第2章「役割を持たない者」
――観測対象、確定。
座標:移動経路上
位相:高次干渉開始
対象群:第三世代・集団転移候補
判定を開始する。
京都・奈良の事象は、想定通り複数の可能性として展開された。
聖域反応、問題なし。
役割誘導、正常。
適合率、基準値以上。
ただし――
一点、例外を検知。
個体識別番号:K-001
現地名:空野 恒一
属性未確定。
ジョブ反応、取得不可。
役割割当、拒否。
当初は誤差と判断した。
だが、観測を続行した結果、修正不能と結論づける。
当該個体は、
「与えられた役割」によって安定しない。
むしろ、
役割が確定する直前にのみ、
干渉強度が上昇する。
京都・奈良における分岐は、
本来、確定処理の一部である。
しかし、当該個体は、
分岐そのものを保持した。
未確定のまま。
記録を修正。
京都:可能性A
奈良:可能性B
新幹線移動中:確定点C
世界線を一本に統合する。
処理は問題なく進行した――
はずだった。
だが、確定直前、
当該個体が「線」を視認。
通常、これは不可能。
管理者のみが扱う裁定境界であり、
被観測者が認識することは想定されていない。
例外処理を検討。
――否。
例外ではない。
当該個体は、
「選択される存在」ではなく、
「選択に立ち会う存在」である。
これは、
システム設計外。
警告:
無職(役割未定義)は、
世界安定度を著しく低下させる。
だが同時に、
停滞した世界を再起動させる可能性を持つ。
管理継続か。
切り離しか。
結論は、まだ出ない。
よって、次段階へ移行する。
――仮ジョブ判定を許可。
――転移を実行。
――監視レベルを最大へ。
この個体が、
世界に従うのか。
それとも――
世界そのものを、選び直すのか。
観測を続行する。
*
――ざわめき。
遠くで、人の声が重なっている。
誰かが叫び、
誰かが泣き、
誰かが、状況を理解しようとしている。
恒一の意識は、
まだ、底の方に沈んでいた。
身体が、重い。
まぶたを開けようとしても、
光が強すぎて、拒絶される。
耳だけが、先に世界を拾っていた。
「……ここ、どこ……?」
「……まだ、京都駅着いてないよな?」
「冗談だろ……?」
「先生は!?」
聞き慣れた声。
同級生の声だ。
修学旅行の、
あの新幹線の中にいたはずの声。
でも、音の反響が違う。
教室でも、体育館でもない。
やけに、広い。
「全員、動かないでください!」
齋藤先生の声が、反射的に飛んだ。
教師として、身体が先に動いたのだ。
「人数を――」
そこで、言葉が止まる。
空間の奥から、静かな圧が降りてきた。
「その必要はありません」
突然聞こえてきた声は、穏やかで、断定的だった。
反論の余地を、最初から与えない響き。
齋藤先生は口を閉じた。
次に何を言えばいいのか、分からなくなっていた。
「落ち着いてください」
はっきりとした声が、空間を貫いた。
一人の声なのに、よく通る。
「全員、目を覚ましていますか?」
恒一は、
そこでようやく気づく。
――全員?
自分は、まだ、起きていない。
いや。
起きているのに、
“追いつけていない”。
意識だけが、
ワンテンポ遅れている感覚。
指先に、冷たい感触があった。
床は、磨かれた石だった。
無機質で、人工的な感触。
「……恒一くん?」
名前が呼ばれた。
近い。
すぐそばだ。
必死さを抑えた声。
奈緒だ。
恒一は、
ようやく目を開けた。
視界が、揺れる。
最初に見えたのは、
高い天井。
幾何学的な模様。
円を基調にした装飾。
何らかの宗教施設。
それも、かなり古い様式だ。
次に、視界に入ったのは――人。
クラス全員が、
円陣のように配置されていた。
立っている者。
座り込んでいる者。
泣いている者。
呆然としている者。
そして。
全員が、
自分より“先に”目覚めている。
「気づいた……?」
奈緒が、しゃがみ込んで、こちらを覗き込んでいた。
顔が、少しだけ強張っている。
「大丈夫?」
声をかけられて、
恒一は、ゆっくりと上体を起こす。
頭が、重い。
夢の続きのような感覚が、
まだ、完全には抜けていなかった。
「……ここ、どこだ」
かすれた声。
自分の声なのに、
少し遅れて聞こえる。
「わからない。でも……」
奈緒は言葉を探して、
視線を逸らした。
「急に、光って……気づいたら、ここ」
その説明で十分だった。
全員が、同じ体験をしている。
ただし――
同時ではない。
恒一は、周囲を見渡す。
剣翔は、少し離れた場所で立っていた。
腕を組み、状況を観察している。
迅は、壁際。
無言で、出口らしき場所を見つめている。
祈は、円の中央寄り。
