。

膨らむ形は、盾でも棒でもないーー

まるで拳のような形になり、恒一の意思を待っている。


(……よし)


恒一は、一歩前に出た。

そして、ゼロスライムとともに、次の闘いに進む。


ーー無職の、初めての戦闘は、まだ終わらない。



通路を抜けると、視界が開けた。

低い天井の洞窟。湿った石壁に淡く青い光が反射している。

空気はひんやりとしていて、静寂が支配していた。


「……最奥か」


恒一は小さく呟く。

ゼロスライムを手元で揺らすと、形が自然に変わり、盾状になった。

警戒しながら、しかし落ち着いた足取りで歩を進める。


洞窟の中心に、巨大な影が見えた。

無数の触手を持つ、半透明の塊。

第一戦、第二戦とは違い、敵意が明確に迫ってくる。

だが、致死性は高くない。

ダンジョンが「無職専用」である以上、この戦いも試練の意味合いが強いのだ。


(……相手は俺を試しているだけ)


恒一は深呼吸する。

手元のゼロスライムは、膨らんで拳状に変わる。

軽く振ると、触手が当たりそうになった瞬間に跳ね返す。


「……行くぞ」


衝撃を受け止め、弾き返し、形を変える。

棒に変えて、素早く叩く。

敵は割れるように小さくなり、再び触手を伸ばす。


(……速さと柔軟性、か)


恒一は、冷静に思考を巡らせる。

攻撃は必須ではない。

受ける。弾く。進む。

ダンジョンの仕組みは、戦うことではなく、生き残ることでもなく、選択することにある。


ゼロスライムが、膨らみ、盾に戻る。

触手を受け止め、壁に弾き返す。

次の瞬間、棒状に変化し、敵の一部を叩き潰す。


ーー勝利ではない。進行。

倒す必要も、破壊する必要もない。

ただ、最適な行動を選ぶことが、この世界での生存ルールだった。


そして、最後の一撃。

ゼロスライムを拳状に変え、触手を押し返すと、巨大な塊は静かに縮み、溶けるように消えた。


洞窟全体に、青い光が広がる。

微かな振動が、足元から伝わる。


ーークリア。


恒一は、静かに息を吐いた。

ゼロスライムを膝に抱え、初めて微笑む。


(……これで、レベルが上がるんだな)


水晶が、机の上で淡く光る。

指先で触れると、文字が浮かび上がった。


LEVEL UP → 1

RANK → SSS

ROLL→オールマイティー


文字を見た瞬間、胸に熱いものが込み上げる。

無職。役割なし。評価E。

すべての既成概念を覆す、たった一つの事実。


(……やっと、世界が俺を認めた)


ゼロスライムが、ぷるぷると膨らむ。

まるで、喜んでいるように見えた。

恒一は軽く頭を撫でる。


(……自由。これで、俺は自由に動ける)


だが、静寂を破るように、洞窟の奥で振動が走る。

外部に検知された――通知のようなもの。

青い光が、強く点滅する。


(……あ、見つかったか)


無職専用ダンジョンは、本来、王国の正式な監視対象ではない。

だが、クリアによるレベル変動は、システム的に外部へも記録される。

王国の監視システムが、ゼロスライムの存在を感知したのだ。


「……面倒なことになりそうだ」


恒一は、ゼロスライムの形をゆっくりと元に戻す。

ぴょん、と跳ねる感触が、心を少し軽くする。


(……まあ、いいか。

 どうせ、俺は誰の支配下でもない)


静かな洞窟。

光を反射する石壁。

そして、無職にしか歩けない道。


ーーここから先は、完全に、俺の選択だ。


恒一は、ゆっくりと立ち上がる。

足元で、ゼロスライムが小さく揺れる。

世界が初めて、彼に微笑みかけた瞬間だった。


洞窟の奥で、恒一とゼロスライムは静かに息を整えていた。


だが、外部では小さな異変が起きていた。


王国の監視室。

多数の水晶球が浮かぶ空間で、聖職者たちがモニターのように状況を見守っている。

普段なら、この部屋の光景は安定している。

だが、一つの水晶球が異常な振動を示していた。


「……これは……?」


若い聖職者の一人が、目を見開く。

水晶の光は、これまで見たことのないパターンで点滅している。

そして、通知の文字が浮かんだ。


無職者がレベルアップ、評価SSS


部屋の空気が、一瞬で変わる。

重苦しい沈黙。


「無職……だと?」

「E評価の……?」

「レベル0から1に……?」


ベテランの聖職者がゆっくりと口を開く。

その声には、驚きと危険信号の混ざった響きがあった。


「これは……想定外です」


想定外。

その言葉が、部屋中に重く落ちる。


「無職に、SSS評価……?

 ありえない……!」


別の聖職者が叫ぶ。

手元の水晶球を叩き、光の振動を強める。


「だが、事実は事実だ。

 無職……空野恒一が、我々の監視下で行動した」


彼らは即座に判断を迫られる。

無職。評価E。通常の管理外。

しかし、SSSに跳ね上がったという事実。


「異端……と見なすべきか」


その瞬間、室内の空気が固まった。

“無職”の概念は、王国では危険因子としてしか存在しない。

これが外部で検知されれば、管理不能の異端としてマークされることになる。


「……監視対象外の者が、勝手に評価を上げた。

 これは、王国の秩序に対する挑戦と見なさざるを得ない」


重々しい宣告。

王国の上層部に報告する準備が、すでに進められていた。


ーー無職、空野恒一。

ーー王国の“異端者リスト”に、彼の名前が刻まれ始めた。


その一方で、ダンジョン内の恒一は、まだ静かな呼吸を続けていた。

ゼロスライムが小さく膨らみ、手元で揺れる。


(……向こうで騒いでるな)


恒一は目を細め、少し微笑む。

誰も、まだ追いつけない。

この世界に、まだ誰も立てない立場に自分がいることを実感する。


(……無職の俺を、誰も管理できない)


洞窟の奥、石壁に反射する青い光。

その光は、王国側の監視も、既存のルールも、何も通さない。

自由の証明として、静かに輝いていた。


ーー異端認定のフラグは、すでに立った。

ーーだが、現場の恒一には、まだ届かない。


「……さて」


彼は立ち上がる。

ゼロスライムを膝に抱え、洞窟の奥に視線を向ける。


(次は……どう動くかだな)


世界に規定されたルールの外側。

無職だけが歩ける道。


その一歩を踏み出すとき、恒一の心は、もう迷わなかった。


ーー選ぶのは、俺だ。

ーー誰も、止められない。



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