花沢澪と何かを話している。
そして。
皆の視線の先。
円陣の中心に、
“何か”があった。
光の残滓。
床に刻まれた、複雑な紋様。
まだ、微かに発光している。
召喚陣。
その言葉が、
なぜか、自然に浮かんだ。
「……全員、揃いましたね」
先ほどの声の主が、再び話す。
白い法衣。
人間のようで、人間じゃない存在。
顔は整っているのに、
感情の起伏が見えない。
「私は、神の管理を代行する者。
裁定天使、セラフィム・ノード。
あなた方を、この世界へ導く役目を持ちます」
――天使。
恒一の脳裏に、
その単語が浮かぶ。
神の使いかーー。
「あなた方が転移したのは、
サンタクルス世界です」
その言い方は、
地名を告げるようでいて、
そうではなかった。
世界そのものを、
管理対象として呼んでいる響きだった。
「あなた方は、選ばれました」
ざわめきが、一気に大きくなる。
「選ばれたって何だよ!」
「元に戻せ!」
「ふざけんな!」
当然の反応。
だが、その存在は、
一切、動じない。
「安心してください。
あなた方には、それぞれ――」
そこで、言葉が区切られる。
視線が、
一斉に、恒一へ向けられた。
まるで、
今、気づいたかのように。
「……?」
恒一は、理由が分からず、
その視線を受け止める。
白い存在は、
ほんの一瞬だけ、言葉を止めた。
誤差。
想定外。
そんな気配。
「……失礼」
再び、声が響く。
「あなたは、少しだけ――
目覚めが、遅れましたね」
その言い方が、
なぜか、ひどく引っかかった。
まるで、
「仕様が違う」と言われたようで。
「ですが、問題ありません」
そう続けてから、
白い存在は、全員を見渡す。
「これより、
あなた方の役割の判定を行います」
役割。
その言葉を聞いた瞬間、
恒一の胸の奥で――
夢の中で見た、一本の線が、
静かに、再び浮かび上がった。
*
「――では、順に判定を行います」
白い存在が、淡々と言った。
「なお、教員個体については、
本判定の対象外とします」
床に刻まれた紋様が再び淡く光り、
空間全体が、静かに息を潜める。
名前を呼ばれた者から、
一人ずつ、円の中央へ進み出る。
最初に呼ばれたのは――
「白城 祈」
祈は、一瞬だけ周囲を見渡してから、前に出た。
背筋は伸びているが、手はわずかに強張っている。
光が、祈の足元から立ち上る。
白。
柔らかく、温度を感じさせる光。
「判定完了」
白い存在が告げる。
「白城 祈。
ジョブ:聖女
ロール:ヒーラー
評価:SSS」
ざわ、と空気が揺れた。
「うそ……」
「聖女って……」
誰かが、思わず声を漏らす。
祈自身は、
驚いたように目を瞬かせてから、
ゆっくりと息を吐いた。
「……はい」
それだけ答える。
光は、彼女を包み込み、
すぐに消えた。
役割を与えられた者の顔。
戸惑いと、
どこか納得してしまったような表情が、混ざっている。
次に呼ばれたのは――
「守崎 剣翔」
剣翔は、肩をすくめるようにして前に出た。
「やっぱ来たか」
誰に向けたとも知れない、小さな呟き。
光は、今度は黄色。
剣翔の足元に、落ち着いた光が灯った。
眩しさはない。
けれど、それは消える気配もなく、
大地に根を下ろすように、そこに在り続けている。
「守崎 剣翔。
ジョブ:勇者
ロール:ディフェンダー
評価:SSS」
「……まあ、だろうな」
剣翔は苦笑して、
何かを諦めたように頭をかいた。
強さ。
前に立つ役割。
本人が望んだかどうかは別として、
周囲は、自然と納得していた。
次々と、名前が呼ばれていく。
「影山 迅。
ジョブ:暗殺者
ロール:アタッカー
評価:SS」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が、ほんの一拍だけ沈んだ。
誰も、声を出さない。
それが、答えだった。
迅はやや黒みを帯びた赤い光。
花沢澪は聖騎士。
揺らぎのない黄色い光。
火村あかねは剣聖。
燃えるような赤い光。
それぞれが、
「らしい」役割を与えられていく。
そして――
少し間が空いてから。
「星宮 歌羽」
その名前が呼ばれた瞬間、
空気が、微妙に変わった。
歌羽は、
一瞬だけ驚いた顔をしてから、
小さく息を吸う。
「……はーい」
どこか、舞台に上がるみたいな声。
歩き方も、自然と視線を集める。
意識しているのか、無意識なのかは分からない。
光は――青。
音を伴うように、揺れる光。
一瞬、金色に輝いたように見えたが、すぐさま青色のみの光となる。
「星宮 歌羽。
ジョブ:歌姫
ロール:サポーター
評価:SS」
一拍遅れて、
どよめきが起きた。
「え、歌姫?」
「ジョブにそんなのあるのか……?」
歌羽は、
一瞬ぽかんとした後――
「ふふっ、なにそれ」
小さく笑った。
「そっか。歌う役、か」
困ったようで、
でも、どこか受け入れてしまっている声音。
「……やっぱ、逃げられないんだね」
その呟きは、
近くにいた者にしか聞こえなかった。
恒一は、その様子を見ていて、
胸の奥が、少しだけざわついた。
――みんな、もう「置かれている」。
役割の上に、
きれいに。
流川奈緒も呼ばれた。
奈緒の足元から、淡い青がにじむように広がった。
眩しさはない。
けれど、その場の空気だけが、確かに澄んでいく。
巫女として判定される。
「黒葉 夜乃。
ジョブ:魔女
ロール:キャスター
評価:SSS」
何人かが夜乃を見て、
すぐに、視線を逸らした。
見てはいけない気がしたのか、
見ても意味がないと思ったのか――
その違いすら、分からなかった。
夜乃は、
異質なほど静かな黒い光。
崩崎刀磨は、
やや紫がかった禍々しい赤い光で、魔剣士。
天野誠司は、まっすぐな緑色の光で、神官。
九条慧は、きらきら輝く紫色の光で、賢者。
霧島透は、薄くてやさしい青色の光で、吟遊詩人。
それぞれが、
「意味のある位置」に配置されていく。
白い存在は、
淡々と作業を続けていた。
まるで、
最初から決まっていた配列を、
読み上げているだけのように。
そして。
気づけば。
円の中で、
まだ、名前を呼ばれていない者が――
一人だけになっていた。
空野 恒一。
恒一は、
自分が最後だということに、
誰かが気づいた視線を感じる。
さっきまで、
こちらを見ていなかったはずの白い存在が、
今は、じっと恒一を見ている。
「……」
理由の分からない沈黙。
その間が、
やけに長く感じられた。
「空野 恒一」
呼ばれる。
恒一は、立ち上がろうとして――
一瞬、足が動かなかった。
胸の奥で、
何かが、嫌な音を立てた気がした。
役割。
配置。
選定。
ここまで見てきた流れが、
頭の中で、一気に繋がる。
――自分だけ、遅れて目覚めた。
――自分だけ、最後に残った。
それが、意味を持たないはずがない。
剣翔は、口を開きかけて――閉じた。
(……大丈夫だろ)
剣翔は、そう思った。
恒一は、成績も良くて、
あまり目立たないが、生徒会でも確実な位置にいる。
だから、
自分が何か言わなくても、
問題は起きない――はずだった。
そう判断して、
声をかけるのをやめた。
恒一は、
一歩、前に出る。
その瞬間、
床の紋様が――
反応しなかった。
光が、立ち上らない。
ざわ、と空気が揺れる。
白い存在が、
初めて、明確に眉をひそめた。
「……再判定を実行します」
「誤差ではありません」
そう言って、
もう一度、紋様に手をかざす。
けれど。
何も、起きない。
恒一の足元だけが、
ぽっかりと、
“空白”のままだった。
青い光が、視界の端で揺れた。
――ああ。
歌羽は、それを見た瞬間にわかってしまった。
理由なんて考える前に、身体のほうが先に理解していた。
選ばれる人は、いつも同じような感じがする。
立ち方も、空気も、光の集まり方も。
逃げ道なんて、最初から用意されてない気がした。
胸の奥が、少しだけ冷える。
それでも、表情は崩さなかった。
「……そっか」
誰に向けたわけでもない、小さな声。
――やっぱり、逃げられないんだね。
歌羽はそう思って、
視線を前に戻した。
自分が、どちら側に立っているのかを、
もう確かめるまでもなかったから。
白城祈は、一人ひとりの名前が呼ばれるのを待ちながら、
祈るように両手を合わせていた。
修学旅行の班。
ただの行事のための、ただの区分け。
そう理解していたはずなのに、
胸の奥が、わずかに落ち着かない。
理由は、はっきりしない。
視線を上げると、
教室の空気が、ほんの少しだけ変わっている気がした。
ざわめき。
期待。
不満。
諦め。
それらが混じった視線が、
なぜか、自分の周囲を通り過ぎていく。
――気のせい、よね。
祈はそう思って、軽く息を整える。
自分は、ただの生徒会長だ。
まとめ役で、調整役で、
誰かを導く立場ではあっても、
選ぶ側ではない。
そうでなければならない。
それなのに。
名前が並んだ紙、修学旅行のしおりの班分けページが頭に浮かんだ瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
空野恒一。
その名前を見たときだけ、
視線が一瞬、止まる。
「……?」
違和感。
でも、掴めない。
何かが欠けているような、
何かを見落としているような。
祈は、そっと視線を逸らした。
考える必要はない。
班分けに意味なんて、あるはずがない。
意味を持たせてはいけない。
それが、正しい在り方だから。
それでも。
心のどこかで、
**「これは偶然じゃない」**と感じてしまったことだけは、
否定できなかった。
ーー転移する前
白城祈は、顔を上げた。
ちょうどその時、
人垣の向こうで、誰かが掲示板から一歩下がるのが見えた。
空野恒一。
祈は、
その顔を見た瞬間、
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
こちらを見ていたわけじゃない。
ただ、偶然、視線の高さが合っただけ。
それなのに。
ほんの一瞬、
空気が止まったような感覚があった。
恒一の表情は、いつもと変わらない。
驚きも、戸惑いも、期待もない。
ただ――
何かを考えかけて、やめたような顔。
祈は、なぜか視線を逸らせなかった。
声をかける理由はない。
生徒会の用事でもなければ、
班について話す必要もない。
それでも、
「知っている人」では片づけられない距離を感じる。
――恒一くんって、こんな目をしてたっけ。
考えた瞬間、
それ自体が間違いだと気づいて、祈は小さく眉を寄せる。
人は、昨日と今日で変わらない。
変わって見えるのは、こちらの受け取り方だけ。
そう、わかっているはずなのに。
恒一が、先に視線を外した。
それだけで、
何もなかったかのように、世界は動き出す。
誰かの笑い声。
誰かのため息。
廊下を通り過ぎる足音。
祈は、遅れてまばたきをした。
――気のせい。
そう言い聞かせて、
再び、正面をまっすぐに見据える。
意味はない。
意味があってはいけない。
これはただの班分けで、
自分は、ただの一人目に過ぎない。
けれど。
さっき確かに感じたものだけは、
「なかったこと」にするには、少しだけ重すぎた。
*
白い存在は、
空野恒一から視線を外さなかった。
その横で、
聖職者は、周囲の生徒たちへと目を向けていた。
水晶のような装置が、恒一の前でわずかに沈黙した。
ほんの数秒――けれど、妙に長く感じられる間。
《――判定不能》
機械的な声が、そう告げた瞬間、
恒一の中で、何かが音もなく整理された。
失敗ではない。
未熟だからでもない。
ただ――この世界が用意した「役割の一覧」に、自分が含まれていない。
その意味を、恒一は即座に理解してしまった。
胸が痛むより先に、妙な静けさが広がる。
期待されていない。
管理の対象ですらない。
最初から、想定外。
――ああ、やっぱり。
そう思いかけて、
恒一はその考えを、意識の外へ追いやった。
息を吐く。
感情は荒れなかった。ただ、冷えただけだ。
背後で、誰かが小さく息をのむ。
ざわめきが、ようやく広がり始める。
だがその時にはもう、
恒一の中では「答え」は出ていた。
自分は、この世界で与えられる役割を待つ側ではない。
《――ジョブ:無職。評価、E》
続く宣告は、
その理解をなぞるだけの、後付けに過ぎなかった。
*
役割が決まる音は、思っていたより静かだった。
歓声も、雷鳴もない。
ただ、水晶が淡く光り、名前と結果が淡々と読み上げられていく。
それなのに、
その一つひとつが、確実に人を切り分けていくのがわかった。
前に立つ者。
後ろに下がる者。
仲間を見つけて固まる者。
ーーそして、どこにも行けない者。
空野恒一は、広間の端でその光景を眺めていた。
いや、正確には「眺めるしかなかった」。
ここは王国の神殿だという。
高い天井、白い柱、床に刻まれた幾何学模様。
異世界らしい荘厳さがあるはずなのに、
彼の意識に残るのは、
学校の体育館で行われたクラス分けと、よく似た空気だった。
名前を呼ばれ、前に出て、
役割を与えられる。
違うのは、それが、
将来の進路ではなく、
生き方そのものを決めるという点だけだ。
「ジョブとは、この世界における役割です」
聖職者の声が、広間に響く。
丁寧で、優しくて、疑う余地がない。
聖職者は神殿司祭エドガーと名乗った。
「役割を得ることで、人は成長し、世界に貢献します」
誰も反論しない。
反論する理由が、最初から存在しない。
恒一も、黙って聞いていた。
ーー役割。
その言葉は、彼にとって馴染み深い。
中学生として。
クラスの一員として。
特別ではない、という役割として。
だからこそ、
この世界の説明は、驚くほどすんなり理解できてしまった。
(……ああ、これ)
パーティー編成と役割分担。
ゲームとかで、何度も見たやつだ。
理解できてしまったからこそ、
胸の奥に、小さな違和感が残る。
(……じゃあ)
もし、その役割に当てはまらなかったら?
誰も、そうは言わない。
誰も、そうなる前提で話していない。
水晶は光り続け、
世界は正しく回っているように見えた。
その輪の中に、
自分が含まれていない可能性など、
まだ誰も口にしていなかった。
恒一は、
自分の番が近づいていることを示す列の動きを見つめながら、
理由のわからない息苦しさを覚えていた。
ーーこれは、選ばれる儀式だ。
そのことに気づいていたのは、
今のところ、
彼ひとりだけだった。
*
聖職者は、水晶盤の隣に立ったまま、
祈るように両手を胸の前で組んだ。
「安心してください」
その第一声が、
すでに“慣れている言葉”だった。
「この世界では、役割が皆さんを守ります。
魔物と戦い、国を支え、生き延びるために――
役割は必要不可欠なものです」
水晶盤の表面に、光の文字が浮かび上がる。
剣を構えた戦士。
盾を持つ門番。
弓を引く狩人。
光を放ち癒やす僧侶。
杖を掲げる魔術師。
「ジョブとは、その人が最も力を発揮できる立場。
ロールとは、集団の中で果たす機能です」
機能。
その言葉に、恒一は小さく眉を動かした。
「アタッカーは敵を倒す者。
ディフェンダーは仲間を守る者。
サポーターは流れを整える者。
ヒーラーは命を繋ぐ者。
キャスターは世界法則を行使する者」
説明は簡潔で、よどみがない。
長年、何度も繰り返されてきた言葉なのだろう。
「ロールを理解し、従うことで、
皆さんは無駄なく成長できます」
無駄なく。
「ダンジョンは、そのために存在します。
危険はありますが、
役割を果たす限り、命を落とすことはほとんどありません」
“ほとんど”。
誰かが、安堵の息をつく。
誰かが、胸を張る。
すでに光を与えられた者たちは、
自分の立ち位置を無意識に確認していた。
「評価ランクは、
その役割に対する期待値です」
今度は、文字ではなく、
アルファベットの列が浮かぶ。
SSS。
SS。
S。
A。
B。
C。
D。
「高い評価は、
大きな力と責任を意味します。
低い評価であっても、
役割を果たすことで、必ず上がっていきます」
必ず。
その言葉は、
疑問を挟む余地を与えない。
「この世界は、
皆さんを見捨てません」
聖職者は、穏やかに微笑んだ。
「神が定めた役割が、
皆さんを導きます」
恒一は、その笑顔を見つめながら、
奇妙な既視感を覚えていた。
ーー進路指導。
ーー適性検査。
ーー将来のため。
言葉は違う。
規模も違う。
けれど、
仕組みは驚くほど似ている。
「役割がある限り、
人は迷いません」
その言葉を聞いた瞬間、
恒一の胸の奥で、
さっきよりもはっきりとした違和感が生まれた。
(……じゃあ)
役割が、なかったら?
迷うのか。
切り捨てられるのか。
それとも――最初から、数に入らないのか。
聖職者の説明は続く。
国の名。
神殿の権威。
王国がいかに合理的で、安全で、正しいか。
どれも、間違っていないように聞こえた。
だからこそ、
恒一は思ってしまう。
(この世界は……
“役割のある人間”のために、
完璧にできている)
その流れの中で、
恒一は自分の足元だけが、
少しずつ世界から浮いていく感覚を覚えていた。
ーーここには、
役割を持たない者の席がない。
その事実だけが、
やけに静かに、
確かな重さを持って胸に残っていた。
*
ーー少し前に時を遡る
(まだ、全員が整列する前のことだ)
水晶盤が、恒一の名前を映し出した。
「空野恒一」
呼ばれて、前に出る。
足取りは不思議なほど落ち着いていた。
胸が高鳴っているわけでもない。
期待しているわけでもない。
ただ、
自分の番が来た。
それだけだった。
水晶の前に立つ。
白い光が、彼の足元からゆっくりと立ち上っていく。
ーーいつも通りだ。
直前までの流れと、何も変わらない。
剣を持つべき者がいて、
癒やしの光を宿す者がいて、
役割は、当然のように与えられてきた。
だから、
最初の異変は、
誰も気づかないほど些細だった。
水晶が、反応しない。
光はある。
だが、形にならない。
文字が浮かび上がらない。
聖職者が、わずかに眉をひそめる。
それは、これまで一度も見せなかった表情だった。
「……」
広間が、静かになる。
誰かが咳払いをした。
誰かが、足を組み替えた。
恒一は、水晶を見つめていた。
(ああ)
胸の奥で、
さっきまで輪郭のなかった違和感が、
静かに沈んでいった。
水晶が、ようやく光を変えた。
淡く、弱く、
まるで決めかねているように。
浮かび上がった文字は、短かった。
**無職**
その瞬間、
空気が一段、落ちた。
ざわめきはない。
驚きの声もない。
ただ、
誰も反応の仕方を知らなかった。
「……」
聖職者は、言葉を探している。
それが、はっきりと分かった。
「無職、とは……」
初めて聞く説明を、
その場で組み立てている声だった。
「特定の役割を持たない、状態を指します」
状態。
「現時点では、戦闘・支援・補助のいずれにも分類されません」
分類されない。
「評価ランクは……」
水晶を見て、聖職者は一瞬だけ言葉を切った。
「E、となります」
E。
最低評価。
「レベルは……0です」
レベル0!?
1ですらない!?
誰かが、息を呑む音がした。
誰かが、そっと視線を逸らした。
夜乃は、
無職という宣告を聞いても、
表情を変えなかった。
ただ、
視線だけが一瞬、
天使のほうへ向いた。
恒一は、
自分が今、どこに立っているのかを理解した。
(なるほど)
役割がないのではない。
評価が低いのでもない。
(ここには)
役割を持たない者の、
“前提”がない。
だから、
説明が追いつかない。
扱いが決まらない。
居場所が、最初から用意されていない。
(……変だ)
そう思った瞬間、
祈はその考えを打ち消した。
役割は、神が決めるもの。
疑う必要なんて、ない。
でもーー
「……安心してください」
聖職者は、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
だが、声の調子は、微かに違っていた。
「今後の行動については、改めて――」
その言葉を聞きながら、
恒一は、ゆっくりと一歩下がった。
前に出る理由は、もうなかった。
振り返ると、
役割を与えられた者たちは、
すでに自然と集まり始めている。
勇者の周り。
聖女のそば。
それぞれの役割が、
それぞれの場所を作っていた。
ジョブ判定により、力を得たという実感はあった。
だが、王城を満たす空気は、それを振りかざしていいほど軽くはない。
周囲にいる甲冑越しに向けられる騎士たちの視線が、それを静かに教えていた。
その輪の外で、
恒一だけが、立っていた。
ーー選ばれなかった。
いや、正確には違う。
(選ばれなかった、んじゃない)
この世界は、
最初から、
自分を選ぶつもりがなかった。
その事実だけが、
静かに、
はっきりと、
胸に残っていた。
*
しばらくの間、
誰も何も言わなかった。
儀式は止まらない。
止める理由が、ない。
聖職者は咳払いを一つして、
何事もなかったかのように次を促した。
「では、続けます」
その一言で、
場の空気が、ゆっくりと動き出した。
ーー正しい流れ。
恒一は、
そのすべてを一歩引いた場所から見ていた。
自分だけが、
列から外れている。
不思議なことに、
誰かに押し出されたわけではなかった。
「……」
近くにいたクラスメイトが、
何か言いかけて、やめる。
声をかける理由が、
見つからない、という顔だった。
「実は……前に、いたらしい、
王国に逆らうようなこと言ったやつ」
「そんな話、いつ誰から聞いたんだよ?」
「とにかく、王国に逆らったらヤバいんだって」
「そいつ、その後どうなったんだ……」
それ以上は、誰も口にしなかった。
同情するには、
状況がよく分からない。
励ますには、
前提が共有されていない。
だから、
何も言わない。
その選択が、
この場では一番自然だった。
恒一は、
そのことが一番よく分かってしまった。
(……正しい)
今は、
触れないほうがいい。
今は、
話題にしないほうがいい。
そう判断される立場に、
自分はなったのだ。
視線が、流れる。
露骨に避けられているわけじゃない。
ただ、
目が合いそうになると、
ほんの少しだけ逸らされる。
それだけで、
距離は、十分だった。
勇者として名を呼ばれた剣翔の周りには、
自然と人が集まっていく。
「一緒に行こうぜ」
「同じディフェンダーだな」
「回復役、誰だ?」
「……強いジョブ引いたからって、
何してもいいわけじゃないよな」
「調子乗ったやつ、
さっきから教会の人に見られてるし」
未来の話。
役割の話。
前提が共有された会話。
剣翔は、前に立っていた。
視線を集める位置。
期待される位置。
その場所から振り返れば、
誰かを選ぶことになる。
だから、
振り返らなかった。
その輪の中に、
恒一の席はない。
聖女として選ばれた祈も、
誰かに声をかけられていた。
真剣な顔で、
うなずきながら話を聞いている。
その途中で、
一度だけ、
恒一の方を見た。
ほんの一瞬。
確認するような視線。
でも、
彼女は何も言わず、
すぐに視線を戻した。
ーーそれが、正解だと知っている顔だった。
歌羽は、
少し離れた場所で立ち尽くしていた。
誰かに呼ばれてもいない。
でも、
誰とも組まないわけにもいかない。
迷っている、
というより、
居場所を測っているような立ち姿。
彼女はまだ、
輪の外と内の境目にいる。
恒一は、
それを見て、
少しだけ目を伏せた。
(巻き込むな)
自分の状況に、
誰かを引きずり込む理由はない。
だから、
自分から声をかけることも、
しなかった。
儀式が終わる頃には、
自然と配置が決まっていた。
前に立つ者。
中心にいる者。
支え合う者。
そして、
余った者。
恒一は、
その「余り」の中にすら、
完全には含まれていなかった。
余りは、
役割がある者同士で生まれる。
役割がない者は、
そもそも計算に入らない。
聖職者が、
全体を見渡して言った。
「本日中に、
主要な編成を行います」
主要。
恒一は、
その言葉の意味を、
誰よりも正確に理解した。
自分は、
そこに含まれていない。
誰もそう言わない。
誰もそう決めていない。
でも、
すでに決まっている。
世界が、
そういう仕組みだから。
ーー聖職者が経験値に関する説明を始めた。
「勘違いしている方が多いので、先に言っておきます」
広間のざわめきが、わずかに静まる。
叱責ではない。
だが、前提を正す声だった。
「経験値は、個人のものではありません。
“パーティー単位”で与えられます」
誰かが、小さくうなずく。
ゲームの知識と重ねて理解したのか、
あるいは、すでに知っていたのか。
「基本配分は等分。
ただし、戦闘への関与が低い者は、多少減ります」
その瞬間、
前に立つ者と、後ろに控える者の距離が、
ほんのわずかに広がった気がした。
誰も動いていない。
それでも、立ち位置だけが、自然と定まり始める。
「人数が多ければ、一人あたりの成長は鈍る」
視線が、勇者の背中へと集まる。
そこに立っているだけで、
編成の中心が決まってしまう存在。
「だから――」
聖職者は、少しだけ言葉を区切った。
「無駄に多い編成は、
神の与えた機会を薄めるだけなのです」
その言葉が落ちた瞬間、
誰も反論しなかった。
合理的だ。
正しい。
だからこそ、異を唱える理由がない。
そして、
恒一だけが気づいていた。
この説明は、
まだ始まってもいないダンジョンの話でありながら、
すでに――
「誰が必要で、誰が不要か」を、
静かに選び始めている。
恒一は、足の裏にわずかな違和感を覚えた。
前に出るでもなく、
後ろに下がるでもない。
ただ、
立っている位置だけが、
この場から浮いている気がした。
剣翔が前に立つだけで、空気が整う。
誰が盾役で、誰が支援で、誰が後衛か。
言葉にしなくても、配置が決まっていく。
それが正しいのだと、誰もが理解している。
恒一だけが――理解できなかった。
勇者がいる。
それだけで、
未来が保証されたような空気があった。
……大丈夫だ。
そう思った瞬間、
胸の奥で何かが、ほんの少しだけ軋んだ。
恒一は、
静かに息を吐いた。
驚きはなかった。
怒りもなかった。
ただ、
確信だけがあった。
ーーここから先は、
自分で選ばなければならない。
役割が、
与えられないのなら。
その時初めて、
彼は、
ほんのわずかにだけ思った。
(……自由だ)
それが、
救いなのか、
罰なのかは、
まだ分からなかったけれど。
世界が変わっても、昨日まで自分たちは中学生だった。
支配なんて言葉は、まだ現実感を持てる距離にない。
*
パーティー編成、配置が、ほぼ固まった頃だった。
広間の奥で、
歌羽が一歩、こちらに向かって動いた。
ほんの一歩。
でも、それは明確な「意思」のある動きだった。
恒一は、
その気配に気づいて、
視線を上げる。
目が合った。
歌羽は、
何か言おうとして、
口を開きかけた。
「……」
声は、出なかった。
代わりに、
彼女の視線が、
一瞬だけ周囲を走る。
祈。
剣翔。
聖職者。
他のクラスメイト。
ーー全員が、
それぞれの“役割の位置”にいる。
ここで恒一に声をかけることが、
何を意味するのか。
歌羽は、
それを理解してしまった。
一歩踏み出せば、
自分もまた、
「役割の外側」に立つ可能性がある。
歌羽は、
唇を噛んだ。
恒一は、
その仕草を見て、
すべてを察してしまう。
(……いい)
言葉にはしない。
視線だけで、
そう伝えたつもりだった。
歌羽の肩が、
ほんの少しだけ下がる。
そして、
彼女は足を止めた。
一歩分の距離が、
それ以上、縮まらなかった。
次の瞬間、
聖職者の声が、
広間を満たす。
「それでは、
編成ごとに整列してください」
その指示は、
歌羽にとっても、
逃げ道だった。
彼女は、
一度だけ、
恒一のほうを見る。
言いたいことは、
たぶん、
たくさんあった。
「大丈夫?」
「一緒にいようか」
「あとで話そう」
どれも、
今は言えない。
歌羽は、
何も言わず、
自分の列へと戻っていった。
背中が、
少しだけ硬い。
列が動く。
人の流れが、
恒一と歌羽の間を、
静かに引き裂く。
恒一は、
その光景を見届けてから、
ゆっくりと目を閉じた。
責める気はなかった。
歌羽が悪いわけでもない。
むしろ、
声をかけようとしたこと自体が、
この場では異端だった。
(……十分だ)
そう思えたのは、
本心だった。
誰も来なかった。
でも、
誰も考えていなかったわけじゃない。
それが、
分かっただけで。
目を開けると、
歌羽はもう、
人の輪の中にいた。
役割のある場所。
守られた位置。
そこが、
彼女の居場所だ。
ーー少なくとも、今は。
配置は、自然に決まっていった。
誰が前に立つのか。
誰が守るのか。
誰が支えるのか。
それは、相談ですらなかった。
……正解が、最初から存在しているみたいだった。
だからこそ。
恒一には、その輪郭が見えなかった。
恒一は、
一人だけ残された場所で、
静かに息を吸った。
ここから先は、
完全に別の道だ。
誰かに手を引かれることはない。
誰かの背中に隠れることもできない。
でも。
(選ぶのは、俺自身だ)
そう思えたことだけが、
奇妙に、心を支えていた。
*
整列が終わったあと、
恒一の名前が、もう一度呼ばれた。
今度は、
水晶でも、
祝福でもなかった。
「空野 恒一」
聖職者の声は、淡々としている。
感情を乗せないことに慣れきった響きだった。
「こちらへ」
示されたのは、
整列した列の先ではない。
神殿の側面。
白い柱の影に隠れるように設けられた、
細い通路だった。
「空野恒一については、
標準運用から外れます」
ざわり、と空気が揺れる。
誰かが、何か言いかけて、
すぐに口をつぐむ。
無職。
その言葉は、
もう、全員が聞いている。
「あなたは、
このままでは処理できません」
恒一は、
一瞬だけ、広間を見渡した。
歌羽。
祈。
剣翔。
夜乃。
迅。
刀磨。
奈緒。
それぞれが、
それぞれの役割の場所に立っている。
目が合いそうになって、
すぐに逸らされる視線。
同情。
困惑。
安堵。
――そして、何もできないという諦め。
「空野――」
齋藤先生が呼びかけかけて、
その声は続かなかった。
恒一は、
軽く肩をすくめた。
「……了解です」
それだけ言って、
指示された通路へと歩き出す。
勇者がいれば、大丈夫だ。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
「大丈夫だ」と思えることが、
どうして少しだけ怖いのか、
恒一には分からなかった。
「恒一は……」
「誰かのために無理しなくていいから」
突然、歌羽がそう叫んだ。
その言葉に、救われた気がした。
そして同時に――
逃げ道をもらった気もした。
背中にクラスメイトたちの視線を感じた。
だが、振り返らなかった。
振り返ってしまえば、
ここが「別れの場所」だと、
はっきりしてしまう気がしたからだ。
通路は、
広間よりもずっと狭く、
音が吸われるように静かだった。
白い壁。
足音。
自分の呼吸。
誰も、
追いかけてこない。
聖職者が、
少しだけ距離を取って後ろにつく。
「無職の方には、
王国としての別の対応があります」
事務的な説明だった。
「危険ではありません。
ですが、通常の運用とは異なります」
通常。
その言葉に、
少しだけ笑いそうになる。
「……役割がないから、ですか」
聖職者は、否定しなかった。
「役割がないということは、
想定外である、ということです」
想定外。
「この世界は、
役割を前提に作られています」
恒一は、歩きながら思う。
(知ってる)
だから、息苦しかった。
だから、ここに立っている。
通路の先に、
小さな扉があった。
広間とは違い、
装飾も、祈りの紋章もない。
ただの、
区切り。
「ここから先は、
別の者が案内します」
扉が開く。
その向こうは、
広間の喧騒が嘘みたいに遠かった。
恒一は、
一度も振り返らず、
中へと足を踏み入れた。
扉が閉まる音が、
静かに、確かに響いた。
ーーそれが、
クラスから切り離された音だった。




